フォーカス
「正義」という思考停止を越えて
千房けん輔(エキソニモ/アーティスト)
2019年11月15日号
対象美術館
あいちトリエンナーレ2019(以下、あいトリ)の参加作家であるexonemoは、1996年、インターネットが普及し始めた頃に、ネットアートの分野で活動を開始。その後もネットと現実世界の境界をテーマにするような作品や「インターネットヤミ市」などのイベントオーガナイザーとして活動を続けている。2015年にニューヨークに拠点を移し、欧州やアジア含め、世界のさまざまな都市で活動を展開。あいトリでは、ネット社会から「情の時代」を象徴するような作品《The Kiss》をメイン会場のエントランスで展示していた。(artscape編集部)
日本・民主主義・現代アート
あいトリの「表現の不自由展・その後」展示中止にまつわる騒動には色々考え、勉強させられた。あまりにいろんなことが立て続けに起こったのでここではその個別の出来事については書かない。いま、ひとつ心に浮かぶ事は「日本と民主主義」、または「日本と現代アートとの相性の悪さ」だ。
民主主義は言わずと知れた、市民が主権を持ち社会を支配する社会制度のことだ。王様とか貴族が社会のルールを勝手に決めるのではなくて、市民が自分たちでルールを決める。そのシステムをうまく動かすためには、まず市民が賢くなくてはいけない。市民がバカでその場のノリで動いていたのではあっという間に社会が崩壊してしまう。そのために一人ひとりが、たゆまなく勉強し続けなくてはならない。あとは生物でも多様性がないと環境の変化についていけなくなるように、多様な意見を生み出し、それらを議論させなくてはならない。つまり一人ひとりが自分の意見を持って、それを議論させていくことで社会の方向性を決める制度だ。そのためには、偏った情報で視野が狭まらないためにも、情報を知る権利が重要になるし、表現の自由が保証されなくてはならない。それらを一人ひとりの市民に課すという恐ろしくコストの高いシステムだ。
ここまで書くと、これが日本社会の習慣と真っ向から対立するのが分かる。日本の社会は、みんなが同じであることを「和」として尊重し、他人と違う意見を持つことを「和を乱す」として敬遠する。同調圧力、忖度、空気を読め、全部「個であることを捨てよ」とメッセージしてくる。現代アートが日本で嫌われがちなのも、それ自体が「一個人が他人と違う考えを持って発表する」という前提の上で成り立ち、その「独自性」を重要視しているものだからだ。これもまた日本社会の性質と相性が悪い。一人だけ違う意見を持っている奴=変な奴=社会的脱落者と見なされる。
そう考えると現代アートが個を重んじる西洋で主に発展したのも納得ができる。つまり個人個人が違う考えを持つためには、自分とは違う他人の意見を知ることが重要だからだ。そのためのツールとして現代アートは上手く機能する。時にはまったく理解不能な自分とは違う考えをそこに見つけることで、自分の考えを相対化したり、新しい切り口を見つけたりできるからだ(そういう意味では理解不能なアイデアこそ意味がある)。西洋圏と日本とで展示をした場合の反応の違いからもその傾向が見て取れる。日本では作品に対して「解答」を求めてくる人が多い。そしてその解答が社会的な物差しに照らし合わせて、合っているかどうかで作品の良し悪しを「判定」する。それに対して西洋圏での展示では、作品は鑑賞者それぞれが持っている問題意識に照らし合わせて咀嚼される。だからあくまで「いい作品かどうか」の基準はそれぞれの鑑賞者のなかにしかない。 食事に例えると、前者がフランス料理のフルコースを審査員として判定するのに対して、後者は主食を持参すればおかずが提供されるパーティに参加する、という感じに近い。審査員としてフルコースの良し悪しは、フランス料理の物差しに沿って判断する訳だが、主食持参パーティの場合、「ご飯とこのおかずが合う」とか「パンには合わなかった」とか、そういうことが個々に起きるし、体験の中心がそこにいる他者とのコミュニケーションになってくる。
ヨーロッパが革命によって民主主義を手に入れたのに対して、日本は戦争に負け、外圧によって民主主義(いまにつながるいわゆる戦後民主主義)が導入されたというのも大きな違いだ。大半の人にとっては急に「明日から民主主義ですよ」と言われて、対応させられたようなものだ。ただし、やるとなると上手いこと器用にやれてしまうのが日本人で、とりあえずそれっぽく取り繕えてしまった。そして、そこで発生した矛盾点は蓋をされ先送りにされてしまった。
教育の現場で自分の記憶にあるのが、小中学生の時に社会の仕組みを教えるべき「社会科」で習った事は、ひたすら年号の暗記「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府(そしてのちにその年号は修正されてしまったわけだがw)」の繰り返し、又はどんな将軍がどんな戦争をして勝ったの負けたの、そしてそこに時間を割きすぎて学期の終わりに駆け足で近現代史をやる。その時に「民主主義の基本」のようなことはほとんど習った記憶がない。(先生も生徒も市民が主役になった近代よりも、強くてかっこいい将軍に統治されていた時代の方に興味があるみたいだ)
もちろん、民主主義が正しいかどうかもわからないし、完成されているとも言えない。それは西洋で発明された、今までのところ、そこそこうまく(共同体のなかで個人の幸福を最大化させるという目標において)機能するシステムでしかない。それをそのまま文化が違う日本やアジアに持ち込んで機能するのかどうかは、常に検討し続けないといけない。更に言えば、現在は西洋文化圏でも民主主義がうまく機能しなくなってきている。インターネットの登場によって劇的に変わったメディア環境、情報の流れ、権力構造の変化によって、ポピュリズムが席巻して機能不全に至りつつある。
インターネットがもたらしたもの
「Power to the people」というスローガンがある。権力者から市民に力を取り戻せという掛け声だ。インターネットが、そしてソーシャルメディアが誰しもに発言できる機会を作り、文字通り「Power to the people」を実現してきた結果、ポピュリズムの暴走が起こり、ブレグジット、トランプ現象、移民排斥ヘイト、ナショナリズムなどが吹き荒れ、出口のない閉鎖回路に社会が戻ろうとしている。つまり民主主義はインターネット以前の、限られたエリートが支配でき、無知な民衆がミュートされた情報環境で上手く機能するシステムだったのかもしれない(そういう意味で、ネットは人類には早すぎたのかもしれないとも思う)。
そして、あいトリの騒動のなかで感じたのは、日本のなかに天皇に対する信仰心が強く残っているという事だ。抗議の対象の多くが天皇のイメージを燃やす大浦作品に対してだったり、それをしているのがいわゆる「ネトウヨ」的な人たちだけではなくて、普通の良識的なひとたち(主に高齢者)も多く含んだりしたことからもそれが窺われた。戦後の民主化とともに、天皇は「人間宣言」し、神としての存在から象徴としての存在になったとはいえ、人々の心情はそう簡単には変わらない。それが75年前に起こり、同時に始まった戦後民主主義がいまだに根付いていないという状況と照らしても、社会が本当に変わるのには時間がかかるものなんだと感じる。僕があいトリ騒動のなかで一番強く感じた違和感もここにある。今回の大浦作品に対する問題は、民主主義社会のなかでの表現の自由の問題というよりも、この国の宗教感覚、もしくは心情や信条の問題の側面が強いのではないかと(そしてそれを利用した政治家は大きな問題である)。
アートは「正義」という名の思考停止を解除する
シャルリー・エブド事件というものがあった。フランスの風刺新聞がイスラム教への風刺を(抗議を受け続けても)表現の自由を盾にやり続け、最終的にイスラム過激派に襲撃され多数の死者を出した(2015年1月7日)。民主主義のなかでは表現の自由を守る事は正しい事だったかもしれない、でもイスラム社会の人たちにとってもそのルールは当てはまるのか。そういう想像力がそこにあったのだろうか。民主主義にとって表現の自由が正義だとしたら、イスラム社会のなかにも彼らの正義がある。違う社会の正義と正義がぶつかったら、戦争をするか、「お前の国に帰れ」となってしまう。
民主主義も、その原理を疑う事なく信じるのならば、ほとんど宗教だと言っていいだろう。民主主義国家ではない中国が最近台頭してきているように、状況は複雑になりつつある。特にインターネットという破壊的なテクノロジーの後には、何かしらかのアップグレードが必要だ。その時に個人的には「個を尊重する」民主主義に発展してもらいたいが、その際には理想論だけで走らずに、人間の「情」の部分もうまく取り込まないといけない。複雑なものを複雑なまま扱えるシステム、それはAIや量子コンピュータの技術(そこにアートが組み合わさったり?)によって実現されるかもしれないし、そこには、少なからず人間の持つ動物性や知能の限界を上手いことハンドリングする仕組みが組み込まれる気がしている。
しかし、ほとほと「正義」というものの厄介さに、嫌気がさしている。
アートとは、「正義」を信じる事で思考停止する、その真逆にある行為なんじゃないだろうか。それは常に揺らぎ、定まらず、悩み続け、無様でかっこ悪くて、でもだからこそ触れてみる価値のあるもの。「正義」をホストするシステムの外側にあるもの。異なる習慣、心情、信仰を持つ人たちの「正義」という名の思考停止を解除して、次のレベルのコミュニケーション作りの土台になる視点を見つけること。今回のあいトリの騒動から、自分含め日本のアーティストが学んだ事はとても多かったと思う(もちろんアート関係者、アートファンも)。これから先、分断の深まる社会のなかで、アートが果たす役割が大きくなってくる事を想像する。その時にはアーティスト自身も、形式化した正義感にとらわれる事なく、あくまで世界のたった一人の奇抜なアイデアかもしれないものを育みながら、分断の向こう側と接続し続ける態度が大切になってくると信じる。
奇しくも、メイン会場のロビーにあったことで、問題の中心ではないのにいろいろなメディアにイメージが拡散されたエキソニモ作品《The Kiss》。スマホの画面に顔を写して、合わせる事で「キスをしている」状況を作るという現在の断絶的なコミュニケーションを象徴する作品でもある。複数の作家が展示を取り下げるなか、最後まで展示を続けることを決めたのは、そんな複雑な状況であってもコミュニケーション(を象徴するキス)を続ける事にこそ希望があると考えたからだ。
あいちトリエンナーレ2019 情の時代
会期:2019年8月1日(木)〜10月14日(月・祝)
会場:愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、名古屋市内のまちなか(四間道・円頓寺)、豊田市(豊田市美術館及び豊田市駅周辺)ほか
公式サイト:https://aichitriennale.jp/