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記憶と忘却の境界に「民話」は潜む

畑中章宏(民俗学者、作家)

2020年01月15日号

ドキュメンタリーは事実がそのまま記録されるわけではない。撮影や編集の段階で、演出が行なわれ、編まれ、フィクションが介入していくものである。それは人の記憶と語りそのものに無意識のうちにフィクションが介入しているのと近しい。そのフィクションと事実のあわいのなかで、私たちは過去・現在・未来の時間を自由に行き来するのだ。
2月7日からはじまる第12回恵比寿映像祭のテーマは「時間を想像する」。映像作家が見せる独自の時間の感覚を、現代社会の局面から生まれている新しい時間の概念を、出品作品のなかに発見することができるだろう。
今号ではそのなかでも、東日本大震災の後、記憶が宿るはずの風景を奪われた土地で生きていく人々の語りをもとに、インスタレーション、出版、映像とさまざまな形で作品を発表している小森はるか+瀬尾夏美の新作について、民俗学者の畑中章宏氏にご寄稿いただいた。(artscape編集部)


小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)
[Photo: Tomomi Morita]


「忘れようとしても思い出せない」

今から約9年前に起こった大震災以来、多くの人々が「記憶」や「忘却」の問題に囚われ、その囚われをどのように表現すればよいかについて糸口を模索している。こうした事態に関して、私は「忘れようとしても思い出せない」という言葉をめぐる文章を書いたことがある(『21世紀の民俗学』[KADOKAWA、2017]に収録★1)。

「忘れようとしても思い出せない」と言うとき、何かを思い出そうとしているのか、あるいは忘れようとしているのか、そのどちらでもないのか不明である。上方漫才の大御所、鳳啓介がギャグとして用い、赤塚不二夫が天才バカボンのパパに言わせたこの不条理な言葉は、人を落ち着かない気持ちにさせる。「記憶の継承」や「経験の伝承」とやすやすと口にするけれど、いつまでも記憶しておく必要が本当にあるのか。あの地震と津波の経験は、そんな宙ぶらりんで腑に落ちない言葉でしか表しえないものだという気が、私はずっとしている。

民俗学では、歴史的記録や文字資料からこぼれ落ちた口頭による伝承、「言い伝え」られてきたことは、民俗社会を記述する重要な素材であるとされてきた。つまり、民俗学は「記憶」を扱う学問だと言い換えることもできる。

たとえば、あの大きな地震と津波のあと、被災地に幽霊が出現するという話がいくつも語られ、採集された。大災害の「記憶」はそうした幽霊譚、亡霊譚のなかに込められているのだと評価する民俗学者もいる。

日本の民俗学の発端に位置する柳田国男の『遠野物語』(1910)にも、1896年に起こった明治三陸津波で亡くなった死者が登場する話があり、2011年3月の震災後の幽霊譚もこの話と重ね合わされたりもした。

しかし、「民話」は本来、あるひとりの経験によって生まれてくるのものではなく、複数の人々の経験の束から、あるいは共同体を単位として経験されたような出来事を抽象化し、寓話化したうえで、紡ぎ出されてきたはずだ。

第12回恵比寿映像祭で上映される小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』は、そういう意味での「民話」を強く意識した作品である。

映像作家の小森と画家で作家の瀬尾のふたりは、2011年4月に三陸沿岸にボランティアで訪れたことを契機にユニットを結成。2012年4月に岩手県気仙郡住田町へ移住し、岩手県陸前高田市を中心に風景や人々の言葉を記録し続けている。



小森はるか+瀬尾夏美「あたらしい地面/地底のうたを聴く」ギャラリー・ハシモト(2015)



『二重のまち/交代地のうたを編む』は、2031年の陸前高田を舞台に瀬尾が描いた物語『二重のまち』を、2018年の陸前高田へ赴いた4人の旅人が、その物語の朗読を試みるなかでおこなう「発話」を、小森が映像にとらえた作品である。


瀬尾夏美『二重のまち』(2015)



4人の旅人は男女二人ずつで、演劇や舞台にかかわる若者たちのようである。彼らは15日間の滞在期間中に、被災経験を持つ人々と会話を重ねる。この15日間というのは、長いか短いか。三陸に移住して数年以上経つ小森と瀬尾は、自分たちの体験を相対化し客体化するため、この微妙な滞在期間を選んだのかもしれない。


民俗学と記録メディアの変遷

日本の民俗学においてもメディアの発達にともない記録の手段は変化してきた。明治から大正時代を揺籃期とするため、民俗記録に重んじられたのは写真より絵画、スケッチだった。美術表現に優れた今和次郎、早川孝太郎、橋浦泰雄などは、その才能から柳田国男に見出され、民俗記録を期待されたとも言える。

その後カメラの普及により、現実を直接的に映し出す写真による記録が、この世界でも席巻していくことになる。しかし、『日本の民家──田園生活者の住家』(1922)で絵による説明を採用していた今和次郎は、1923年に発生した関東大震災の直後、被災地に建ち始めたバラックを最初はカメラで撮影したが、まもなくペンに持ち替える。そこには「民俗」を記録するうえにおいては、写真の真実性より、絵による把握の方が本質に迫れると考えたからであろう。

もちろん写真記録が疎かにされたわけではなく、木村伊兵衛、濱谷浩、土門拳など「報道写真家」による撮影行為は、記録にとどまらず表現の域にも達した。また『忘れられた日本人』などの著作で知られる民俗学者の宮本常一は、小型カメラを操り、10万点もの写真記録を残した。

昭和に入ると民俗学でも映像による記録が広まる。宮本常一が所属したアチック・ミュージアムの創設者で実業家でもあった渋沢敬三や、渋沢に師事した宮本馨太郎は数多くの民俗誌映像を残した。民族文化映像研究所を創設した姫田忠義も、日本列島各地の生活文化を記録し続け、100本以上にのぼる映像作品を残している。

静止画である写真に対して、映像=動画は祭や行事の次第や所作、伝統的技術の記録などに向き、大きな力を発揮した。一方、代わり映えのしない生活時間を写し取るには写真の価値も揺るがなかった。そんななかで佐藤真監督の映画『阿賀に生きる』(1992)は民俗的でゆるやかな時間を映像により表現しえた稀有な例である。

「民話」の生成に立ち会おうとする旅

民俗学における「民俗」とは人々の“ありのまま”の暮らしのことを言い、ふつうの人々のありのままは、日常生活のなかにこそ現れている。そうした「民俗」に対して災害は究極の非日常であり、災害に際して人々の行動や感情もまた特殊である。「ありのまま」が損なわれても、人々はまた日常に戻っていく。

民俗学の用語として、非日常を「ハレ(晴)」と言い、日常を「ケ(褻)」と言う。一般的には、祭や年中行事を「ハレ」とし、それ以外の主に労働に費やされる時間は「ケ」であると捉えている。すると災害という非日常も、民俗社会においては「ハレ」以外のなにものでもないはずだ。民俗学が扱う「民話」も非日常と日常の境に生まれてきたのだろう。

4人の旅人は、陸前高田の人々の非日常、「ハレ」の経験を聞き取るため、「ケ」の時間、日常にもふれることになる。旅人たちは、土地の人々に近づき、簡単には手応えを得らないことに迷い悩みながら、日常の時間から生み出される「民話」の生成の場に立ち会うことになる。



小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)




小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)




小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)


ところで、人の話を聞くとは、そもそもどういうことなのだろうか。「聞き取り」や「聞き書き」は民俗学の重要な手法のひとつであることは言うまでもない。しかし私自身、人の話を聞くことには、いつも戸惑いを覚える。どこのだれともわからない赤の他人に、なぜ内面を吐露する理由があるのか。だが民話の生成には他者が必要なときもあるだろう。この作品の複層性には、「民俗」に近づく際の、そんなジレンマも描かれているように思う。

日常に重なる記憶と忘却のレイヤー

4人が旅した陸前高田は、いまも「嵩上かさあげ」の真っ最中だ。

震災後、またいつ襲うとも知れぬ大津波に対処するため、高く長い防潮堤が築かれ、また高台への移転が進んでいる。一方、津波に襲われて壊滅的な被害を受けた地域では、流された市街地を土砂で埋め、嵩上げをし、その上に新しい街を造成しようとしている。

私自身、ひとりの旅人に過ぎないのだけれど、時を置いて訪れる東北の沿岸部では、防潮堤や高台移転地が建設・造成されていく風景以上に、数メートル、あるいは十メール以上もの高さで、かつての街を覆いつつある嵩上げの光景の方が衝撃的である。



宮城県石巻市(2017年2月) [筆者撮影]


大震災を踏まえて書いた『21世紀の民俗学』では、やはり記憶と忘却をめぐり、問題提起をこめて「景観認知症」という言葉を造った★2

住まいや職場近くの、いつも通りかかっていたはずの場所が、ある日忽然と更地になっている。しかし、そこにどんな建物が立っていたか、どうしても思い出せない。私たちはいつも何を見ているのか、風景に対する記憶というのは、それほどに不確かで脆弱なものなのか。そういう事態や、そんなときに沸き起こる得も言われぬ感覚を「景観認知症」と名づけてみたのである。

津波によって失われてしまった街を思い出そうとすること、あるいは忘れてしまおうとすること。嵩上げという事業はそうした「記憶」と「忘却」に対する問題を想起させる。かつての街の記憶が土砂によって覆い隠されてしまうことに危機感を覚える人々がいる一方で、災害の痕跡を封印してくれることを期待する人だっているだろう。そんな現在進行形の忘却との抗いのなかにこそ「民話」は潜んでいるのではないか。

そして4人の旅人たちも、彼ら彼女らの日常に戻っていく。作品の終盤、旅人のうちのひとりの女性が、現在の住まいの近くらしい街の中を歩いていく。じつはそこは、私にとっては身近な風景なのだけれど、その凡庸で味気ない風景もまた記憶と忘却の対象になり、民話の舞台になる日が来るかもしれないのである。



小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)



★1──初出「The Commons in a Dgital Age 21世紀の民俗学 最終回 大震災と「失せ物」 忘れようとしても、思い出せなくなってしまう」https://wired.jp/series/commons-in-a-digital-age/16_remember/
★2──初出「The Commons in a Dgital Age 21世紀の民俗学 第5回 景観認知症 何千回も見た景色が思い出せない」https://wired.jp/series/commons-in-a-digital-age/5_memories/


第12回恵比寿映像祭 時間を想像する

会期:2020年2月7日(金)〜2月23日(日・祝)[15日間・月曜休館]
時間:10:00〜20:00(最終日は18:00まで)
会場:東京都写真美術館、日仏会館、ザ・ガーデンルーム、恵比寿ガーデンプレイス センター広場、地域連携各所ほか
出品作家:シュウゾウ・アヅチ・ガリバー、マーティン・バース、スタン・ダグラス、遠藤麻衣子、エキソニモ、ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニ、グァン・シャオ、ハナビリウム、岩井俊雄、グラダ・キロンバ、木村友紀、小森はるか、小森はるか+瀬尾夏美、真鍋博、三原聡一郎、ナム・ファヨン、小田香、アンナ・リドラー、ベン・リヴァース、アノーチャ・スウィーチャーゴーンポン、高谷史郎、多和田有希、時里充、メルス・ファン・ズトフェン、アナ・ヴァス、渡邊琢磨ほか
入場料:無料(定員制のプログラムは有料)

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