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【ウィーン】ウィーン分離派、クンストラーハウス、VBKÖ──100年続く芸術家協会のクロスロード
丸山美佳(インディペンデント・キュレーター)
2021年12月01日号
ウィーンは良い意味でも悪い意味でも「変わらない」「変化がとても遅い」とよく言われる。大学やミュージアムなどのインスティテューションも、蓋を開ければ外部の者に対してオープンではない閉鎖的な気質を纏っており、プログラムが意欲的であったとしても、オーストリアらしさにおいては変わることを拒んでいるように見える。それは18世紀の街並みをそのまま残すウィーンの街も同様である。しかし、目に見えない小さな変化はあらゆるところで起きており、それを拾い上げていくことは過去や現在、そして未来を考えるうえでも重要であると考えている。本稿では、ウィーンの街で100年以上継続する3つの芸術家協会の変化に触れたうえで、周縁化されたりマイノリティとされたりしてきた人々の「拡張された」コミュニティについての芸術実践を捉えてみたい。
ウィーンで100年続く3つの芸術家協会
ここで紹介する芸術家協会──ウィーン分離派、クンストラーハウス、VBKÖ──は、どれもが100年以上前に、異なるアジェンダを持って生まれたアーティストによるアーティストたちのための組織であるが、現代においてそれがどのように継承されているかはまったく異なっている。例えば、ウィーン分離派はクリムトの時代を形容し、伝えるとともにオーストリアの現代美術のための重要な場のひとつであるが、いまだに芸術家協会であるということはあまり知られていないのではないだろうか。組織の正式名称が「視覚芸術家協会(Vereinigung bildender KünstlerInnen)」であるように、アーティストと建築家から成るメンバーがいて、総会で会長と理事が選出される。アーティストの選定や展覧会の企画にキュレーターがいる美術館やクンストハレとは異なり、実際にスペースを運営するマネージャーやスタッフはいるが、理事に選ばれたアーティストたちがゲストアーティストを招待する形で展覧会が開催され、ウィーン分離派の方向性が形づくられている 。
ウィーン分離派とクンストラーハウスの現在
ウィーン分離派は今年の10月に新しい理事を選出した。テヘラン出身のラミッシュ・ダーハ(Ramesch Daha)が会長として率いる13人の世代も出自も異なる、従来のウィーン分離派の理事と比べると、多様な背景を持ったアーティストが理事に就任した。発表されたプレスリリースやインタビューからは、ウィーン分離派の建物に掲げられた「DER ZEIT IHRE KUNST / DER KUNST IHRE FREIHEIT(時代にその芸術を / 芸術にその自由を)」をモットーに、現代を生きる作家の展覧会を継続するとともに、現代社会やグローバルな課題に取り組みながら、ウィーン分離派の特権的なありかたや歴史を批判的に見直すことを目指していることがわかる。その特権的なあり方とは、限られた者しか会員になれない仕組み(現在は招待のみ)や、作品の鑑賞が限定されて開かれたものではないという現状であり、組織としてだけではなく芸術を担う場として公共へと議論を開いたり、建物や展覧会という物理的な空間が担う環境への配慮についても体制を変えていこうとする意気込みが見られる
。ウィーン分離派の歴史と遺産を維持しながらも、このような多様な理事が選ばれ、より開かれた在り方を模索するのは閉鎖的なオーストリアの大きな組織のなかでも稀有であり、今後どのようにその変化が現われるのかを期待している者が多い。ウィーン分離派は、よく知られているように、1868年に設立されたオーストリアの最も古い芸術家協会であるクンストラーハウス(正式名:オーストリア芸術家連盟/Gesellschaft bildender Künstler Österreichs Künstlerhaus)からまさに「分離した」、クリムトを中心にしたアーティストのグループによって1897年に設立された団体である。当時のクンストラーハウスは皇帝のお気に入りでもあり、アカデミックな歴史画や古典主義的が多い保守的な芸術を中心とする体制であり、ヨーロッパで起こっていた新たな芸術運動を求めていたクリムトらにとっては窮屈であったのだ。
現在のクンストラーハウスは、20世紀以降もオーストリアの芸術を支えてきた機関のひとつであるが、2017年にはティム・ヴォス(Tim Voss)が初のアーティスティック・ディレクターに任命されて、クンストラーハウスの歴史を振り返る意欲的な展覧会を企画したりしている。しかし、2015年にその建物の所有権の大半を私企業に売ったことで、2020年のリニューアルオープン以降、建物の半分を私立美術館であるアルベルティーナ・モダンと共有するようになり、芸術家協会としての独立性は弱まり、商業化が進んでいっているようにも見える。
知られざる女性芸術家協会VBKÖの歩み
筆者はこの2つの組織から遅れること数十年、1910年に設立されたオーストリア女性芸術家協会(Vereinigung Bildender Künstlerinen Österreichs、通称VBKÖ)の理事を去年から務めている。設立当時は、ウィーン分離派もクンストラーハウスもメンバーになれるのは男性だけであり、さらにはウィーン美術アカデミーといった美術大学も男性だけが入学を許されていた。そのような状況で、VBKÖは当時の女性芸術家の芸術的・経済的利益を求めて展覧会や教育、討論会に参加できるように支援しロビー活動をした組織であり、オーストリアにおける初期女性解放運動のひとつとして重要な役割を担っていた。例えば、そのひとつの成果としてあげられるのは、ウィーン美術アカデミーに最初の女性を100年前の1921年に入学させたことである
。VBKÖはクンストラーハウスのような立派で権威的な建物や、ウィーン分離派のような街のラウンドマークであるような建物を所有していないが、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの姉(つまりはウィーン分離派を支えたカール・ウィトゲンシュタインの娘)によって国立オペラ裏のアパートの最上階の一角が賃貸契約として与えられ、いまでも活動の場をそこにおいている。
しかし、ウィーン観光としても大きな役割を担っていたり専属スタッフがいるようなウィーン分離派とクンストラーハウスに比べると、同じ100年を超える歴史を持ちながらもVBKÖはほぼ不在として扱われてきており、多くのフェミニズム組織がそうであるように、現在もメンバーたちの多くの無償労働で成り立っている。その不在さは、第二次世界大戦中の国家社会主義の要求に応えたりユダヤ人会員を追放したりし、戦後はヴァリエ・エクスポート(VALIE EXPORT)といった1970年代のフェミニズムの課題や議論を担ったアーティストたちと混ざることなく、一部の特権的な会員によって細々と続いてきたということに起因している。
VBKÖに大きな変化が起こったのは2012年。フェミニズムの課題を抱えつつ、組織としての構造的な問題について反省と改革が行なわれ、その歴史を振り返ることそのものを、現代の芸術実践へと結びつけ始める。例えば、フェミニスト的かつ脱植民地化的なレンズを通してアーカイブ調査をしている当時の理事でもあったニナ・ホフテル(Nina Hoechtl)とユリア・ヴィーガー(Julia Wieger)によるプロジェクト《Secretariat for Ghosts, Archival Politics and Gaps (SKGAL)》は、VBKÖのアーカイブ資料からナチ時代の国家社会主義イデオロギーの亡霊がフェミニズムや植民地時代の欲望と結びついていることを暴露しながら、その亡霊たちとの対峙の仕方が探られる。
つまりは、初期女性解放運動が持っていた女性作家の機会や権利の話だけではなく、ある階級や人種、民族の排除の問題を中心に持ってきたうえで、さらには二元的なジェンダーそのものを問題視するためにクィアやノンバイナリーの議論を行なうことが必要なのであり、そのような常に周縁化される議論の場の提供とアーティスト、アクティビストを支援するための現代の芸術家協会へと修正され、変容してきている。2017年には暗黙の了解として規約に書かれてこなかったために見落とされてきた、メンバー内のなかにある格差や衝突を可視化し、政治的態度や文化的立場を考慮したうえでメンバーどうしの行動や配慮についての宣言がまとめられた。今日の「アーティスト」「女性」「フェミニスト」の定義を推し進めることが目指され、展覧会も自主企画と公募の両方が行なわれている。
私は理事になってから、このようなVBKÖの遺産や歴史をアカデミックな記述ではなく、歴代の理事たちの口頭で、あるいはアーティストたちの作品の介入によって受け継ぐようになった
。現代のクィアフェミニストとしての芸術家協会としての課題を語りながら、ウィーン分離派やクンストラーハウスと並び、筆者個人の人生とはまったく関係してこなかったオーストリアの歴史と負の遺産に、無理やり投げ込まれることによって時折めまいがしそうになるのが正直なところである。しかし、VBKÖ史上初の出自がまったく異なる有色人種の共同会長たちとともに一緒に理事になることは、オーストリア人ないしは白人にだけ与えられてきた芸術の場所をどのような語り口や実践として切り開いていくかという挑戦であるように感じている。「Sodom Vienna」と「クィアミュージアム・ウィーン」
次に、オーストリアの歴史と現代を考えるという、重くのしかかる課題をもちながらも、これからのウィーンの街や芸術を取り巻くコミュニティのあり方を考えるうえで、とても励みとなる芸術プロジェクト、「Sodom Vienna」(2019-2021)と「クィアミュージアム・ウィーン」(2018-)を紹介したい。
「赤いウィーン」100周年を祝う「Sodom Vienna」
1920年代、厳密にいうと第一次世界大戦後のハプスブルク家オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊した1918年からファシスト勢力と衝突が激化する1934年までのウィーンは「赤いウィーン」と呼ばれる。オーストリア社会民主党がウィーン市議会で初めて与党となり、戦後の混沌とするウィーンの街全体を社会主義運動として改革をした時代である。女性が選挙権を獲得したり、先述した女性が美術アカデミーに入学したりしたのもこの時期である。郊外だけでなく街全体に公共住宅と公共の浴場、スポーツ施設が建てられ、ガス、電気、ゴミ処理といったインフラストラクチャーの整備、医療サービスの無料化や福祉や教育の充実が図られて健康状態の改善がされると同時に、有産階級に対する高率の課税など、ユートピア的なヴィジョンと一緒に大胆な改革が行なわれた時期である。
この「赤のウィーン」を下敷きにしながら、その100周年をクィア的に祝うプロジェクトとしてウィーン市内各地で行なわれていたのが、ドラマトゥルグとしてジン・ミュラー(Gin Müller)率いる、アーティストとアクティビストのコレクティブ「Sodom Vienna(ソドムのウィーン)」である。ソドムとは、旧約聖書に登場する「背徳」の都市のことであるが、「Sodom Vienna」のトレードマークは赤い花弁に模られたビニール風船の肛門であり、労働着やドラァグ、SMプレーの衣装を纏ったパフォーマーたちによってさまざまな形で規範性への「背徳」が上演される。またオーストリアで1922年に作られた映画『ソドムとゴモラ』(監督:マイケル・カーティス)が、何千人もの労働者階級の役者を起用したオーストリアの映画史上でも規格外の映画プロダクションであったことに習って、毎回のパフォーマンスに登場するゲストたちも入れ代わり立ち代わり、多岐にわたる。例えば、昨年2020年のウィーン市の選挙前に合わせて行なわれたデモンストレーションでは「リラックス、すべての身体は美しい! ──喜びに満ちながら、性差別、人種差別、資本主義と戦う!」と宣言したうえで、難民や移民のクィアを支援する団体から、「OMAS GEGEN RECHTS(おばあちゃんたちは右派に反対)」といった反ファシズムのグループなど、まさに世代も見た目も異なる人々が赤をまといながら、ウィーン中心地ではなく移民街のど真ん中でパフォーマンスを行なっていた。
今年はフロイト博物館の全館を使ったパフォーマンス《Sodom Vienna Freudenhaus》や、1920年に実際にアミューズメントパークがあった場所にサーカステントを立てて盛大なサーカスイベント《Circus Sodomelli》を繰り広げ、今月の頭には劇場作品として《SODOM VIENNA REVUE》がプロジェクトの最後を飾った。
移民街のデモンストレーションでもその片鱗を垣間みたが、サーカスでとくに顕著だったのが、人身売買や見世物小屋、オリエンタリズム、人種差別、帝国主義と結び付いたアミューズメントパークを批判的に模倣しながら、クィア、ドラァグ、フリークス、アスリート、サドマゾたちがひとつの蠢きのように集まることで可能になる複数の異なる闘争の共有地を示していることだった。「Sodom Vienna」はその闘争をエンパワーメントへと繋げる場のあり方を、鑑賞者一人ひとりに発見させる。そこには、ジェンダーが流動的なアーティストもいれば、倒錯的な身振りを見せるプロのサーカスパフォーマー、さらには白人男性のチアリーディング、多種多様のドラァグたちが、社会の多数派によって押し付けられた規範に溶け込むことなく、あるいはそこから逸脱することを恐れず、それでもお互いに賞賛し合う人々のコミュニティの可能性を見せてくれるのである。
劇場での作品は、フロイト博物館とサーカス会場で展開されたパフォーマンスを取り込みながら、ピアノの生演奏とともに1920年代のレビュー(歌とダンスや時事風刺を取り入れたショー)やキャバレー文化の形式としてクィアフェミニズム的にアレンジしたものである。1920年代は、赤いウィーンの社会民主的な実験が行なわれながら、キャバレーやサロンの常連たちのクィアな放蕩生活があった時代であり、精神分析の時代でもある。作中では、クィアやフェミニズムにとって厄介な人物であるフロイトや、性の解放で知られるウィルヘルム・ライヒを倒錯的に演出している。また、彼らの陰に立ってあまり知られることのない、児童精神分析を開拓したアンナ・フロイトの明かされることのないレズビアン的な人生の解釈が挟まれながら、バイセクシュアルの裸体のダンサーやオリエンタリズム的に見られてきた褐色の肌を持つダンサーが語りながらステージで舞う。
フロイト博物館が持つおどろおどろしい雰囲気のなかに突然ドラァグや得体の知れないパフォーマーたちが登場することによって、その建物が持つ(抑圧の)歴史とその倒錯さが奇妙に剥き出しにされたことに比べれば、現代の劇場という箱のなかで行なわれたパフォーマンスは、そうした嫌悪感を持ち合わせることはない。しかし、ますます排除へと向かう社会を目の当たりにしながら、ウィーンの街が持っていた精神をノスタルジーとして語るのではなく、未来に向かういまを生きる身体や歴史をクィア的な芸術として昇華させたパフォーマンスは、闘いと一体となった現代的なユートピアを提示してくれているようだった。
クィアコミュニティの場をつくる「クィアミュージアム・ウィーン」
一方「クィアミュージアム・ウィーン」は、クィアの歴史をウィーンに定着させながら、現代の芸術との関わりを促進するための研究機関である。また、プラットフォームとして構想されたコレクティブであり、実際にミュージアム設立に動きながらも、数々のイベントを行なっている団体でもある。こうしたLGBTQ*やクィアを特集した展覧会が国際的に増えているが、そういったクィアの歴史や芸術実践に、一時的ではなく、常にアクセスできるような場所を求める声は世界各地で起こっている。また、過去に起こったLGBTQ*への暴力を中心に語られていることも多いため、「クィアミュージアム・ウィーン」では、クィアの歴史とは「追放、排除、迫害、隠蔽、羞恥心、個人的・集団的なアイデンティティの探求、そして合法化、平等、誇りといった観点から社会構造のなかに自らを位置づけようとする試み」としたうえで、「追悼のためのミュージアム」ではなく、クィアコミュニティの祝福の場の創出が目指されている
。例えば、8月に開催された《QUEER HISTORY WALK》では、クィアコミュニティと密接な関係を持つウィーンの地域を実際に練り歩きながら、飲み物を片手に音楽が流れれば参加者は踊り出し、その延長線上に議論のプラットフォームが広がり、それが街へと開いていくようにも思えた。VBKÖの共同会長で「Sodom Vienna」のパフォーマンスメンバーでもあるデニス・パラメイリ(Denise Palmieri)もゲストとしてスピーチをしたが、アーティスト、アクティビスト、研究者たちのそれぞれの訴えとは、資本主義や国家に回収されたり街から消されるようなマイノリティの姿ではなく、複数のコミュニティが緩やかに結びつきながら、自分たちの手で問題をシェアして助け合い、コミュニティを紡いでいく、困難を伴いながらも自らのクィアコミュニティを継続していく重要性であった。
ウィーンという小さな街には、文化の指針となってきた芸術家協会によって支えられてきた芸術家たち、さらにそこからも排除されてきた人々の声が複層的に重なりあう。現在、オーストリアは4度目のロックダウンの真っ只中である。社会や文化全体が背負う困難を共有するとともに、そこに存在する差異の違いによって消されてきた声を、どのような形でその組織に、さらには街に反映していくのか、絶え間ない変化が続いていくはずである。