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【ブリスベン】多文化の波にゆれる都市

土岐文乃(建築家)

2023年10月01日号

オーストラリアは18世紀後半の英国からの入植、その後の産業革命による発展、20世紀の白豪主義という時代を経て、先住民族の権利の回復、多様な文化的背景をもつ移民の増加など、短い歴史のなかで大きな変貌を遂げてきた。各都市は、気候、自然環境、資源などが大きく異なり、発展の様子も大きく異なっている。これまでシドニー、メルボルンに比べてスローペースで発展してきたブリスベンは、パンデミック以降、急激な人口増加や建設ブームに湧いているという。2021年からブリスベンに拠点をもつ建築家・土岐文乃氏にその変化の様子をレポートしていただいた。(artscape編集部)

オーストラリア、クイーンズランド州の南東部に位置するブリスベンはメルボルン、シドニーに続く第三の都市である。人口は両都市の半分程度であり、温暖な気候も手伝って、のんびりとした田舎町のような性格を長らく保持していた。しかし、かねてからの移民人口の増加に加え、コロナ禍にハードなロックダウンが続いた他都市からの移住者が急増し、オーストラリアのなかでも最も急速かつ最大の成長をしている都市となっている★1。さらに、2032年オリンピック開催都市に選定されたことから、さまざまなインフラ整備やさらなる人口増加が見込まれており、1988年ブリスベン万博以来の変化のときを迎えているという。これはブリスベンにとっては大きなチャレンジとなる。なぜなら、メルボルンは地域コミュニティを重視した 20-minute Neighbourhoods ★2 Nightingale Housing ★3、シドニーはヨーン・ウツソンによる《Sydney Opera House》を中心とする港湾エリアやDesign Excellence ★4など国際性を意識した取り組みがあり、それぞれの都市の個性やヴィジョンが明確な一方で、ブリスベンは都市としてはつかみどころがなく、明確な指針もなくデベロッパードリブンの開発が進んでいるからだ★5。多様な移住者の受け皿として高密度化や多文化化のプレッシャーを受けているブリスベンにとって、オリンピックに向けた今後10年間は自らのアイデンティティを模索するときといえよう。変化は始まったばかりで姿形はまだみえない。ここでは、少し歴史も踏まえながら今後の手掛かりとなりそうなトピックをいくつか取り上げたい。

クイーンズランダーの行方

ブリスベンの特徴的な建築として真っ先にあげられるのは、今なお数多く残る「クイーンズランダー(Queenslander)」であろう。入植初期よりクイーンズランド州全土で建設されるようになった量産型の高床式木造戸建て住宅である。豊富で良質な森林資源が発見されたブリスベン周辺では、英国や他の植民都市に輸出するための木材が生産され、やがて蒸気機械の導入とともに製材業が盛んになった。そして19世紀後半の移民増加や遠隔地への住宅供給に対応するためにプレカットの組み立て式構法が確立され、クイーンズランダーの街並みが生まれた。



クイーンズランダーの街並み[著者撮影]


洪水や亜熱帯性の気候に対応するように持ち上げられた床、半屋外のベランダで営まれるおおらかな暮らし、安価なトタン屋根によって構成された風景は、地元アーティストの作品や土産品のモチーフになるなど、一般的にもブリスベンのアイデンティティのひとつとして認識されている。また建築家にとっても、住宅としての評価には賛否両論あるものの、アボリジナル(Aboriginal peoples)★6による建築以外に土着的な伝統というものがないこの土地において、実用性から生まれたクイーンズランダーは無視できない存在であり、戦後のブリスベンの建築はその否定と肯定が織り交ざりながら発展したといってもいい。

この軽量で簡素な造りの木造住宅は移築や増改築が容易で、家族の拡大や生活の近代化にあわせてアドホックなリノベーションやDIYが盛んに行なわれてきた。各所にあるHouse Removalist(移築業者)やDemolition Yard(リサイクル業者)などがそうした文化を支えている。ベランダ周りの装飾や設えは住み手の興味関心や文化的背景を表現する場でもあり、各ストリートで異なる表情がある。また、シェアハウスやSOHO、店舗やレストランなどへの転用事例も多くあり、さまざまなかたちで利活用されてきた。しかし近年、低層かつ低密度の住環境は急激な人口増加のために変化を迫られている。



Queensland House Removers(House Removalist)
移築される住宅の一時的なストックヤード[著者撮影]



移築される住宅は手頃なサイズにカットされ、夜中に運搬される[著者撮影]



Woolloongabba Demolitions(Demolition Yard)
解体現場から救済された木材、扉、窓などリユーズ可能な建材が販売されている[著者撮影]




Caboolture Historical Village(Historical Village)
利活用事例のひとつ。使われなくなったクイーンズランダーが集められ、地域のミュージアムとなっている。同様のHistorical Villageは州内の各地域にあり、開拓者住宅からクイーンズランダーまで異なる時代の住宅を一度にみることができる。規模や機能にはばらつきがあるが、地域についての独自のリサーチ、古い道具や写真などのアーカイブ、出版などを行っているほか、マーケット、校外学習、結婚式場など多目的に利用されている[著者撮影]


都心周辺の古いエリアに建てられたクイーンズランダーはブリスベン市が定める条例(Character Overlay)によって解体や増改築に制限がかけられている。ゆえに、ある適度の保存が見込まれるが、そのまま残されることの課題も大きい。こうしたエリアは低密度のまま地価が跳ね上がるため裕福な層が移り住み、これまで安価に借りられた賃貸物件が不足し賃貸難民が多く発生、結果、カルチャーを形成していた若年層やアーティストは郊外に追いやられている。また、イギリス式の間取りを基本としたクイーンズランダーは近年増加傾向にあるアジア系移民の生活様式に合わず、郊外にまったく異なるコンテクストの住宅が乱開発されるなど、総じて経済的・文化的分離が進む傾向にある。

クイーンズランダーは、気候風土と自然資源、植民地建築というバックグラウンド、ポストコロニアリズムと多文化化によるアイデンティティの揺らぎなど、非常にオーストラリア的なテーマがつまった住宅形式であり、新たな状況に対し、どのように融和・変容していけるかが問われている興味深い対象なのだ。

都市の境界線

ブリスベンの都心には性質の異なる三つの境界線がある。ひとつ目は川である。オーストラリアの主要都市は必ず河口近くにあり、川を起点とした植民地グリッドの街路計画を基盤としてる。ブリスベンに特徴的なのはこの植民地グリッドが川を跨いで設定されていることだ。これにより街はノースサイドとサウスサイドに明確に分けられている。ノースサイドは中心市街地(CBD)、サウスサイドは商店や工場などが多く立地するいわば下町で、まったく異なる性格の二つの都心があることから「Twin City」とも呼ばれる。二つ目の境界線は入植当時の地図によく表われている。植民地グリッドを東西南北ぐるりと囲む直線道路である。もともとこのエリアはアボリジナルのギャザリング・プレイスであり、四角形の境界線はバウンダリーストリートと呼ばれ、アボリジナルの平日夜間および休日の出入りが禁止されていたという★7。当時の統治権力がはたらいていた範囲であり、現在も公的施設のほとんどがこの範囲内に立地している。三つ目の境界線は主に戦後に整備された道路・鉄道インフラである。街を歩くとすぐ気づくことだが、都市の規模に対してインフラの存在感が大きく、これにより街が分断されている。ここで着目したいのは、都心と周縁の境界が曖昧な南西のエリアである。



The town & environs of Brisbane, County of Stanley, N.S.W., 1858 Surveyor General
[State Library of Queensland]



ブリスベンの道路・鉄道インフラ[著者作成]


このエリアは三つの地区が隣り合っている。なかでもバウンダリーストリートの内側に位置するサウス・ブリスベンは1988年に開催された万博で劇的な変化を遂げた。かつては内陸からの農産物を運ぶ運搬船の中心地であり、さまざまな産業が立地していたが、洪水被害により荒廃が進んだエリアが一掃され、万博会場となった。同時期に地元建築家ロビン・ギブソン(Robin Gibson)による《Queensland Cultural Centre》が建設され、万博後には跡地一体が公園となり、ブリスベンで最も重要な文化拠点に転じたのである。







公園となった万博跡地 South Bank Parkland(1992)と地元建築家ロビン・ギブソンによる《Cultural Centre》(1973-1988)。州立の美術館、シアター、博物館、図書館が一体的に計画された。2032年、オリンピックのメイン会場にもなる予定[著者撮影]


サウス・ブリスベンが公的な文化拠点へと変化した一方で、隣り合うウエスト・エンドは下町のままであり続けた。ブリスベンで最も地価が低く、戦後はギリシア系およびベトナム系移民が、万博後にはヒッピーやアーティスト、学生などが多く住み、強いコミュニティに支えられたサブカルチャーの中心地となった。コントラストを成すこの二つの文化拠点がバウンダリーストリートを境界に隣り合っていることの価値は大きい。その交差点に描かれたアボリジナルの国旗が示すように、大小問わず歴史的・文化的に重要な出来事がここに蓄積され、新しい文化にも寛容な表現の場を提供してきたからだ。









ウエスト・エンドの風景。ブリスベンには珍しく密度を感じる場所。老若男女問わず社会的弱者も含めて実に多種多様な人々がいる[著者撮影]



バウンダリーストリートの交差点に描かれたアボリジナルの国旗。後ろにみえるのは地元建築家ラッセル・ホール(Russell Hall)による商業施設[著者撮影]


しかし、ここ十年の間にジェントリフィケーションが一挙に進み、その存続が危ぶまれている★8。2018年にはバウンダリー・ストリートの真ん中に高層アパートを含む複合商業施設 West Villageがオープンし、大きな波紋を呼んだ。中心部のなかで唯一開発されずに残っていた川沿いのエリアは、州および市による方針により高層アパート群の建設が促進されたほか、オリンピックの国際放送センター予定地となっている。これまでなかった層に街が開かれていく一方で、古き良きブリスベンが失われていく。一言に多文化化といっても歴史が見えなくなってはつまらない。ウエスト・エンドは今日のブリスベン全域がおかれている状況の縮図であり、さらなる新しきものを受け入れる力が試されているのである。


旧アイスクリーム工場をリノベーションした《West Village》(積水ハウス)。背後で高層アパートの建設が進む[著者撮影]


広域のつながり

ブリスベンの都市は目玉焼きと評されることがある。境界線により明確化された都心だけが突出し、あとは平坦な郊外がダラダラとあてもなく広がっているからだ。しかし、オリンピック・マスタープランをみると多拠点化の戦略がみえる。コストを大幅に削減するために会場の84%は既存または仮設を利用する予定で、旧万博会場を拠点に都心の南北両端に位置する二つのスタジアムを結ぶ計画となっているが、これと連動して南北のつながりを強化するBrisbane Metro(BRT)とCross River Rail(地下鉄)の工事が進んでいる。都心と郊外をつなぐ路線でもあり、現状では移動のほとんどを車に頼らなくてはならない郊外居住へのインセンティブとなる。

さらに広域でみてみると、ブリスベンを起点につながる二つの海岸都市、ゴールドコーストとサンシャインコーストも開催地となっている。これらの三都市はSouth East Queenslandという地域を形成しており、現在の350万人から2036年までにおよそ140万人の人口増加が見込まれている。各都市の属性が異なっており、ブリスベンはビジネスの中心地であるのに対し、ゴールドコーストは日本人にも馴染みのある観光地であり、海岸周辺の運河沿いはほとんどが住宅地である。そしてサンシャインコーストはローカルのリゾート地であると同時に近年はオルタナティブなライフスタイルを求めて移住する人が多い。つまり、ひとつの雇用都市と二つの観光・住居都市という関係なのだ。オリンピックに向けて、各都市間を結ぶ既存インフラがアップグレードされる予定であり、South East Queenslandがひとつの拡張された都市として機能する日もそう遠くないはずだ。

田舎町としてゆるやかに成長してきた街が急速に開かれていく。市街地が拡大し、経済的・文化的分離が進めば都市としてのアイデンティティはどんどん不明瞭になっていく。しかし、クイーンズランダーやウエスト・エンドのように寛容な表現の場が各地にあれば、また新たな文化をつくりだしていけるかもしれない。ブリスベンは今、その期待と不安に大きくゆれている。


★1──Australian Bureau of Statistics 2022年調べ。https://www.abs.gov.au/
★2──ビクトリア州政府の長期計画戦略。メルボルンには広域のトラムのネットワークがある。そのネットワーク上に、徒歩20分圏内で日常に必要なすべてのものがそろう近隣住区を形成している。
★3──2007年にメルボルンで始まった集合住宅のプロジェクト。建築家たちが自ら投資を行ない持続可能な住居を提供する。社会的弱者が優先的に入居できる仕組みで、ポリシーに従ってさまざまな建築家が設計を担当している。
★4──2000年にシドニー市によって導入された制度。一定条件を超える公共・民間開発は最低3案からなるデザイン・コンペを実施しなければならない。
★5──現在ブリスベンでどれほどの開発が進んでいるかは以下のサイトでマップをみることができる。Brisbane City Council Development I Brisbane Development Map
★6──オーストラリア先住民の総称。日本語では「アボリジニ」と表記されることが多いが、原語であるAborigineという語は差別的なニュアンスがあること、「Aborigine」には含まれない多様なオーストラリア先住民への配慮から、本国の公的な場では使われなくなっている。
★7──夜間外出禁止令がいつ始まり、いつ終わったのかは定かでないが、1970年代頃まで続いたといわれている。
★8──ウエスト・エンドのコミュニティとジェントリフィケーションについては下記の論考が詳しい。現在は第二波にあたるという。第一波(1990年以降)は労働者階級の住宅ストックの価値保存に関心を持つ所有者によって実行されたものであり、むしろウエスト・エンドの多様化に貢献したのに対し、第二波(2010年以降)は行政主導によるもので、ウエスト・エンドの寛容性を失わせているという指摘が興味深い。Peter Walters, Rod Mccrea:Early Gentrification and the Public Realm: A Case Study of West End in Brisbane, Australia. Urban Studies Volume 51, Issue 2. 2014.

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