フォーカス

【極北極】外洋と凍海の狭間に生きるイヌイットのグラフィックアート

キオ・グリフィス(ヴィジュアル・サウンド・アーティスト、キュレーター、デザイナー、ライター)

2023年11月01日号

社会的政治的影響の下、近年アメリカの現代アートは、アメリカの原・先住民の発掘に着目点をおいた。私は昨年DNP文化振興財団の助成を受け、前からあたためていたアメリカのBIPOC(バイポック:Black, Indigenous, People Of Color:黒人、先住民、有色人種)のグラフィック史の調査を実現することできた。少数派とはもはや言えない多くのラテン、アジア、ブラック・アメリカン等の移民や難民の労力で支えられてきたアメリカの経済。「ポピュラー・エコノミー」、新興宗教のコマーシャリズム、文化の進化より停滞で成立した生活基準、国家軍事予算の維持などの現況の隙間に伝統芸術はともかく、BIPOCアーティストによる現代アートの居場所のことを考えられずにはいられない。現場調査は、大学関連の教授や図書館を糸口に、ほかのあらゆる大学、特にブラック・カレッジのような黒人の教育や文化水準の向上を目的に設立された施設を訪問または連絡して資料を集めた。


James Kivetoruk Moses (Inupiaq), Eskimo Wolf Dance #1, mixed media on card stock, Private Collection.


調査の成果は論文の形に纏めたものが、後日DNPの出版で発表されることになる。調査内容はおおかた達成したのだが、残念なことにBIPOCの「I」の部分の調査まで至らなかった。調査の下調べと準備は、アラスカ先住民の現代アーティスト、(あいちトリエンナーレ2016 参加アーティスト)ニコラス・ガラニン氏にお願いし、アラスカのアンカレッジ・ミュージアムのディレクター、ジュリー・デッカー氏と数回オンライン会議を行なった末、これから訪問というタイミングでパンデミックの二次的禍影を受けて渡航困難となり断念することになった。調査発表後だが、思い残しに終わらぬよう、あらかじめ紹介されたアラスカのアーティストたちについての調査を続けて研究することにした。



Anchorage Museum façade with Dena’ina welcome. [Courtesy of the Anchorage Museum]


極北極域の生活とアーティストたち

アラスカ、カナダ、グリーンランドの極北極域に住む先住民族イヌイット(Inuit[人々])は、アザラシやカリブー(トナカイ)などの動物を追って北極海の氷に閉ざされた海岸を横断し、クジラを求めて過酷な海洋航海に挑んだ。狩りの成功を祈る動物の彫像、悪霊を追い払うための魔除け、善霊を呼び寄せる儀礼用のマスクなど、遊牧民である彼らの寒くて厳しい生活は、彼らの芸術にも反映されている。文明圏から切り離されたイヌイットの生活圏は、樹木が育たないほどの厳寒の気候のため、美術界にその存在が知られるようになったのは、1948年にカナダ人アーティストのジェームズ・ヒューストン(James Houston)がハドソン湾の東海岸で写生画を描いたのがきっかけだった。当初、イヌイットの職人たちは、象牙、骨、ソープストーンといったその土地の素材を使って、獣や人物像などの小規模な彫刻を中心に制作していた。イヌイットの職人たちは、石の中に隠された生命感を感じ取ることができるかどうかで、彫物の質感を見定めた。彫り物からは、セイウチの重さ、熊の敏捷さ、魚のつややかさ、母子の密接さが読み取れるのである。

ジェームス・キヴェトルック・モーゼス(James Kivetoruk Moses、1900-1982) は狩猟家として生活の半期を過ごしたが、1953年に飛行機事故で身体機能が衰弱し、狩猟を続けることができなくなった後、50歳のときにアラスカ州のノーム市でアーティストとして第二の人生へと踏み出した。モーゼスは、この地域の生活風景の現実と空想の両面を細かく描写した。氷のツンドラ、動物たち、シベリアやイヌピアットの人々、狩猟、ダンス、また神話上の生き物たちや仮装している人々の物語などを描いた。仮装衣装は、ベーリング海峡のどちら側に住んでいるかを示すほか、社会秩序における地位や ステータスを表わすものでもある。モーゼスは、シベリア原住民がアラスカ側を訪れることを許されていた時代に郷愁を抱いていた。



James Kivetoruk Moses (1903-82), Untitled, 11.5 x 17.75 in. Mixed Media On Mat Board, Private Collection. [Photo: Courtesy Ralph T. Coe Center for the Arts, Santa Fe, NM]


ロナルド・セヌンゲトゥク(Ronald Senungetuk、1933-2020)は彫刻家、銀細工師、木彫家であり、イヌピアック族の伝統を現代のコンセプトや素材とブレンドさせることに取り組んできた。アラスカにおける芸術活動の第一人者であり、1965年にはアラスカ大学フェアバンクス校にネイティブ・アート・センターを設立した。フルブライト奨学生として、ノルウェーのオスロにあるノルウェー国立工芸芸術アカデミー(Norwegian National Academy of Craft and Art Industry)で北欧デザインを学んだ経験を生かし、銀と金にセイウチの象牙を組み合わせた抽象的なフォルムのネックウェアのデザインを手がけ、ローズウッド、チーク、シルバーメープルなどのエキゾチックな広葉樹を使った木彫りを制作し、ミニマリズムの思想とアラスカ先住民の感性を表現した。



Ron Senungetuk, Extreme's, CDC Artist



Ron Senungetuk, Migration 1,2,3 (2008), Collection of the Pratt Museum.



Ronald Senungetuk, Whaling Whales, Whaling Celebration (1991)


イヌイット・ヌナンガット(Inuit Nunangat)はカナダのイヌイットの母国である。この北極圏の故郷は、イヌヴィアルイット居住地域と呼ばれるカナダ北部の4つの地域からなる。この地域は、地球温暖化の影響を世界でも最初に受けた地域のひとつである。夏と冬の海氷の減少、海洋の酸性化、気温と海面の上昇、永久凍土の融解、異常気象、深刻な海岸浸食など、かつてない速さでイヌイットの環境が変化していくなか、イヌイットの猟師たちは薄くなった冬の海氷から落ちて命を落としている。祖国に起こっていることを目の当たりにして、現代のイヌイット・アーティストの多くが、こうした大きな変化を作品に反映させようと取り組んでいる。

スイスのベルンにあるサーニー・イヌイット・コレクション(Cerny Inuit Collection)は、1,000点を超える現代イヌイットの彫刻、リトグラフ、ドローイング、テキスタイルのコレクションを所蔵する美術館である。サーニー・イヌイット・コレクションの共同創立者でディレクターのマーサ・サーニーは、夫のピーターとともにコレクションを所蔵している。 二人はバンクーバー北部の保護区にある病院で、看護師と放射線技師として働いていた。1990 年代、二人はスイスで販売されているイヌイット・アーティストの作品127点のコレクションを知った。そして、ともに北極圏を広く旅し、カナダやシベリアの極北、さらにそのほかの周極北極圏の地域から作品を集め、コレクションを広げた。現在、サーニー・イヌイット・コレクションは、ベルンにある元整備工場のガレージを改装した建物内にあり、極北・北極圏の現代アートと文化を網羅する世界有数のコレクションとして知られている。

気候変動の影響下で

気候変動に関するイヌイット・アートの実例としては、マーサ・サーニーがキュレーションした「LINKED: When Contemporary Art Creates Awareness About Climate Change」という巡回展であった。展示されている作品には、イヌイットの伝統文化に関する言及が見られる。イヌイット・アートにおいて、イヌイット神話で畏怖される海獣の母、セドナの姿は支配的な存在である。しかし、セドナは従来のようにパワフルかつ恐ろしい存在ではなく、気候変動に取り組むアーティストたちによって姿を変えている。アーティスト、フロイド・クプタナ(Floyd Kuptana)による「海氷の喪失を嘆くセドナ」では、セドナの姿は海面上昇の影響を受ける人々を救助するボートに変身している。



Floyd Kuptana, Sedna Lamenting the Loss of Sea Ice, Canada, (2007), Brazilian serpentine, antler, wood horse hair and metal[Photo by Severin Nowacki]


同様に、アブラハム・アンギク・ルーベン(Abraham Anghik Ruben)の《Shared Migration》では、セドナは船として表現されているが、この作品では、海氷が溶けていくなか、人々、動物、そして精霊たちを支えている。サーニーは、この作品が「私たちは皆同じ船に乗り、同じ状況に置かれている」ということを意味していると指摘した。それはまた、海面上昇によって移住を余儀なくされる人々についても指している。



Abraham Anghik Ruben, Shared Migration (Spirits, Animals and Humans in the same boat) , Canada, (2013), serpentine[Photo by Severin Nowacki]


デイヴィッド・ルーベン・ピクトウクン(David Ruben Piqtoukun)による《フロー・エッジの生き物》は、外洋と凍海が入り交じるフロー・エッジを守る動物の姿である。航海する猟師たちに安全を知らせるために二つの目とひとつの口があるのが普通だが、この生き物には三つの目と二つの口がある。アーティストは、フローエッジの薄氷の監視に、より一層の警戒が必要であることを訴えている。



David Ruben Piqtoukun, Creature on the Ice Edge/Ice Edge Creature, Canada, (2006), Serpentine and alabaster[Photo by Severin Nowacki]


現在のイヌイットは、冷戦時代に建設されたアメリカとカナダの軍事基地の近くに住み、そこで働いている。1970年代には、イヌイットは伝統的な居住地から、連邦政府の学校や医療施設が設置された定住地へと移転していった。彼らは、それまでの経験とはまったく異なる最先端のテクノロジーや文化的な力に直面することになった。彼らの歴史的な生活様式は事実上消滅してしまったが、その要素は視覚的に表現され、再現され、芸術作品に収められている。


参考文献(2023.10.30閲覧)
・Contemporary Inuit Art, Nerman Museum of Contemporary Art https://www.nermanmuseum.org/exhibitions/1991-06-08-contemporary-intuit-art.html
・Conversations of Ourselves: An Indigenous survey of James Kivetoruk Moses, Ralph T. Coe Center for the Arts https://www.coeartscenter.org/blog/conversations-of-ourselves-an-indigenous-survey-of-james-kivetoruk-moses
・Susan Hoffman Fishman, “Inuit Artists on their Changing Relationship with the Land and Sea,” April 29, 2019 https://artistsandclimatechange.com/2019/04/29/inuit-artists-on-their-changing-relationship-with-the-land-and-sea
・New Inuit Art, National Ethnographic Museum in Warsaw https://ethnomuseum.pl/wystawy/new-inuit-art
・David Mollett, "James Kivetoruk Moses, Inupiaq Folk Artist," Alaska Web http://www.alaskaweb.org/obits/mosesjk.html

グラフィック文化に関する学術研究助成 2023年度成果報告会および交流会

日時:2023年11月24日(金) 14:00〜18:00
会場:東京国立近代美術館 (東京都千代田区北の丸公園3-1)
プログラム:
■ 成果報告会 14:00〜16:00 同館内(地下1階)講堂
・ 中山恵理(郡山市立美術館 学芸員)「日本近代石版画研究発展のための亀井至一・竹二郎研究」
・ 碓井麻央(世田谷美術館 学芸員)「戦後日本のデザインにおける勝見勝の国際的役割─1960-70年代のICOGRADA関係者との書簡を中心に」
・ 石崎康子(元横浜市歴史博物館 主任学芸員)「金属活字における 平仮名・片仮名字形一覧の作成と研究」
・ キオ・グリフィス(多摩美術大学 客員教授)「グラフィックの身体性:BIPOCデザインの越境性について」
■ 交流会 16:30〜18:00 同館内2階レストラン「ラー・エ・ミクニ」
参加費:無料
申込:要予約(11/17締切)、先着80名
予約:https://www.dnpfcp.jp/CGI/gallery/event/form.cgi?eventid=231
主催:公益財団法人DNP文化振興財団
詳細:https://www.dnpfcp.jp/foundation/grants/2023event.html

  • 【極北極】外洋と凍海の狭間に生きるイヌイットのグラフィックアート