フォーカス
デザイン思考の反省から「ともにあるデザイン」に向けて
川地真史(デザインリサーチャー)
2024年02月15日号
ユーザーへの共感とニーズの理解を重視し、短い反復的な試行錯誤によって精度をあげていくプロセスを特徴とするデザイン思考は、クリエイティブ業界のみならずビジネスパーソン一般にとっても有益なツールとして広く普及した。しかし、2023年はデザイン思考の開発拠点であったIDEOが大量のスタッフの解雇を行ない、また『MIT Technology Review』や『Stanford Social Innovation Review』を始めとする数々の媒体ではデザイン思考への総括的なコメントが散見された。では、デザイン思考は終わったのだろうか?
デザイン思考の終焉を真に受けたとして、近年では、それに代わる新たなデザイン方法論やアプローチが次々に出現していることもまた事実である。イギリスのデザインカウンシルは、直線的な問題解決ではなくシステムの全体的な変容のための介入を標榜する「システミックデザイン」を提唱する。また、気候危機や大量廃棄の現状をふまえ、直線的な生産─消費─廃棄のモデルから脱却するための循環的な経済を志向した「サーキュラーデザイン」も注目を浴びている。筆者も、人間を独立して存在する主体として考えず、森や微生物、海や機械など“複数の種の絡まり合い”からみる「マルチスピーシーズ研究」をケアの視点からデザインにつなげる試みや、他者との出逢いと協働から一人ひとりが自律的に活動を立ち上げていく創造的な環境形成を「ソーシャルイノベーションのためのデザイン」と称し、もがきながら実践している。
しかし、萌芽的な潮流にも、一過性のバズワードとして消費されかねないリスクがあるようにも感じる。思えば、「特定のやり方を採用すればうまくいく」というフィクション自体、デザイン思考が形成してきたひとつのメンタリティかもしれない。本稿では、デザイン思考の諸問題を省みつつ、それに代わる「ともにあるデザイン」のビジョンの輪郭について、自らの実践例をまじえて共有してみたい。
デザイン思考を批評的に問う言説は、今にはじまったものではない。1992年の論文においてデザイン研究者のリチャード・ブキャナンは、そのポテンシャルも認めつつも「デザイン思考の線形モデルは、明確な条件を持つ確定的な問題に基づいている」ため、非線形の問題構成を特徴とする「意地悪な問題」と呼ばれる問題群に対して有効打にはならないと述べる
。複数の問題が絡まりあっているはずの厄介さを捨象し、単純化した問題定義に陥る要因となってしまうことも往々にしてある。問題解決を謳いつつも問題の規模が「企業の問題」に矮小化され、裕福な顧客の生活の利便化と、企業利益に貢献しただけの事例も多かったのではないか。事実、デザイン思考のようなプロジェクトはコンサルティング企業が大企業から委託を受けて取組むケースが目立つ。その起源には、1990年代のアメリカが安価な労働力確保のために中国に製品開発をアウトソースしていたが、2000年代初頭から中国が自社製品の開発をし始めた際に、工学的な製品開発における価格競争のプレッシャーがあったそうだ。その活路が、コンサルティングによる経営の意思決定への参画だった
。ここに問題の核心を見出すことができる
。今やデザインは、単に業界の問題に閉じず、現代社会の抑圧や、そして惑星レベルの危機につながっているからだ。デザインの政治性がもたらす、Defuturingな状況
──「気候危機は、私にとって第三次世界大戦と同じくらい不安なのです」
昔住んでいたフィンランドで、そう語った友人の言葉が脳裏をよぎる。実際「プラネタリーバウンダリー」という概念が示すように、人々が安全圏に身を置いて暮らすための惑星環境は、その持続可能性がすでに限界を迎えているとされている。人類の活動が地球全体に大きな影響を与える現代は「人新世」と名付けられたが、環境への加害者たる“人類”とひとくくりにされている者のなかには、抑圧されている人々も含まれている。ポストヒューマニズムの論者ロージ・ブライドッティが、近代の人間観は西洋・白人・男性・五体満足である人間(man)に限定されていた、と指摘するように
。そのため、“人類”全体の営みに責任を帰するのではなく、先進国の経済活動と資本主義の大量生産システムこそが加害の原因なのであると主張するため、「人新世」の代わりに「資本新世」というタームを主張する学者もいる 。デザイン思想家のトニー・フライは、資本新世めいた現代を、デザインによりもたらされた「Defuturing=脱未来化」的な状況だと捉える。Deとは打ち消し・否定の接頭辞であり、端的にいえば社会システムも生活様式も、未来の持続不可能性を内包していることを表わしている。「構造的な持続不可能性は私たち自身である」というわけである
。デザインという営みは存在論的に私たち自身を作り変えていくのだという言説もある。デザイン理論を教えるアン=マリー・ウィリスが述べたように「私たちが世界をデザインする一方で、世界は逆に私たちをデザインして」いるのだ 。例えば、プラスチック製の買い物袋は流通当初は画期的なデザインだったはずだ。しかし、今となってはゴミとなったそれらの微細片が海に流れ着き、食物連鎖の過程で私たちの体内にマイクロプラスチックが取り込まれるほどになっている。以前フィンランドでプラスチック製品を買わない一週間の生活日記をつけるリサーチを行なった。忙しくてもコンビニ商品は当然選択できない。プラスチックフリーな製品を買うには地下鉄に乗るしかなく、大きなストレスを感じた。それほどまでにプラスチックは現代社会に埋め込まれ、私たち自身を持続不可能な存在に変容させている。
このように、持続不可能性を抱えた社会のあり方には、デザインが大きく関わっている。近年のデザイン研究に大きな影響を与えている人類学者のアルトゥーロ・エスコバルが、そうしたデザインの根底にあると問題視するのは、近代西洋の世界こそが優れているとする「一つの世界」という認識だ
。ここには、主体と客体、自己と他者、人間(文化)と自然、西洋と非西洋を切り分け、他方を劣った他者として区別することで、植民地支配や自然搾取を導いてきた二元論的な世界観がある。そのうえでエスコバルは「デザインそのもののリデザイン」の必要性と可能性を語る。これまでのデザインの解体を通じて、現在において支配的にDefuturingな状況をかたち作っているシステムや人間性を再考することに希望を見出すのだ。以上の理論を踏まえると、実践的にはどんな方向性がありうるだろうか。私自身は「ともにあるデザイン」が重要ではないかと思う。それを三つのポイントに分け、拙いながら自らの事例を交えて示したい。その三点は「問題とともにある政治性を自覚すること」「だれもがデザイナー的存在になること」「関係の網の目の内に入ること」だ。
神のような中立性から、泥をかきわける政治的実践へ
従来のデザイナーは自身が中立的かつ“非当事者的”な関わりをする前提に立っていたように思う。言うなれば、問題の外側に身を置き、手足を汚さない“神のような”視点だ。そこには、自身の振舞いがプロセスに及ぼす影響や、成果物がどう社会をオントロジカルに再形成するのか、といった政治性への自覚はない。しかし、製品設計にせよサービスの提案にせよ、いかなる人工的な介入も中立的にはなりえず、何らかのバイアスを常に反映しており、同様に何らかの価値を排除することにもなる。共働きの家庭に向けて簡便な調理キットを提供すれば、家事の余裕のなさにとって根本原因である社会システムの変革要求から目を背けさせ、効率主義を強化することにつながるかもしれない。
フィンランドのアールト大学にいた際に受けた授業に、デザイン実践の「特権性(privilege)」を批評的に内省する機会があった。ある属性に所属していることで、何もしなくても他者より優位に立ててしまうのが「特権」の意味するところだが、それはジェンダー、民族・人種、言語、障害から、教育水準や世帯年収まで広く関わる。授業では、自分たちの特権性が過去のプロジェクトにどう投影され、誰を排除し、どのようにデザイン上の意思決定に影響してきたのかを議論した。
ところで、ティム・インゴルドは、人類学において対象を外側から観察するのではなく「内側から知る」ことの重要性を指摘する
。デザインを行なう主体としての特権性に自覚を深め、その「内」に分け入れば、決して神のような立場ではいられない。自らの無知や政治性、責任も引き受けざるをえなくなる。自らの身を投げ込み、泥をかきわけながら、問題や責任と「ともに」生きる政治的な実践こそが、必要な関わり方ではないだろうか。主客二分の設計論から、誰もが行為主体となる空間へ
以上の見方は、従来のデザイン思考に対する批判にも通ずる。デザイン行為のコンサルティング化によって特徴づけられるデザイン思考では、ユーザーへの共感が重視されはするものの、しかし「デザインする主体=デザイナー」とデザインの価値やソリューションの「受け手=消費者」とのあいだには、非対称な関係が生じる。その関係性のなかで、人々は「消費者」として扱われ、「当事者や生活者、問題状況の関係者」である側面が捨象されてしまう。状況に影響を与える行為主体性は、往々にして失われ、与えられたものを受け取るしかなくなってしまう。
こうした非対称な関係は、行政と住民、医療者と患者、教師と生徒...といったように、日常のあちこちに横たわる。人と自然の関係、たとえば森の樹木を見ても同様だ。環境学者プラムウッドが「人間以外は、より高次の人間のための単なる資源または道具として存在する」 と述べたように
、森や木々が日々の暮らしになにをもたらしているかを見過ごしてしまうとき、それは単なる「資源」という利用対象に陥る。以前、私が共同代表を務める法人・公共とデザインで、多様な「産む」にまつわる価値観を問い直すためのコ・デザイン(co-design)と制作、展示からなるデザインリサーチプロジェクト『産まみ(む)めも』を実施した。まず、強く「産む」に向き合ってきた不妊治療や特別養子縁組の当事者、医療関係者やNPO法人へのヒアリングを実施。その後、公募した25人弱の参加者とともに、コ・デザイン・ワークショップを行なった。子どもが欲しくても養子しか選択肢がない男性同士のカップル、やめ時がわからない不妊治療当事者、育児と仕事の両立が不安な学生、特別養子縁組の養親、精子バンクを介した出産の経験者……といったさまざまな属性や関心事をもつ参加者が集った。そのワークショップでは、座談会の実施をはじめ、リサーチ結果に基づいて制作したツールを用いた即興演劇や架空の商品制作などの表現行為を通じて、各々のもやもやを“発酵”させながら、対話と内省を深めていった。最終的にはその過程およびアーティストの作品を展示した。
リサーチの過程でもいくつかの課題が明らかになった。不妊治療において必要なタイミングで必要な情報や選択肢が見えづらいゆえに、適切な決定を行なう難しさばかりか、その決定や選択を背負う負担がある。それに対し、治療の流れを可視化した共同的な意思決定支援ツールを制作するといった介入機会は見出せる。ただし、単一のソリューションを志向した瞬間にデザインの主体/客体に分断され、従来のデザイナー的な立場とソリューションの受け手という関係性のなかに閉じ込められる。
本プロジェクトの端緒にあったのは、私自身「ひとりの当事者」でもあるという事実だ。年齢的には30代に入り、パートナーと子どもについての話をし始めていた。しかし、パートナーは台湾人で、日本語が流暢ではないので仕事の不安も抱えているし、出産となると親の力を頼りたくなるものの、遠方にいるため簡単ではない。私も会社を立ち上げたばかりで、経済的な不安もある。しかし、お互い本当にどうしたいのか、話し合いは深まっていなかった。社内の他のメンバーも各々の状況のなかで子どもを巡る悩みを抱えており、それに向き合いたい、というのがそもそもプロジェクトのはじまりだった。事実これがきっかけとなり、以前は想像さえしたことがない話題もパートナーと話し合ったうえ、ワークショップでも自身の葛藤を他者に話す一方、他者のそれに耳を傾けることで分かち合うことができた。
とある特別養子縁組の養親は、「迎えた子どもに対して、『実際に産んだ子ではない』ということを定期的に伝えている」と話していた。絆を一度壊したところから積み上げ直す。そうして親に成っていくのか、と衝撃を受けた。本当に子どもをほしいのか、話し合えてさえいなかった当時の私や他の参加者にとって、親になるとはどういうことかを問われるような会話だった。
デザイナーとして、演劇ツールを作成したり、環境形成の補助線を引いたりする。他者と「ともに」、葛藤やもやもやを表現する。他者を触発し、自らの問題についても徐々に見方が変わり、受け入れられるようになる。──そうした空間ではデザイナーは一要素に過ぎない。そこでは誰もが行為主体であり、互いに影響を及ぼし合う関係的なデザイニングの空間が生じていた。
複雑さの外部化から、関係とともにある絡まり合いへ
人間、それも一部の特権化された人々の利害に適合してきたデザイン思考や人間中心設計は、その内実においては、環境と人間そのものを作り変えることで持続不可能性をもたらしてきた。
批判すべきなのは、「ユーザー」に含まれる範囲の狭さである。土を豊かにする普段は不可視の微生物や、衣服産業の素材栽培において汚染される河川が気にかけられることはない。それらは直接の「ユーザー」ではないため、その悪影響の責任を企業やコンサルティング会社のデザイナーが引き受けることもない。しかし、エスコバルの著書『Designs for the Pluriverse』の副題に「ラディカルな相互依存性」とあるように、私たちは人間以外のものたちとも相互に依存し、複雑に絡まり合っている。このことは生における、根源的な初期条件でもある。
「ラディカルな相互依存性」に基づくデザインは、人間/自然が互いに依存しあっていることや、人類学者アナ・チンが述べるようにそれぞれの種にとって固有の時間的リズムが存在することへの気づきからはじまるのではないか
。そうした考えのもと、私が主催する法人Deep Care Labでは、人間以上(more than human)の存在との関係を結いなおすマルチスピーシーズ・ケアをめぐる探求型コミュニティプログラムおよびその参加者による成果展示「多種とケア展」を開催した。具体的には、まちなかの人間以外の種とのケア関係を見出すフィールドワーク、身近なモノをケアする儀礼のワークショップ、日常でのケア行為を振りかえる日記やログなどを通じて多種と「ともに」ある感覚や実感を養い、参加者自身が最終的に対象を設定して、ケアの実験およびその成果を発表した。プラスチックへのケアを選んだ参加者は、「畑の雑草マルチ抑制のための黒いビニールシートが千切れて耕作放棄地に埋まっている風景や、鹿よけのために貼られた田んぼを囲う蛍光色のピンク色のビニルテープ」といった「見たくないものとして蓋をしていたプラスチック」が日々の風景に立ち上がることに、最初はとまどいを覚える。しかし、徐々にプラスチックと触れ合いつつ、本来的に石油由来であるプラスチックが植物や藻の死骸の100万年以上分もの堆積から作られることを知り、人間を超えるタイムスケールに触れる感覚が芽生えてきた、と振り返っていた
。とはいえ、こうした感覚は問題解決にすぐさま繋がることはない。例えば、「プラスチック袋を使うのをやめる」といった意志決定のほうがよほどわかりやすい。もちろんその決定自体は重要である一方、極端な表現をすれば「自分はこう行動しているからよいのだ」と、問題を自身と切り離す材料になってしまうかもしれない。それは同時に、自然の生態系と人間の産業にまたがるプラスチックとの関係を切断することでもある。むしろ、単なるゴミとしてプラスチックを悪者扱いせず、それを生活環境や自然環境から今さら切り離せることはないと理解しながら、やはり悪影響も生み出している厄介さや不都合と「ともに」生きるしかない。そう引き受けるプロセスが生じることに意味があるのではないだろうか。
「多種とケア」展でのプログラムにおいて焦点化できたのは、ひとりの「わたし」が多種とケアし合うことで生じる感覚の変容と気づきである。人間以上のデザインについて論ずるデザイン研究者ロン・ワッカリーは、“Design-with”という概念を提唱する
。そこでは人間および非人間から成る“集合体そのもの”をデザイナーとして捉えるような再定義が行なわれる。試みに料理のメタファーを用いれば、その営みは料理人だけでは成り立たない。さまざまな食材、調理器具、鍋、レシピ、火、産地、そして──その場にいる人々の関心によっては──食材が育った土なども含められるように、人間だけを優位に立たせることなく非人間もふくむ「構成員」とともに語り、気を配ることで料理が作られている。一方で、その集合体における人間固有の役割として非人間を代弁し、見過ごされている構成員を召集することが挙げられる。しかし、この絡まり合いのなかに生きる実感や、非人間とともにある気づきが芽生えなければ、その者たちを召集し、代弁することもかなわないのではないか。そして、どんなデザイン的な介入も従来の世界観に陥ってしまい、既存の硬直化した関係性のなかに閉じてしまう。そうではない関係の仕方、それは他者として現われるプラスチックや植物や微生物と「ともに」あらねばならない関係に巻き込まれ、終わりなきケアの営みを続けることに他ならないのではないか。
終わりに
デザイナーである以前の「わたし」を自覚し、泥に浸かる。自らの政治性や厄介な問題、不都合な他者と「ともに」なんとかやりくりしていく他ない。しかし、そうした「ともに」ある関係の生成は、自らの思いもよらない変化にひらかれる機会でもある。RMIT大学の赤間陽子は次のように述べる。
「『Co(ともに)』とは、他者/他の存在により持ち込まれる影響や介入、破壊、緊張や不確実性を受け入れるための『余白性』を意味する
」「ともにあるデザイン」とは、変容可能性に賭ける思想でもある。これまでの「わたし」を手放し、同じ自分、同じ関係ではいられない出逢いと感染に賭けること。そして、そんな小さな自己や自他の関係が変わるのは、大仰ではなく世界が変わることでもあると思う。
デザイン思考におけるニーズの充足や問題解決は、清浄でいたいというある種のデザイナーの欲望にマッチした。見たくないものに目を伏せ、関係したくないものを切断し遠ざけるような気楽さがそこにはあった。しかし、これからは責任を分かち合い、不都合の受け入れによる痛みを伴いながらも変容していける関係的なデザインの道を、「ともに」愉しみながら歩んでいきたいと思う。そんな実践に身を乗り出すひとが増えることをまた、願っている。