フォーカス
建築の錬金術
木村浩之
2009年09月01日号
ノヴァルティス社「知のキャンパス」構想
この若干無邪気なスペキュレーションの信憑性はさておき、ノヴァルティス社のここ数年の建築プロジェクトは本当に凄まじいものがある。
そもそもノヴァルティス社はチバガイギー社とサンド社が1996年に合併してできた会社だ。チバガイギー社ももとは別々のチバ社とガイギー社だったわけで、バーゼル市内に分散してしまっている執務研究部門を一堂に集める必要性が生じていた。そこでヴィットリオ・ランプニャーニという、イタリアの有力建築デザイン誌『ドムス(domus)』の元編集長であり、その後チューリヒのスイス連邦工科大学で学科長を務めもした、ヨーロッパ建築メディア界のドン的存在の批評家・建築家に、新たな「知のキャンパス」としてマスタープランを依頼している。そのマスタープランは既存の建物をいくつか残しつつ50にものぼる多数の新築が数えられる大規模なものだったが、そこまでは格段驚くにあたらない。
ただそれ以来今までに、年間に3〜4棟程度のペース、つまり平均して3〜4か月に1棟の割合で軒並み竣工しつつある建築がすべて超有名建築家による超高総工費建築となると驚くばかりだ。7月にも日本人建築家で4人目となる槙文彦棟が完成したかと思うと、8月はフランク・O・ゲーリー棟のオープニングだ。
最初の5棟まではコンペ形式で建築家を選んでいたのが、その後は直接契約形式に変わり、今までにディーナー&ディーナー、ペーター・メルクリ、SANAA(妹島和世+西沢立衛)、アドルフ・クリスチャニツ、デヴィッド・チッパーフィールド、エドゥアルド・ソウト・デ・モウラ、アルヴァロ・シザ、谷口吉生、安藤忠雄、フランク・O・ゲーリー、レンゾ・ピアノ、ジャン・ヌーヴェル、ヴィットリオ・ランプニャーニなどの名前が見える。まだ公表されていないプロジェクト群が今後も続々発表になっていくに違いない。
マスタープランのうち実際建ったのはまだ半分にも満たないが、8月18日付けのプレス発表によると今後はライン河沿いの「ビーチ」ゾーン開発などの外部空間にも更に力を入れていくとのこと。
ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタの芸術総監督を複数回務めた超大御所キュレーターであるハラルド・ゼーマン(スイス人、1933〜2005)がアート作品購入の役についていたということを聞くだけでその心意気が伝わるが、すでにリチャード・セラやジェニー・ホルツァーの巨大な屋外作品が外からでも見えるし(他にウルリッヒ・リュックリーム、エヴァ・シュレーゲル、ダン・グラハムなども)、内部も、例えば社長(CEO)のダニエル・ヴァゼッラの個人コレクションのアンティーク家具やアートピースが無造作におかれていたり、エールフランス版コンコルドのインテリアデザイン等で伝説となっているアンドレ・プットマンがSANAA棟のインテリアをまるごと担当していたりと、話題にはことかかない(ただ、SANAA側がプレスに使う写真はあえて内装工事前にヴァルター・ニーダマイヤーに撮影してもらった写真なのでほとんどプットマンのインテリアを目にすることはないのだが)。
僕の勤める事務所が担当した建物はキャンパス内の名誉ある新築第1棟目だった。このキャンパスの敷地となった元サンド社がそもそもは(19世紀のバーゼルの名産品だった)シルクリボン染色用の顔料製造から始まっていたことを引合いに出し、「色」という「失われた伝統」を前面に出すデザインコンセプトが買われてコンペで選ばれたものだった。実現にあたり、特殊色ガラスを使ったファサードの構成はヘルムート・フェデレというスイス人アーチストとのコラボレーションで、室内の熱帯温室(なるものがあるのだが)はランドスケープ・アーキテクトのギュンター・フォクトとのコラボレーション、内装・家具はヴィトラ社とのコラボレーションだった。一言で言い換えると、予算がふんだんにあったのだ。夢のように。
しかし残念なことに、このキャンパスは基本的に一般公開していない。ゲートより先は許可書なしでは入れないのだ。もったいない、とも思われるが、「ここで働く人にとって良い環境を提供したい」というのがノヴァルティス社がここまで建築環境につぎこんでいる理由であるので、一般公開する必要などそもそもないのだ。
各々の建物の上階は個人認証などのセキュリティアイテムがないと入れないようになっているが、1階はオープンユースになっていてビジターでもどの建物にも入ることが出来る。例えばディーナー棟がタパスバーになっていて、SANAA棟が寿司バー、メルクリ棟がカフェというように、日替わりでメニューを選ぶと同時に建築観賞もできるようになっているのだ。日本人にとって外国のスシは必ずしも手放しで喜べるものではないが、ここに入っているカフェもスイス屈指のショコラティエなどであり、建築と同時に食においても今までのチープでモノトーンな社食のイメージを覆すような一連のクオリティーを提供している。
建築は「賢者の石」になりうるか
有名建築家をごっそり呼んで建てさせる建築道楽的なものは80年代の日本にも見られたが、これらは純マーケティング目的であった。そのことは主に分譲の集合住宅だったことからもよくわかる。
ここバーゼルでは、芸術家パトロン的色合いの強いロシュ社も含めて、「ここで働く人にとって良い環境を提供したい」というテーゼがこの建築ブームに共通しているように思われる。それはすべて自社ビルであることからもよくわかる。両社ともに建築家らにとって類稀れな理解あるクライアントだと言っていい★2。
ただ奇妙なことにノヴァルティス社とロシュ社では前例が示す限り、他者が使った建築家には敬遠し依頼していない。商品開発の内部事情に深く関わりを持つ広告代理店などは同業社を掛持ちしないというが、建築家がそれと同様に扱われることに対する奇妙な感じは否めない。だからこそ、いよいよノヴァルティス社がツーク湖という金持ちの集まる中央スイスの風光明媚な湖畔に、それもロシュ社の研修所から数キロしか離れていない敷地に研修センターを計画し、その設計をペーター・ズントーに発注したという話をきくと、また意地悪いスペキュレーションを働かせてしまうというものだ。
ノヴァルティス社及びズントーはバーゼルのマスタープランで行なった既存道路を移動させるという大ワザをツークでも行ないたいらしい。それがすでに新聞などを賑わしていることから考えて既にある程度の設計が出来上がっているに違いない。
そういった状況、つまりどちらからの仕事も受けないのではないかと見られていたズントーの名前を振りかざしつつ、プロジェクトの画像が一向に出てこないまま、ド派手な動きだけが伝わってくるいやらしい現況が、それがただ世間を賑わすためだけなのではないのか、という悪意をもって受け取られてしまうのだ。
逆に言うと、噂になりさまざまな憶測が飛び交うほど両社は同様に建築へ多大な関心を示しているということに他ならない。そこまでして両社ともに「より良い」プロジェクトを提供しようとする意欲は何なのだろうか。ジェネリック薬品の普及による売上げの減少などに悩まされつつも、まだ期限の切れていない特効薬を持つ会社を買収し続けているお蔭で不況知らずの両製薬会社が、社員たちのために「良い環境」をつくろうとしている真の目的とは何なのだろうか。
錬金術では「賢者の石」が触媒となって貴金属となったり永遠の命が与えられたりするはずだった。これらの建築は、未だ見ぬ「賢者の石」となることを期待されているのだろうか。錬金術師でもあった医学者パラケルススがいたらそう言ったかもしれない。
しかし、今は500年後。そんな時代ではない。
とはいえ時代が変っても変らない土壌というものがある。
ここはバーゼル、新しいものを試みる場所、そう、ここは自由な土壌の実験室なのだ。
人体の解剖などはもう昔の話で、今では製薬業界ではありとあらゆる生きた動物を使って「人間のため」に実験をくりかえしている。建築空間を使った人体実験くらいあってもおかしくない★3。近い将来、製薬会社は未だ建築界では書かれたことのない「良い建築とは何か」という課題について、データを集め、レポートをまとめるかもしれない。いや、そのタイミングを争ってすらいるのかもしれない。そしてついには建築が人類を救える日がくるのかもしれない。そんな優雅な夢想まで起させるような活発で広範な建築へのコミットメントは、まだ当分は続きそうである。