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Artscape Book Review
暮沢剛巳
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スーパーフラットを考える

   一年の折り返しの今の時期、多くのメディアでは「上半期の収穫」といった特集が花盛りである。アートもまた例外ではないわけだが、その賛否はともかく、この上半期に最も観客の耳目を集めた展覧会の一つが、村上隆企画の「スーパーフラット」展であることに誰しも異論はないだろう。日本の伝統美術の平面性と現代アニメに代表されるオタク文化の平面性を接続し、両者を同じ地平に位置付けること−−洗練された技術と巧妙なマーケティング戦略が同居したこの一連の営為によって、90年代後半以降、村上隆は現代日本を代表するアーティストとしての地位を確立したのだが、自らが企画した今回の展覧会でも、写真や映画にまでその間口を拡げつつ、会場には自作とほぼ同じ意図を共有する作品が配置されていた。要点を抽出して考えるなら、表現形態としての「スーパーフラット」の可能性は上に述べた一点に尽きている。すなわち、日本には久しく以前から一切の内面を捨象してしまった「スーパーフラット」が存在した、そしてこれぞ内面の深みを超克すべき現代美術のユニヴァーサルな方途なのだ、という具合に。だが率直なところ、作品の質的判断という観点に立てば、当の村上や奈良美智のように高水準の技術に裏打ちされた作品はむしろ例外で、多くの作品がむしろ稚拙であった事実は否定できず、展覧会の企画意図が十全に実現されたかどうかは疑わしい。その意味では、同時に出版されたコンセプトブック1は、必ずしも展覧会そのものによっては実現されなかった「スーパーフラット」の論点を検討する上でも重要な役割を担っているだろう。

『スーパーフラット』村上隆編
『スーパーフラット』村上隆編
マドラ出版

『オタク・ジャポニカ―― 仮想現実的人間の誕生』
『オタク・ジャポニカ
―― 仮想現実的人間の誕生』
エチエンヌ・バラール
河出書房新社
'Donald Judd Colorist' Hatje Cantz Publishers 2000
"Donald Judd Colorist"
Hatje Cantz Publishers 2000

同書の冒頭に収められたマニフェストで、村上は明治以前の日本画にまで遡りつつ、既に述べたような従来の立場を繰り返し強調している。それは、『日本・現代・美術』や「日本ゼロ年」展展において展開された椹木野衣の立場とも大いに通底するものであるが、椹木の仕事が強い終末観に支えられていたのに対して、村上は同じ地平をむしろ出発点として、新たな創造のためのスプリングボードとして位置付けている。そして同書に村上隆論を寄せた東浩紀−−この論客の積極的な介入も、「スーパーフラット」が高い関心を集めた一因だ−−もまた、概ねその論旨に賛同しつつ、「スーパーフラット」の典型例でもある村上の作品に対して、もっぱらデリダを援用しつつラカンの「想像界」から「象徴界」への移行を軸とした注釈を試みた末に、「スーパーフラット」がポストモダンの最もラディカルな表現形態であるとの結論を導く。いずれにせよ、両者の主張は明解であり、「スーパーフラット」の揺籃たるオタク文化やさらにその背景たる「日本」を特権視しているのだとその論旨を単純化しても、決して誤りではない。
   この単純化は、必然的に「スーパーフラット」が極めて誤解を招きやすい表現形態であることを物語ってもいるのだが、だがその立場が決して孤立したものでないことは、そこで提示されている問題系を辿って考えてみれば容易くわかることである。たとえば、「スーパーフラット」に対する批判の多くが、オタク文化の自閉性、並びにそれとしばしば関連付けられる政治的な保守性へと向けられていることは確かだが、エチエンヌ・バラールの『オタク・ジャポニカ』2において、そうした従来の批判は見事に反転させられている。知日派のフランス人ジャーナリストである著者は、アニメやコミックから一連のオウム騒動までを幅広く視野に収めて、日本発のオタク文化が既に欧米諸国に対してかなりの影響を及ぼしていることを立証しつつ、日本におけるオタク文化の出現を、むしろ戦争責任を長らく清算してこなかった日本の戦後社会に対する内省として位置付け、またその今後の趨勢を好意的に予見している。同書のテーマでもある「仮想現実人間」の定義がそれほど精密と言えないのは残念だが、少なくともオタク文化に対する二つの偏見を実証的に論破している点は、同書の美点として評価すべきであろう。

 さらには、ドナルド・ジャッドの作品集Colorist3を繙き、ミニマリズムの代表的作家と目されるジャッドのシャープな覚醒感が、実は絵画的イリュージョンとは別種のイリュージョニズムに根ざしていることを教えられると、「スーパーフラット」の平面性には、そもそもジャッドの同時代人であるロバート・ラウシェンバーグの「フラットベッド」という重要な先行者があったことへと連想が及ぶことになる。もちろん、絵画と彫刻との分類を問題視するジャッドの「スペシフィック・オブジェクト」と、転写を意味する印刷用語から流用された「フラットベッド」は全く異質だが、抽象表現主義以降の新たな表現形態の模索という一点に共通項を指摘することはできるし、それはまた平面性の追求としての「スーパーフラット」を世界的趨勢の中でとらえることをも可能とするのかもしれない。  
 アート・ヴィレッジの中にいると、まるでこの表現形態の中にしか現代美術の可能性がないかのように「スーパーフラット」がちやほやされている半面、少し距離をとると、日本という国民国家の顕揚は結局のところ文化的保守性の追認であるという形而上的な言説から、かつて「二次コン」(アニメのキャラクターにしか性的衝動を感じない現象)と呼ばれた幼児的退行現象の言い換えに過ぎないとの形而下的な言説にいたるまで、とにかく「スーパーフラット」がバッシングとしか言いようのない激しい批判にさらされていることに気づくことになる。しかし、賞賛するにせよ批判するにせよ、なぜ「スーパーフラット」がこれほど両極端な反応を引き出したのか、その理由を説明できなければ説得力を欠いてしまうだろう。その意味では、現実の展覧会とコンセプトブックの不整合が、「スーパーフラット」の核心の理解を妨げてしまった事実が何とも残念である。

[くれさわ たけみ 文化批評]




関連文献
「特集=スーパーフラット元年」(『広告』2000年1+2月号)
「特集=21世紀建築、スーパーフラット)(『美術手帖』2000年5月号)
「特集=〈Jな主体?〉と階級再編」)(『情況』2000年6月号)
浅田彰「スーパーフラット・アイロニー」(「『波』2000年6月号)
「浅田彰+椹木野衣対談――新世紀への出発点」(『週間読書人』2000年7月14日号)



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