中ザワヒデキ●現代美術
論理の内部や諸学芸において同語反復が露呈し、それを口実として多様化が進行し快楽至上主義が横溢した20世紀後半の諸状況は、同じく同語反復を指摘したソクラテスの時代のアテネの状況と似る。そして、どちらも民主主義体制の結果としての、権威と意味の崩壊に裏打ちされている点で、同じ構造であると考えられる。
かつてのギリシアおよび西欧がたどった道程は、長い時間をかけて再び未来において繰り返されるだろう。つまり、プラトンに始まる意味の復権が行なわれ、快楽はいずれ禁止されるだろう。そして意味は、それじたいの性質から多様化ではなく単一化を希求し、あるいは専制君主や一神教を、千年紀的なスパンで復活させることになるかもしれない。
ちなみに西欧の支配体制史は、共和制における多様化から一神教における単一化までの振幅の繰り返しである。東洋を含む他の多くの地域では、近代化以前は戦国時代における多様化から王朝時代における単一化までの振幅の繰り返しである。東洋は西欧ほど振幅が極端ではないが、多様化と単一化の繰り返しは、世界史に普遍する共通事項である。
とするなら、20世紀が多様化の極限だったという歴史認識に立つとき、行く先が一神教か君主か他の何かはわからないとしても、再びある種の単一化が希求されるようになるだろうことは、歴史法則主義の立場から演繹できる。もっとも歴史法則主義を批判する歴史主義の立場はそれを否定するだろうが、20世紀後半に説得力をもった歴史主義じたいが、ポストモダン的多様世界の現状肯定に寄与したと私は考える。
21世紀のうちには、多様化方向から単一化方向への折り返し地点が到来するだろうと私は予測している。しかし2001年はまだ前世紀の延長にすぎず、ポストモダニズムの変奏たるポストコロニアリズムやスーパーフラットが依然優勢だろうとも予測している。多様化しきった世界に、相変わらずイデアは不在のままだろう。もっともそこを見越して、神でも君主でもなく論理への単一化を再び主張し始めたのが、わが事ながら方法主義芸術の活動である。だがそれが依然少数派にとどまるだろうことは、想像に難くない。
※編集部からの執筆依頼は美術についてであったが、美術を含む諸学芸に対する一般論的回答とした。時代状況の関数としての学芸の状況は、諸学芸間で同期すると考えるからである。