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FOCUS=[アンケート]アート・シーン2001 .


・新しい世紀に、現代美術の新しい方向はありますか?
・2001年にはどんな「美術」展/運動/動向がありますか?

村上隆●現代美術

あります。
日本人に求められている真の革新的なるアイディアの源泉として、アートがヴィジュアル的、テキスト的な、そして魅力あるマーケットの提供も出来れば、よりアート理解者が増えて行くはず。
「現代美術」界の経済学、例えば、「金は別問題、叉は天から降って来る」的な考え方は根本から見直されるべきだ。アートも一つのビジネス。
今までは、アートビジネスというと、カリカチュライズされた日本画業界なりがマネーロンダリングの温床になっていたりとか、街角で客引きを行なって売る妙にリアルな“なごみ系”イラストがイメージされていた。
一般的に負のイメージがこびり着いている。
その点に関して「現代美術」陣営もただ無意味に批判するばかりで、それらに変わるビジネススタイルを編み出していない。ここに問題点のほんの氷山の一角を並べてみよう。
1――「現代美術」のギャラリー全てに言える金勘定の不透明さ
これは何とかすべきだ。しかもチンマイ、トリックを使い「悪!」としてのスケールもない。マネーロダリングですら出来ないだろう。上から下までにおいて社会的信用がまるでない、もしくは使い途のない業者なのだ。
2――アーティスト
若い連中に期待したいが、全くダメ! 本当に「美」を司る業者になろうとしているのか? 物造りテクニックから人とのコミニュケィション、メディア対応に至るまで、ミュージックビジネスのアーティストの15%ぐらいのスキルしかない。
自覚が無いのはギャラリストと同じ。もしくはこの双方の共犯関係、否、甘えあっているのだ。苦労して入った美大の糞のようなステイタスにしがみつき、レベルの低い人脈を何となく造っては業界人面をしている。そして貧乏生活の肯定化へ言い訳の捻出をはかる。
3――コレクター
一つでも作品を購入すれば、作家と友達になれると勘違い。「俺が育てた」とのたまう輩が多いのも「現代美術」のマーケット能力の弱さを露呈させている。ギャラリスト、アーティストともに「売れなくちゃ!」との媚びが出てしまい、こんなバカなコレクター達を甘やかすはめに。「ホビーを超えて、理念を買う」的人間は本当に1人か2人だ。
4――美術館
美術館批判があるけれど、中に入っている馬鹿高いコストを要求する業者をつかわなければならないシステムを、行政が改革しなければ、コストを下げてなお面白い番組を造る事は不可能。それを、美術館だけのせいにするのはおかしい。
が、しかし、展覧会に出品した際のアーティストへのギャランティが、たった¥50000とはこれも変だ。ギャラリストは学芸員の様子を伺い「購入してくれ!」と祈るばかり、もしくは小さなネゴシエイションを展開。いまや購入されても誉れ高き美術館では無くなってしまっている為、そのエフェクトが市場に降りて来るわけでも無い。

ではそんなグズグズな「現代美術」業界!どうすれば未来を造れるのだ?
「現代美術」業界人が自分達がいったいこの腐った日本でなにをやろうとしているのか、キッチリとしたコンテクストを編み出す事。その後に自信を持って欲しい。ちなみにここでの私個人的な具体案は控えさせて頂く。2001年に全て実行して行くからだ。その正否に厳しい目を光らせておいて頂きたい。北大路魯山人が憂いた頃の日本美術業界よりも今はさらに土壺の最中だ。この糞まみれの中からきっと驚くべき「美」の集積回路が生まれ出されることを祈って私も「美」の使徒として自信を回復させるべく尽力したいと思っている。問題点が見えれば解決方法も簡単に見つかるはずだ。

[むらかみ たかし アーティスト]

中ザワヒデキ●現代美術

論理の内部や諸学芸において同語反復が露呈し、それを口実として多様化が進行し快楽至上主義が横溢した20世紀後半の諸状況は、同じく同語反復を指摘したソクラテスの時代のアテネの状況と似る。そして、どちらも民主主義体制の結果としての、権威と意味の崩壊に裏打ちされている点で、同じ構造であると考えられる。

かつてのギリシアおよび西欧がたどった道程は、長い時間をかけて再び未来において繰り返されるだろう。つまり、プラトンに始まる意味の復権が行なわれ、快楽はいずれ禁止されるだろう。そして意味は、それじたいの性質から多様化ではなく単一化を希求し、あるいは専制君主や一神教を、千年紀的なスパンで復活させることになるかもしれない。

ちなみに西欧の支配体制史は、共和制における多様化から一神教における単一化までの振幅の繰り返しである。東洋を含む他の多くの地域では、近代化以前は戦国時代における多様化から王朝時代における単一化までの振幅の繰り返しである。東洋は西欧ほど振幅が極端ではないが、多様化と単一化の繰り返しは、世界史に普遍する共通事項である。

とするなら、20世紀が多様化の極限だったという歴史認識に立つとき、行く先が一神教か君主か他の何かはわからないとしても、再びある種の単一化が希求されるようになるだろうことは、歴史法則主義の立場から演繹できる。もっとも歴史法則主義を批判する歴史主義の立場はそれを否定するだろうが、20世紀後半に説得力をもった歴史主義じたいが、ポストモダン的多様世界の現状肯定に寄与したと私は考える。

21世紀のうちには、多様化方向から単一化方向への折り返し地点が到来するだろうと私は予測している。しかし2001年はまだ前世紀の延長にすぎず、ポストモダニズムの変奏たるポストコロニアリズムやスーパーフラットが依然優勢だろうとも予測している。多様化しきった世界に、相変わらずイデアは不在のままだろう。もっともそこを見越して、神でも君主でもなく論理への単一化を再び主張し始めたのが、わが事ながら方法主義芸術の活動である。だがそれが依然少数派にとどまるだろうことは、想像に難くない。

※編集部からの執筆依頼は美術についてであったが、美術を含む諸学芸に対する一般論的回答とした。時代状況の関数としての学芸の状況は、諸学芸間で同期すると考えるからである。

なかざわひでき 美術家]


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