Art Information Archive
logo
四国エリア 毛利義嗣
Report
高松市コミュニティ・カレッジ'98[芸術コース]
ルート・ディレクトリ――表現の「場」について
高松市コミュニティ・カレッジ'98
  3.東浩紀(批評家)
    記号への感情移入、あるいは仮想現実の現実性について

 ここでいう仮想現実(バーチャル・リアリティ)とは複雑な装置を用いて知覚を騙すものではなく、もっと深いレベル、例えばアニメやゲームなどの仮想人格に人々が与える現実性である。人はなぜ二次元の映像に対して人間的な思いを向けるのか。アニメに魅かれるこの特殊なメンタリティを精神分析の言葉を使って構造的に述べることによって、ここ数年私が別々に行なってきた哲学の主題とオタク文化評論とを繋ぐことができるだろう。

 映画は基本的に実写であるが、アニメやゲームには現実の対象がない。この映像のタイプの違いは重要だ。アニメやゲームの映像の特徴を要約すれば、一つには「空間」がない、実際の空間での位置関係が意識されていないということがある。これは特に日本のアニメに顕著であり、カメラワークのほとんどない描き割的な映像が多い。二つ目は見る側の特徴として、アニメの登場人物をキャラクタ−(人間)として見ると同時にイメージ(絵)としても見ており、この二つの態度を自由にスイッチする、ということが挙げられる。この二重性はオタク的感性の特徴でもある。

 アニメに関する従来の言説の多くは描かれた対象の解釈にすぎず、そのような表現が何を問題としているのかを語る言葉をインテリ、オタクともに持てない不毛な状況に日本はある。そこで以上の特徴を別の観点から捉えるために、80〜90年代の日本のアニメ、ゲーム文化に相当する、アメリカのコンピュータ文化を見てみたい。シェリー・タークルによれば、コンピュータ文化には80年代半ばに大きな断絶がある。それまではスクリーンは見かけであり、その背後には現実の機械が想定されていた。しかし、GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)を用いた84〜5年のマッキントッシュの登場を契機に、スクリーン上のイメージが全てであるという新しい感性が導入され急速に流通し始め、ウィンドウズに受け継がれながら90年代以降支配的になっていく。これをコンピュータ文化におけるポストモダンのモダンへの勝利ということもできる。ポストモダンとは簡単にいえば、秩序、歴史、理性といった大きな物語、世界の「背後」がなくなるということであり、一般的には1940〜60年代に始まったとされる。その後のフランスの五月革命やベトナム終戦を経て、この問題にラジカルに直面していたのがコンピュータ文化の起源である70年代アメリカ西海岸だった。世界の背後がない、自分がいることを意味づけてくれるものがない、ということに耐えるための文化的な反応として、一方では強引に背後を捏造することが行なわれる。それがニューエイジ文化といったものだった。それと対をなすように出てきたのがコンピュータ文化であり、表面を表面だけで完結させる能力がそこで培われていった。80年代半ば以降広まっていったそのような感受性を、タークルは「At Face Value(文字通り)」をもじって「At Interface Value」と呼んだ。例えばアニメやゲーム、パソコン通信における仮想人格を現実として感じるようなメンタリティである。しかしこの場合、現実と虚構を混同しているのではなく、虚構だとわかっていながらあえて騙されている点に注意しなければならない。

 従来の映画のスクリーンは基本的に世界の窓であり、その向こう側に現実の保証がある一種の遠近法的空間であった。人は映画のスクリーンを見ると同時に、それがどこから撮られているのかという枠組自体をも見ている。スラヴォイ・ジジェクが分析したように、そのような映画の構造は近代的な人間の主体性の構造をよく表わしていて、だからこそ映画は20世紀において哲学的に特権化された存在であった。しかしコンピュータのスクリーンはそれとは異なる。外部を写し取ったものではない二次元のイメージだけが、ただ表面でぶつかり合っているのだ。同種のイメージが日本ではアニメやゲームにおいて頻出した。表面しかないそのようなイメージに向ける感受性が先に述べたオタク的視線の二重性であり、彼らもまた、絵だとわかっていながらわざわざそれを現実だと思って見ている。

 一つのものを二重に見る感受性について、私はここでジャック・デリダの「エクリチュール」という概念を導入してみたい。ヨーロッパ哲学では伝統的に、エクリチュール、つまり書かれた文字は絵(イメージ)と記号(シンボル)に分けて考えられてきた。しかしデリダの「エクリチュール」概念を、絵と記号の境界領域のようなもの、両者をたえず撹乱する相互貫入性として理解すれば、オタク的視線の分析にも応用できるのではないだろうか。もともと日本語の表記体系は絵と記号をはっきりとは分けられない。実際、街中のポスターや広告などを見れば、デザインと意味がどんどん入り混じっていく傾向が強いことがわかる。絵と記号、デザインとメッセージ、エロス的価値と実用的価値の横断は日本ではよく行なわれており、これがアニメやゲームの空間のない特殊な意匠と結びついていることが考えられる。アニメやゲームの作家は表面をイメージで埋めるのみで、それが何を表わしているかという意識が希薄だ。図と地の区別があいまいな表面の上での絵と記号の混在への欲望は、オタク的主体のメンタリティを強く規定している。いまや、そのような欲望について、より精密な分析が求められている。(高松市美術館/毛利義嗣編)

_____________________________________________________________________
↓

4.是枝裕和(テレビディレクター 映画監督)
テレビから映画へ、映画からテレビへ

_____________________________________________________________________
Copyright (c) Dai Nippon Printing Co., Ltd. 1999