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四国エリア 毛利義嗣
Report
高松市コミュニティ・カレッジ'98[芸術コース]
ルート・ディレクトリ――表現の「場」について
高松市コミュニティ・カレッジ'98
  2. 宮台真司(批評家、東京都立大学助教授)
   自己は自己を決定できるのか?
    ――自己決定論批判をめぐるパタン化された誤謬

 日本では性の規制措置に関する議論で4つの論点が必ず混同される。1)売買春、2)青少年がセックスすること、3)青少年が売春に関わること、4)性虐待、である。これらは日本以外の先進国では完全に区別されている。まず4)を合法とする国は世界中どこにもない。1)は先進国の多くで合法化されつつある。2)は合法化ないし低年齢化の方向にある。3)は多くは禁止する方向にあり、大半の国はセックスをしていい年齢の2〜3歳上で線引きしている。ちなみに日本では売買春は法律上禁止されているように見えるが、事実上は合法化している。また刑法では13歳がセックス合意年齢だが、淫行条例等により18歳に引き上げられている。日本の場合、近代化が進むほど性に関する規制が厳しくなるという比例関係がある。僕は基本的に日本以外の先進国が向かっている法制措置を支持する。そしてその法理を知れば、自己決定権という概念がよく理解できるはずだ。

 1)の売買春が人身売買や性虐待の温床になる状況は歴史的に長く続いてきた。ところが社会が成熟してくると、弱者が売り強者が買うという図式が必ずしも自明ではなくなってくる。売買春合法化の背景にはそのような売る側買う側両者の動機の不透明化がある。2)が合法化されてきたのは、子供にも自己決定権があるからだ。かつてのドイツなどでは、ヒトラーが明言したように、自己決定権は自己決定能力がある者にだけに与えられるという思想があった。現在の日本でもこのような考えを持つ人が多い。しかし、子供の権利条約の中心は人権思想であり、その中核は自己決定の自由である。能力について差別せず、自由は万人に与えられるというのが人権思想の中核だ。これに基づいて青少年のセックスが許容されるようになってきた。3)を禁止する論拠としては、交渉能力不足による不利益、問題解決能力不足による本人や社会のリスク、自由な試行錯誤を偏らせてしまう可能性、があげられるが、その背後にはさらに重要な議論がある。かつての枢軸国では、国家や天皇といった崇高な精神共同体との一体化が人間の尊厳であると考えられていた。これに対して連合国においては、尊厳とは自分の責任で行われる試行錯誤の結果得られた自尊心の積み重ねであった。外的な自由が保証された空間で、他人とのコミュニケーションを通じた他者の承認体系を積み重ねていくことによって尊厳を獲得していくという考えである。だから、低年齢の売春を禁止するのは自己決定能力がないからではない。売春に乗り出すことにより、自由の前提となる最低限の尊厳が損壊されてしまう可能性が高いからだ。自己決定権は自己決定能力と関わりなく万人にあるが、ある年齢までは、その能力が低い人たちが個人の尊厳を脅かされる可能性を抑止すべく、政治システムが一定の立法行為を行うことが期待されるということだ。

 このような尊厳観は今日本で重要になりつつある。日本のある世代までの男性は、所属による承認が尊厳であることを自明のものとしていたが、それは単に好景気に支えられた幻影にすぎなかった。成熟社会化の中でかつての枢軸国的な尊厳の形式は急速に打ち捨てられつつあり、別のタイプの尊厳が必要になっている。売春防止法など日本の性規制に関する法律は、公序良俗とか、健全な秩序とか、善良な風俗といった、先進国の中でも非常に異様な文面を持っている。20年ほど前までは他の先進国にもこういう文面はあったが、徐々に取り去られてきた。ドイツにおいても90年代に入ってから性に関する法律は「性の自己決定の侵害に関する法律」と名称を変えた。それまでの理想的な社会秩序に言及する法律からの変化だが、日本の売春防止法が想定しているのは、まさにそのような秩序である。つまり、男が買うのは仕方ないが、売るのはプロだけ、自分の妻や娘は売ってはならない。これがフェミニズムでいう家父長制的二重構造である。家父長制とはもともと妻や娘を自分の持ち物だと考える家父長の存在を名指すものだったが、売春防止法は完全にそれをイデオロギー的な基礎としている。これを廃止して新しく性に関する法律を作り直せと主張している女性運動家の人たちがいるが、それは今述べたことが理由である。過去数十年の先進各国の動きを見てみると、理想的な社会秩序については言及しない方向になってきている。成熟社会においては何が理想的な秩序であるのか人それぞれであり、特定の理想秩序に合意することなどこれからは永久にできない。守られるべきは個人の尊厳であって理想的な社会秩序ではない。理想的な秩序をベースに、我々の基本的生活行動である性に関する自由を制約することは許されない。これが、基本的人権の思想に忠実に基づいた場合の、性の規制に関するロジックである。

 自由と秩序は相反すると考えられがちだが、それは妄言である。自由の中には秩序に逆らう自由も秩序を選ぶ自由も含まれている。その自由がそがれているから、選べたはずの秩序が選べず、社会が崩れていくのだ。世代が若いほど年長者からは反秩序的に見えるが、それは単に上の世代の実存に反しているだけだ。この成熟社会において終わりなき日常を「濃密さ」をもって生きるには、従来のように「意味」に向かって行動するのではなく、個人が自由に試行錯誤しながら体得していくしか合理的な方法はない。そのために必要なのが、最低限の尊厳と、加えて言えば正確な情報なのである。(高松市美術館/毛利義嗣編)

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3.東浩紀(批評家)
記号への感情移入、あるいは仮想現実の現実性について

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