Art Information Archive
logo
四国エリア 毛利義嗣
Information
高松市コミュニティ・カレッジ'98[芸術コース]
ルート・ディレクトリ――表現の「場」について
高松市コミュニティ・カレッジ'98
  1.村上隆(アーティスト)
   フラットな日本にはフラットなアートがいちばん似合います。

 「美術」という言葉自体が輸入されたものであるように、日本のアーティストはいつも海外との落差を感じながら作品を作り続けなければならなかった。僕たちの世代は前の世代の礎の上でかなり自然に海外と行き来できるようになってきてはいるが、日本のアートシーンの動き自体にはあまり変化がないようだ。現在の日本社会にはアートのリアルなよりどころを見出せない。社会にヒエラルキーがある欧米ではアートは非常にリアルな装置として機能していたが、戦後ヒエラルキーがなくなる方向へ社会全体が動いてきた日本では、アート自体が必要でなくなってしまった。戦後すぐの頃では小さなエンタテインメント、あるいは日本人としてのアイデンティティを確立するための装置として存在理由があった。例えば平山郁夫「シルクロード」シリーズ等は日本人のルーツを見届けたい願望に火をつけた。しかしこれだけメディアが加速しエンタテインメントが蔓延すると、アートはエンタテインできずストップしてしまった。美術や美術館ではなく、小さく息苦しくはあっても快適な空間を作るアイテムとしてのテレビやゲームの方が発達してきたわけである。

 僕は今主に欧米やオーストラリアで活動していて、マーケットは米西海岸が中心である。現在もなおヒエラルキーを作ろうとしている米社会では日本とは全く別のリアリティがアートにあり、ギャラリストやコレクターたちもアートに投資することの社会的価値を見出して活動している。遡れば、日本における美術のリアリティは宮中を飾る装飾品としての絵画にあった。「本画」と呼ばれるこのハイ・ヒエラルキーな美術に対して江戸中期頃から大衆に広がったのが北斎らの「漫画」であり、ローなものとして社会の中で機能していた。ところが戦後の日本社会はこのロー・カルチャーな部分だけで押してきたために、国際社会の中で共通言語を得られない状況になっている。例えば日本では、漫画やアニメ、小説にしても物語を語り終えることが困難であり、円を閉じないことが美徳となってきている。ところが海外では物事は終らせなければ通用しない。なぜ閉じないかということの説明が必要なのだ。日本のペッチャンコな表現はどこか未来的な美意識のように外からは見えるようだが、それについて日本の誰も語っていないし、語る用意もない。だから日本に対する言説はいきおい紋切り型になる。僕は表現者として彼らに徹底的に理解させるため、作品にはある種のアレンジを施す。そのため一見円を閉じたようなフェイクを作り上げ、その構築力批評力が表現の中心にある。そしてこの部分が海外ではうけているのだ。

 僕は高校の頃からアニメに熱中し、関係する仕事につきたいと思いながら結局芸大の日本画科に入る。在学中には日本の美術をいやいやながらも自覚的に見るようになるのだが、アニメの魅力的な空間感と日本画の空間、ヒエラルキーがある社会とない社会のことなどを考えていて、日本人の空間意識の特異性に気づく。日本の絵画は一点透視図法を美徳とせず、二次元的であり、いくつものアクセントを画面のあちこちに置き、目がそれを走査することにより空間を把握させる。これは1秒にたった8枚で動くように見せる日本のアニメのトリック性と関わりがある。ディズニー・アニメは日本のアニメやマンガの源泉であり、そのエフェクトや空間感に対するカウンターとして日本アニメがあるわけだが、例えば金田伊功が『銀河鉄道999』(79)や『幻魔大戦』(83)等で編み出した爆発や超常現象シーンにおけるアニメのモードは、その後の全ての日本アニメやまたディズニー・アニメにも影響を与えている。彼の空間表現のルーツは北斎等日本の絵画と共通するものがある。つまり日本の表現の特徴は、ストーリーよりも画面内での形の面白さやメリハリ、場当たり的なリミックスの面白さを優先するということだ。日本人DJが海外でも強い戦闘力を持つことは有名だが、そのことを考えても、元々あるものを平板に並べ、自らの快楽原則だけで抽出編集することについてのセンスに日本人は長けている。そんな遊びの空間が昔の日本の美術にもふんだんにあった。例えば蕭白や宗達の絵にはグニャグニャした奇妙なグルーヴ感があって、四角い画面に三次元的にではなくただ視線を縦横斜に走らせることによってのみ空間を設定しようという強い意志が感じられるが、これは今のアニメやマンガのモードに合致する。そんな平板な日本の空間感や、表現における根拠のなさを僕は作品として提示している。またフィギュアのモードを借りた最近の作品では、日本人にとっての二次元と三次元の関係を、透視図法的あるいは3DCG的なものではなく表現している。

 ヒエラルキーがない所でハイ・ヒエラルキーなものを作るのはとても難しい。フラットな日本においてアートやアーティストは以前とは異なる社会内のサバイバルの方法が必要になる。例えば、よく使うDOB君というキャラクターは実は具体的なものから抽象的な空間へ導くためのある種の詭弁として用いている。あるいは、海外に向けては性的に見えるような要素を加えることもある。また、日本の若いアーティストのプロデュースを行ない、デビュー時から海外で発表させたりもしている。唯一の基準が海外での評価のみという田舎者根性が大爆発しているのが日本人だということを自覚して制作し、それがインターナショナルな言語になるようにしていくのが、僕の表現のリアリティである。(高松市美術館/毛利義嗣編)

_____________________________________________________________________
↓

2. 宮台真司(批評家、東京都立大学助教授)
自己は自己を決定できるのか? ――自己決定論批判をめぐるパタン化された誤謬

_____________________________________________________________________
Copyright (c) Dai Nippon Printing Co., Ltd. 1999