展覧会とは、美術作品を一ヵ所に集めて展示・公開することである。これは、コレクションを一般公開する美術館の成立条件とほぼ重なっており、すぐれて近代的な制度といえる。しかし、展覧会はテンポラリーな催しにすぎないのだから、美術館のようにパーマネントな施設は必ずしも必要ではなく、展示スペースさえあれば野外でもどこでも可能なのだ。その意味で展覧会は美術館に先行する展示・公開形式であり、昨年亡くなった美術史家フランシス・ハスケルの最後の著書名を借りれば、「つかの間の美術館(Ephemeral Museum)」ということになる。事実、展覧会は美術館ができる前からさまざまなかたちで行われてきた。
その具体例に入る前にまず確認しておかなければならないのは、展覧会が成立するには展示すべき美術作品が物理的に持ち運び可能なものでなければならないし、また、それが礼拝の対象ではなく鑑賞の対象になっていなければならなかった。これが実現するのは、何度も述べてきたようにルネサンス期のこと。それまで主流を占めていたモザイク画やフレスコ画などの「不動産美術」では、作品を一ヵ所に集めるということなどできなかったし、その必要もなかったからだ。それがルネサンス期に油絵の登場によって美術が「動産化」し、初めて作品として展示できるようになり、鑑賞の対象となっていくのである。
「不動産美術」から「動産美術」への移行は、作品の移動が可能になった分より多くの人の目に触れる機会を増やしたと思われるかもしれないが、実のところ動産美術はコレクションの対象になることで作品の私有化を促し、人々の目から遠ざける要因になったのである。つまり、作品制作がパトロンからの発注によってなされる「注文生産」である限り、パトロンが望まなければ作品は公開されることはなかったのだ。いいかえれば「注文生産」の時代には需要と供給が一致していたので、展覧会を開くという発想も生まれなかったということだ。だから展覧会という形式は、注文がなくても自発的に制作する「商品生産」が始まり、作品の供給が需要を上回ったときに、その余剰分をさばくための見本市のようなものとして発想されたのである。
このような「注文生産」から「商品生産」への移行がもっとも早かったのは、「絵画の黄金時代」と呼ばれた17世紀のオランダである。プロテスタントの市民社会として誕生した新興国オランダでは、それまで有力なパトロンだったカトリック教会や王侯貴族が基本的にいなくなり、かわって海上貿易でもうけた商人たちが作品を買い求めるようになった。
この1世紀間にオランダで制作された絵画は500万枚とも1千万枚ともいわれ、その数は同時代の全ヨーロッパのおよそ半数に当たるという。あの小さな国でこれほど大量の絵画が生産されたのは、もちろん裕福になった市民たちのあいだで需要が高まったせいであるが、いくら裕福になり需要が増えたとはいえ購買層は市民階級なのだから、巨大な作品をオーダーメイドすることはめったになく、おもにレディメイドの小品が売れ線だった。画家たちも市民の多様な趣味に合わせて風景画、静物画、風俗画といったように「商品」を細分化・専門化し、不特定多数の購買者を見込んで供給を拡大していく。
こうしてダブついた作品は画家のアトリエで直売されるか、さまざまな商店で委託販売されるか、さもなければ定期的に開かれる市で展示即売されるようになる。このような市での街頭展こそ展覧会の起源のひとつにほかならない。つまり展覧会とは、美術家の生活を支える経済的理由から生まれたものだといえる。ちなみに、美術作品を専門に売りさばく画商が現れるのもこの時代だが、当時はまだギャラリースペースをもって展覧会を開く本格的な画商はおらず、宿屋や額縁職人、あるいは画家自身が兼業することが多かった。レンブラントもフェルメールも絵の売買に関わっていたことはよく知られている。
ついでにいえば、レンブラントにはラファエロの「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」の模写があるが、これは1639年にアムステルダムで開かれたオークションで競売にかけられた作品のスケッチである。レンブラントがこうしたオークションにしばしば顔を出していたこと、そしてこのとき、ラファエロの肖像画を落札しようと考えていたことは(もちろん落札できなかったが)有名な話。その翌年に描かれた「34歳の自画像」には、このラファエロからの影響が明らかに見てとれる。ともあれ、このようなオークションに先立つ一般公開も、見る人が限られているとはいえ展覧会のひとつに加えていいかもしれない。
市での街頭展はオランダの各都市だけでなく、17世紀のローマでも毎年開催されていた。ただしこちらは、同業組合や慈善団体が祝祭日に教会などで作品を展示していたもので、オランダの市のように作品を売るためというより、それぞれの守護聖人を祝福することを目的としていたようだ。聖ヨセフの日にパンテオンで行われた名人芸術家協会(コングレガツィオーネ・デイ・ヴィルチュオーシ)主催の展覧会をはじめ、サン・ジョヴァンニ・デコラート教会やサン・サルヴァトーレ修道院などが展覧会場となった。1650年、ローマ滞在中のベラスケスはこの名人芸術家協会のメンバーに選ばれ、パンテオンでの展覧会に「フアン・デ・パレーハの肖像」を出品して絶賛を浴びたといわれている。
こうした守護聖人をまつる展覧会はローマだけでなく、フィレンツェやヴェネツィアなどイタリア各都市で行われるようになった。フィレンツェでは素描アカデミーが守護聖人である聖ルカをたたえるため、1674年にサンティッシマ・アヌンツィアータ教会で最初の展覧会を開催し、またヴェネツィアでは、聖ロクス(サン・ロッコ)の日を祝ってサン・ロッコ同信会館の前の広場で野外展を開いていたことが、18世紀のカナレットの絵からもうかがえる。
同じく17世紀において、もうひとつ展覧会の起源として忘れてはならないのが、美術アカデミーの主催する「サロン」である。
美術アカデミーでもっとも早く設立されたのは、前述のフィレンツェの素描アカデミーで1563年のことだが、アカデミー主催の展覧会が開かれるのはフランスの王立絵画彫刻アカデミー(1648年創設)のほうが早く、1667年にパリのパレ・ロワイヤルの中庭で作品を展示したのが最初とされる。その後、ルーヴル宮のサロン・カレ(方形の間)を会場とするようになってから、こうした官設の展覧会を「サロン」と呼ぶようになった。革命前はアカデミー会員と招待作家のみの出品だったが、市民の関心は高く、1787年のサロンにはパリ市の人口の約1割に当たる6万6千人もの人が訪れたという。
革命勃発後の18世紀末には王立絵画彫刻アカデミー自体が廃止され、王政復古期の1816年に美術アカデミーとして再出発。復活したサロンは会員以外でも応募できることになったものの、審査委員会はアカデミー会員で構成されていた。そのため、落選した画家のなかにはアカデミーやサロンに対して不満を募らせる者も出てきた。
「自分を世の中に知らせるためには何が何でも出品しなければならん。展覧会はサロンただ一つだから出品の必要に迫られる。何年か年が過ぎて、自分の作品がいくらか審査員好みになれば入選は確実だ。しかし僕が今日の僕である限りそれを望むのは無理である」
これは、1847年のサロンに3点の作品を送りすべて落選したクールベの弁である。彼はまた審査委員会を「老いたる間抜けのかたまり」とののしり、「彼らに拒絶されたのはかえって名誉だ」と負け惜しみを述べている。一方でサロンを絶対視しながら、もう一方で拒絶されて名誉だといい放つアンビヴァレントな感情は、決してクールベひとりのものではなかったはずだ。
当時はまだギャラリーもほとんどなく、画家にとってはサロンが唯一の発表の場だった。したがって、サロンに入選することは一人前の画家として認められることであり、そこで受賞でもすれば将来は約束されたようなもの。さらに最優秀作品は国家買い上げとなり、当時の現代美術館というべきリュクサンブール美術館に収められる。逆に落選すれば「画家失格」の烙印を押されたも同然だった。そのため画家たちはこぞってアカデミー公認の新古典主義様式を学び、入選作品は文字どおり「アカデミック」な傾向に画一化していく。もともとアカデミーというのは美術家の社会的地位の向上をめざす革新的な運動だったにもかかわらず、こうして19世紀なかばには「アカデミズム」といえば形骸化した保守的な傾向を意味するようになったのである。これは「日展」をはじめとする日本の公募団体とよく似ている。というより、日本が100年遅れてこうしたフランスの美術制度を採り入れただけの話なのだが。
ともあれ、新しい表現を試みる血気盛んな画家たちにとって、このような状況がおもしろかろうはずがない。1847年のサロンに落選した画家たちは、審査への不満を抱えて集まり、翌年サロンに対抗すべく独立の展覧会を開こうということになった。その会合にはドラクロワ、ドーミエ、テオドル・ルソーら有力画家も含まれていたという。ところが翌1848年に2月革命が起こり、審査員は全員退陣。同年のサロンは応募作品をすべて無審査で受け入れることになって、独立展の計画は幸か不幸か自然消滅したのである。
しかし、この年のサロンには5千人以上が出品して大混乱に陥り、展覧会の質の低下を招いたため、翌1849年には再び審査制を導入。ただし審査員はサロン出品作家による選挙で決めるという新しい方式が採られた。だが、もはや制度的な改革をしても新しい世代の革新勢力には追いつかない。こうして若い画家たちの不満と反発は噴火前の地中のマグマのように膨れ上がり、19世紀のなかばを過ぎてとうとう爆発することになる。アカデミーやサロンに反旗をひるがえしたアヴァンギャルドの登場である。
[主要参考文献]
・Francis Haskell‘The Ephemeral Museum’Yale University Press
・土方定一『画家と画商と蒐集家』岩波新書
・尾崎彰宏『レンブラント工房』講談社選書メチエ
・栗田秀法「王立絵画彫刻アカデミー」、三浦篤「19世紀フランスの美術アカデミーと美術行政」、
以上『西洋美術研究No.2』三元社
・高階秀爾『芸術のパトロンたち』岩波新書
・坂崎担『クールベ』岩波新書 |