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『感覚の解放』
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『恋スル身体』
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『身体の夢
――ファッションor
見えないコルセット』
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宮島達男新作展
『Floating Time』
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『セザンヌ』展
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『オルセー美術館1999』
展
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1999年という1年を、日本の美術はどんなふうに過ごしただろう。結論から言うと、ここ数年続いているある傾向による支配がいっそう強まった、そんな印象がある。それはあまりに微温的で、「支配」などと言いたてるのはおおげさにすぎるかもしれない。けれどそのなまぬるさに息苦しさを感じるのもまた事実だ。
「公共性への配慮」がすっかり美術界の課題となった。美術は自閉的であってはならない、社会や時代、生活とたえず切り結んでいなければならない。99年にはたとえばそんなフレーズをいやというくらい耳にした。もちろんこの種の善意に満ちた発言は、美術界のなかからまったく自発的にでてきたものというわけではない。深刻な経済不況のおかげで、観客動員数がこの世界でも重要な関心事となりはじめた、そんな「外圧」が大きな要因としてあるはずだ。
たとえば「身体」あるいは「感覚」をテーマにした展覧会が数多く開かれたことも、公共性への配慮の現われとみることができる。「視覚=見ること」は、そして見られるものとしての「いかにも」な現代絵画や現代彫刻は、完全に悪者扱い。すでに一部の専門家たちの手によって「特権化」され、「公共」のものではなくなってしまったとして、内から外から非難を浴びる。かわって誰もが共有している(とされる)、つまり十分に公共的な、「身体感覚」に訴える作品がクローズアップされる。『感覚の解放』(東京オペラシティアートギャラリー)、『知覚の実験室』(佐倉市立美術館)、『恋スル身体』(宇都宮美術館)、『身体の夢――ファッションor見えないコルセット』(京都国立近代美術館/東京都現代美術館)……。ここに宮島達男や遠藤利克の新作を加えてもいいだろう。
この「身体/感覚」系展覧会の濫発と言っていい状況は、そこに集められた作品の特質が身体にしつこく訴えるというものだけに、いっそう耐え難いものがある。そしてもうひとつ、公共性指向はたいへん啓蒙的な、「お勉強」モードの展覧会となって現われた。
とくに目立ったのは、これまでのわたしたちの美術に対する接し方はあまりに欧米中心主義だった、その「蒙さ」を指摘する試みだ。とはいっても筆者は、そうした展覧会をたんに好みの問題からすべて観ていないので、それについてどうこう言う資格はない。
ただ、たぶんそうした盲目的な欧米崇拝からの脱却を意識するあまり、ある展覧会がなんだか奇妙なものになってしまっていた、そのことには触れておきたい。横浜美術館での『セザンヌ』展。英語でだけひっそりと副題がつけられていた(「セザンヌと日本」)その展覧会では、作品の下にところどころ、作品のデータを示すものとは別に、小さなキャプションがある。そこにはその作品が初めて紹介された、国内の文献の書誌が記されている。けれど会場に展示されていたすべてをどれだけ熱心に観ても(カタログを読めば別だろうが)、そのキャプションが作品を鑑賞する上でどれだけ有益なのか、最後までわからないままだ。
逆にこのキャプションが大活躍の展覧会も多かった。いちいち名前を挙げることはしないが、そこでは作品の脇に必ず大きなキャプションが用意されていて、アーティストの生い立ちから作品の社会的背景、なぜそれがここに展示されているかについてまで、事細かに記されていた。まるでそれなしで作品を鑑賞することは罪みたいに。
要するに、「身体」がらみのものにしても「啓蒙」的なものにしても、展覧会がどんどんうっとうしいものになっている。そして、そんな代償まで支払っているというのに、美術(館)はまだ「公共的」なものとはほど遠いところにいるとしたら?
たとえば、東京芸術大学に、新しく美術館がオープンした。開館展はお約束どおりの『所蔵名品展』、しかもそのキャッチ・コピーが「教科書で、見たことあるでしょ。」というこの展覧会は、連日入場1時間待ちの行列ができるほどの大成功を収めた。あるいは同じころ近隣で行なわれた『オルセー美術館1999』展。この展覧会は、ただの「名品展」に終わらせまいとする美術館の強い意志を感じさせるものだった。にもかかわらず、会場に押し寄せた人々の反応は、名品展に対するそれと少しも変わらない。
美術(館)がほんとうに公共性に殉じるとはどういうことなのかが、ここには示されているように思う。なんのことはない、たとえばみんなが「見たことある」とすぐ確認できる作品を、ひたすら展示し続ければいいのだ。実際村上隆は、この状況を熟知し、逆手に取ろうとしている。言うまでもなく彼は、現代美術の公共性を少しでも高めようとという理想に燃えた、良識派の作家だ。同じことは会田誠や明和電機にも言える。もちろん、彼らはその理想の実現のために、「教科書」などという古くさい共有体験に訴えることはない。「TVで見たことあるでしょ」「マンガで見たことあるでしょ」「街で見たことあるでしょ」……。
公共性(への過剰な意識)にすっかり絡め取られてしまった感のある、1999年の日本の美術。そのなかで、いい意味で孤立していたと思う展覧会、建築、そして新進の作家を、最後にそれぞれ二つ(二人)ずつ挙げておきたい。展覧会として『ひそやかなラディカリズム』展(東京都現代美術館)と『ドナルド・ジャッド1960−1991』展(埼玉県立近代美術館)。建築として、東京国立博物館法隆寺宝物館(谷口吉生設計)とコム デ ギャルソン本店(フューチャー・システムズ+コム デ ギャルソン)。そして新進の作家としては、川島亮子と関口国雄。これらは少なくとも、人をつっぱねるもの、どこでも見たことのないものに依然として価値がありうるということを示しているだろう。