logo
TOPICS
..
 

“ノルディック・ミラクル”って本当?

..
 最近になってかなり注目を集めているノルディック・アートの状況って本物なのだろうか?何故、いま北欧諸国が熱いのか?というさまざまな憶測や疑問が起こっているが(少なくても、そう思ってもおかしくない程に盛り上がりを見せている!)、その真意を探るためにも、ノルディック・アート事情を明らかにしていこう。
 そもそも北欧といってもピンとこない諸氏もいるだろう。北欧は、フィンランド、アイスランド、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの5カ国で、これを総称してノルディックという。さらに後者3カ国をスカンディナビアンといって政治的にも文化的にも深いつながりを持っている。しかし、フィンランドも長い間、スウェーデンの統治下にあったことや、アイスランドはノルウェーからのバイキングが移住した民族であること、また、かつてはデンマーク領であったなど、それぞれが密接した関係を築いている。
 さて、私が個人的なレベルで北欧諸国について興味を抱いたのは、ヨーロッパ各地を巡るなかで良いアーティストだなと思う作家たちがノルディック出身者だったからという、極めて単純なところからである。まだ行ったことのない未知の世界にもかかわらず、めきめきと知識欲に目覚め、その感心度は強まるばかりである。最近、オスロ在住のアーティスト;ビョルン・メルガードとよく交信をするようになったのも、北欧への熱い視線と好奇心を盛り上げている理由といえるだろう。このままいくと、私はノルディック・パワーを追掛けて、北欧に直接に乗り込むか、または向こうから押し寄せる高潮に呑まれてしまいそうな状態なのだ。いったい何時の間に何処でハマッてしまったのだろう。季節外れのTSUNAMIの大ヒットといったところかな。
 しかし客観的に見ても、すでに日本でも火付け役となる多彩な北欧アートが、急速に紹介され始めている。昨年には、「New Life」というグループショーでデンマーク、スウェーデンの現代作家が11人も来日したり、ヨーロッパのアートヴィデオを中心に紹介した「ART in Living Room」(現代美術製作所)では“ArkipelagTV”というスウェーデン放送で流れたプログラムで、13人のアーティスト(北欧作家ばかりではない)によるTV用アート作品が上映された。また、オスロ出身の作家で、写真や映像を媒体にクローンの自分を登場させる作品を制作するヴィベケ・タンベルグの初個展(小山登美夫ギャラリー、3月14日〜4月1日)が今年も開催されるなど、北欧からの現代美術の露出度を多くしている。
フォン・ハウスウォルフ+ピーター・ハグダル 「寄生、影響、変形2/寄生的、電気的交感IV」
フォン・ハウスウォルフ
+ピーター・ハグダル
「寄生、影響、変形2/寄生的、
電気的交感IV」
サウンド・アート:音というメディア展
NTT ICC 写真提供:NTT ICC

 その勢いは今年になってからも顕著で、デザインや工芸、現代美術を中心にしたノルディック・アートを紹介するプログラムはいろいろ行われているのである。ここでは、現代美術に限って言及するとして、まずスウェーデンのサウンド・アーティスト;C. M. フォン・ハウスウォルフ+ピーター・ハグダルが「サウンド・アート:音というメディア」(NTT ICC 1月28日〜3月12日)のグループ展に参加した。ハウスウォルフは、前述のArtkiperagTVに出品していたこともあって、多少は認知しているかも知れないが、もう少しハッキリと知っておきたい作家でもある。電気や嗅覚などの刺激と音響、光などを組み合わせて、見る側の感覚を変容させる作品を制作している。今回は、ギャラリーにセンサーをはり巡らせ、観客の動きやインターネットからの情報、光、会場内にある機械音と自然音を取込み、プロジェクターから流れるイメージにシンクロさせるものだ。無機質なハードウェアとテク系のサウンド・インスターレーションにもかかわらず、アナログでしかも不可思議な息吹きを感じるのはなぜだろうか?そこでは人が介在しなければ聞こえるはずのない音のゆくえを作家自身が追い掛けるからではないか。
フィンランド現代写真展
フィンランド現代写真展
潜在意識の発露として、
写真をイメージとした身体芸術展
東京都写真美術館

 それから、「フィンランド現代写真展:潜在意識の発露として、写真をイメージとした身体芸術」(東京都写真美術館、1月29日〜2月20日)で4人のフィンランド写真家(アルノ・ラファエル・ミンキネン、ヴェルッティ・テラスヴォリ、ウッラ・ヨキサロ、ベッカ・ニクルス)によるグループショーが開催された。北欧諸国のなかでも異なるバルティック独特の文化を持ち、日本との言語的つながりのある、アジアの民族系譜を継承しているとして注目されているフィンランド。その国家を代表する写真展が開催されるのだから、かなり貴重な機会だったが、開催期間が短いことや出品作家が4人と少ないのは、ちょっと不満が残る。後日、フィンランド・センターで開催された「フィンランドの写真家によるインフォーマル・プレゼンテーション」では、なかなか興味深い若手や無名の数多くのフィンランド作家を紹介してもらった。ひとつの展覧会で全体像を見せようとすると散漫になるし、多量の情報量だけで見えてくるものではないので、その点はバランスが重要になってくる。今回は「身体」をメインボディとして捉えた展覧会であったから、環境や空間のなかで表現される写真表現はあえて選ばれなかったのであろうが、“フィニッシュ”なるべきものに近付こうとするためには、もう少し作品との間接的な対話が必要だったようにも思える。限られたメディアやテーマでナショナル・カラーを出そうするのは意外と困難なものだと痛感する。
オラファー・エリアッソン
オラファー・エリアッソン

オラファー・エリアッソン
オラファー・エリアッソン
ギャラリー小柳
写真提供:ギャラリー小柳

オラファー・エリアッソン
オラファー・エリアッソン
ハヤカワマサタカギャラリー
写真提供:
ハヤカワマサタカギャラリー

 また、デンマーク出身(アイスランド国籍)、ベルリン在住のオラファー・エリアッソンの個展がギャラリー小柳+ハヤカワマサタカギャラリーで同時開催(2月24日〜3月25日)されている。そもそも彼は昨年のヴェニス・ヴィエンナ−レで第3回ベネッセ大賞を受賞したこともあって、一気に日本での知名度を上げている作家である。昨年11月に副賞として直島を訪れ、今後は直島でのコミッション・ワークを制作する予定だ。またCCA北九州のプロジェクト・ギャラリー(2月21日〜3月10日)でも同様に個展を開催しているなど、すっかりエリアッソン・フィーヴァ−といえるような状況なのである。「人と距離の関係」を追求していると本人が語るように、立体、写真、自然物など表現媒体はさまざまだが、常にそこには人が介在している。訪日の際には、「日本の加速度的距離感覚は、自分にないもの」としてかなり興味が湧いたようである。今回は、視覚の錯覚(残像)を利用した光のインスタレーションで、ふたつの物理的に異なる場所でのシンクロナイズを引き出そうとするもの。しかし、銀座と恵比寿では、残像を持続させるにはかなりイマジネーションが必要といえそうだが、北欧からやってきた作家には東京はひとつの空間なのかもしれない。
 こうしたブームともいえるようなノルディック・アート現象は単なる偶然なのだろうか?しかも日本だけの流行なのだろうか?という窮めて素直な疑問が湧いてくるだろう。私の知る限りでは、どうやら地域限定の現象というよりも、世界全体の潮流となってノルディック・ム−ヴメントは起きているようなのである。特にヨーロッパでは、90年代後半になって、スカンジナヴィアン・アートを主軸にした展覧会が、イギリス、フランス、オーストリアなど各国の大型美術館で行われてきた。
 その背景には、優れた若手アーティストの輩出があるが、力強いキュレ−タ−たちの活躍も見逃せない。マニフェスタ2のキュレ−タ−に選ばれたマリア・リンドや、ヴェニス・ビエンナーレのノルディック・パビリオンのキュレ−タ−、ジャン=ピーター・ニ−ルセン、また、97年からストックホルム現代美術館館長として活躍するデイヴィッド・エリオットなどである。現在、同美術館で開催されている「オーガナイジング・フリーダム」は90年代の北欧アートの興隆の流れをきちんと紹介する展覧会だ。なんといっても、英語を操るキュレータ−は重要になってくる。彼らの国際的な活動が、ノルディックがマイノリティからメジャーへ、加速的に国際化を進めていると確信できる。エリオット(イギリス出身、日本では数多くの美術館コミッティ・メンバーに選ばれているので影響力は絶大)が、館長として就任したことで、少なくとも、北欧美術の広報活動に一役買っているのは事実である。
 そのひとつとして、3月26日(午後2時〜4時)に東京オペラシティアートギャラリーでエリオットによる「オーガナイジング・フリーダム」のレクチャーが開催される。そのときに、90年代に突出した北欧作家の重要リストが詳細に語られるだろう。これをチャンスにノルディック・ミラクルの全貌が明かされるではないかと期待しているのだ。
 それでも、ノルディック・パワー現象が生まれた背景を独自に検証したいと思うが、私はノルディックのなかにあるフレキシビリティがもっとも力を発揮しているのではないかと考えている。まず、最近のアート状況を振り返ると、頭の中で描いてきたアートマップとは様子が違うことに気が付くはずだ。90年代に入ってからは、パリ、ロンドン、ベルリンという主要なアート都市が順番に移行しながら発展してきたが、いまではすっかりそれが北方に流れているといえそうだ。しかし、こうしたノルディック・パワーが噴出している状況は、単なるジオグラフィック・シフトともいえる場所の入替えなのだろうか。少なくとも、これまでの芸術都市の在り方とはようすが異なっている。それは芸術都市と呼ばれるように、大都市に集中しているム−ヴメントではなく、北欧全体というかなり広い範囲に跨がっているからである。つまり、言語も文化も多種多様の状態である地域全般に同時に起きているのである。言ってしまえばアジア・ブームと同様にエスニック扱いなのかもしれない。異文化に対する憧れが、このムーヴメントに加味されているといえるかもしれない。だが、それだけではないように思うのだ。
 現在のようにグローバル・コミュニケーションが容易な国際社会では、これまでのようなフランス、イタリアなどのような単一国家中心による文化興隆は難しい状況にある。すでに情報網発達による分散したアートエポックは都市という地理的状況までも多角的に分割していった。もはや、アーティストは芸術の都に修行するためにわざわざローマやパリに行く必要がなくなってるのだ。まさか古典芸術の流れを持ち出して、ここで説得しようとしているわけではないが、事実、ついこの間までは憧れの芸術都市で学ぶというのはかなり根強い指示があったのである。いや、いまでもあるだろう。日本でも、古典芸術に触発されたり、オリジナリティの追求と称して、大陸(中国、韓国、モンゴル、インド)に旅立とうという考えは支配的である。ただし、以前より状況が変わったのは、行ったきり母国へ戻らないとか、家族と永遠の別れや死ぬ気の覚悟などはまったく必要ないということだ。
 現在のような情報社会では、だれでも世界中の情報を簡単に手に入れることができるし、交通手段の簡便さで気軽に外国に出かけるようになった。海外ブーム真っ盛りの日本にあっては当たり前のように聞こえるが、海外留学をしようとする考え方にもこの状況は反映している。最近では、日本からもアート・カレッジへの留学が盛んだが、彼らが卒業後に帰国して作家活動を再開するというのが以前とは大幅な変化だといえるだろう。こうした状況は北欧諸国にとっても同様である。長い間、彼らは極北地域として扱われて、ヨーロッパとして容認されてきたわけではない。かなりの期間に孤立した言語・文化圏として成長してきたのだから。北欧諸国でのインターネット普及率が日本を上回りすでにアメリカについで上位にくいこんでのも納得できる。彼らの情報吸収率ははるかに高度なのだ。
 それうした、国際化の波は大きな影響力で特に若者たちを刺激している。彼らは海外の文化を敏感に吸収し、それを自らの創造力に昇華していったのである。その点では、ヨーロッパ国内で優位に立っているフランスやイタリア、ドイツの人々よりも柔軟に言葉を習得し、外部からの文化を吸収/消化していく能力を貯えていったといえるだろう。自国の文化をかたくなに維持するのがプライドではなく、独自の文化と外部のものとをフレキシブルに混合させたり、シンプルに受入や選択できるということだ。それらは、彼らのフットワークの軽さにも言えることで、90年代に台頭してきた若手の作家たちは、国際展への進出はもちろんだが、世界中をレジデンスにしている。また、これまでのと違って世界を巡りながらも、母国へリターンズすることも忘れていないのである。さまざまな異なる文化感覚を持ち帰り、それを新しい感性としてミックスして新しい創造力を築いているといえるだろう。北欧の作家といえば、長い間ムンクしか浮かばなかったはずである。この不運の作家がパリで修業し、癒し難いこころの傷を負って母国に帰国したことは、まさに悲惨な物語だった。それが、彼独特の傑作を生み出すことにもなったのは不幸中の幸いである。だがもはや、ムンクのような悲痛な運命を背負う必要はないのである。インターナショナル・ランゲージを気軽に操る彼らは、北欧に輝くオーロラのように澄み渡る高い空に、何も怖れることのない雄大な姿を見せるはずである。

top


home | art words | archive
copyright (c) Dai Nippon Printing Co., Ltd. 2000