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2000年光州ビエンナーレ報告

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マ・リューミン
マ・リューミン(中国)の
セルフポートレート・シリーズの
作品撮影風景
手前はパルコキノシタ

スボデュ・グプタ
スボデュ・グプタ(インド)

シェン・シュンチュ
特別賞を受賞した
シェン・シュンチュ(台湾)

 第3回となった光州ビエンナーレは、ミレニアム記念となる2000年の開催となった。また、1980年5月18日に光州で勃発した民衆抗戦の20 周年にあたる記念展にもなっている。それにしても、日本と同様に、またはさらに深刻な経済不況であると言われている韓国にあって、3回もビエンナーレを開催できるのは、どこかの国とは文化政策の相違かと、つい考えてしまう。もちろん、光州が背負ってきた歴史や金大中氏の出身地ということも継続している理由のひとつであるだろうが、やはり現実に連続開催しているという事実は力強いといえるだろう。どうやら隣国の状況を知ることで本国の事情が明らかになるような気がする。来年は、横浜トリエンナーレの開催が迫っている我が国にとっても、光州ビエンナーレは、要チェックポイントといえる先輩の国際展である。
 さて、これまで韓国に行く機会が無かったので、今回の訪問はビエンナーレを鑑賞するだけではなく、韓国文化に触れるという刺激的なものとなった。それに、これまでの経過を知らないのだから、かなり新鮮な気持ちで接することもできたと思う。今年のメインタイトルは、「人+間 Man Space」という明らかに人間のことを指しているテーマである。中国語を知らないので間違っていたら申し訳ないが、日本語からとった言葉では無いかと思う。少なくとも英語からの発想ではなく、訳を当てたと考えられる。この「人間」というテーマ事体は、現代美術が関わってきた大きな問題であるから、主題として受けとめることはできる。だが、今回のタイトルのせいで「人間」という言葉「間=Space」の部分は何なのかという疑問を考えてしまった。私には、人間=man + space でなく、「人」と「人」の「関係」からでてきた言葉でないかと思えてならない。一人ひとりの人間の存在を認めあうからこそ、その関係から生まれるコミュニケーションとか対話といったものがさらに人々を面白くさせているのではないかと思うのである。その意味では、ジオロジカルなスペースではなく、トポロジカルな環境に存在する人について指しているのではないかと思う。とにかく「人」が見えてこなければ、いくら理屈を重ねても、このテーマは無意味なものになってしまうだろうと思う。
 今回のビエンナーレは、前回に比べてきっちり整理されているとか、規模が縮小されてこじんまりしているとか評価もさまざまで、多種多様な感想や意見がでていたが、まる2日の滞在には、ちょうど良いサイズ(規模+内容)だったといえる。それでも移動や待ち時間などで3泊4日の日程になってしまったが、それはそれで韓国の夜を堪能する(地方料理として推薦された鴨鍋は本当に満足した)ことができて楽しかったといえる。

セリーター・ダグアドリ
特別賞を受賞したモンゴルのセリーター・ダグアドリの作品

スラシ・クソルウォン
スラシ・クソルウォン(タイ)
韓国マッサージの実演をリラックスをテーマにした作品に取り入れた。
観客は予約すると30分間無料のプロのマッサージをしてもらえる。

クルシナ・ムルティ
クルシナ・ムルティ
(インドネシア)

タニア・ブルグエラ
タニア・ブルグエラ(キューバ)
キューバの主要な産業である羊毛を壁にはりめぐした部屋で
作家自身によるパフォーマンス。
隣の部屋は砂糖によって覆われている。
「服従」「従順」といった社会適応(サヴァイバル)をテーマに作品を制作している。

ツゥンガ
ツゥンガ(ブラジル)

 さて、国際展では、ひとりのキュレーターが権力を握って全てを仕切る場合と、複数のキュレーターたちが談合で決めていく場合とあるが、今回の光州ビエンナーレでは、世界中のキュレーターから選ばれた5人が、それぞれの地域を担当してアーティストを選出した。以下は、それぞれの担当者だ。ルネ・ブロック(ドイツ):ヨーロッパ/アフリカ、トーマス・フィンケルバール(アメリカ):北アメリカ、キム・ユヨン(アメリカ):南アメリカ、谷新(日本):アジア、キム・ホンヒ(韓国、オセアニア)、オ・グァンス(韓国):特別コーナーといった部門をそれぞれが担当して、全てメイン会場に展示された。また、同じメイン会場の中で針生一郎が「芸術と人権」という特別展を担当した。会場を変えて開催されたその他の特別展は、韓国とフランスの二人の女性キュレーターによる「人間と性」、もの派に焦点を当てた「韓国と日本の現代美術の断面」、そして初めての参加となった「北朝鮮の美術」や野外展「人間の森、絵画の森」など、それぞれ異なるキュレーターたちによる多彩な内容で行われた。
 韓国にとって光州ビエンナーレが国家レベルの国際展なのだから、このような豊富な内容と多数のアーティストやキュレーターたちが関わっていくのは、なにも不思議なことではないだろう。だが正直言って想像した以上に参加者が多く、多岐に渡る内容だったのは事実である。国際展と謳いながらも小国の地方美術展というイメージの展覧会が結構あるなかで、気持ちも規模も誰にも負けない“ザ・エキシビション”を目指しているのが痛いほど分かる。しかし、どうしても光州という地方都市が開催している美術展という印象が残る。むしろ、そうした地方色が出たほうが本来の目的になるのではないか。韓国で行われるビエンナーレがソウル以外の場所で行うと決定した時点で、すでに地方開催の宿命というものを背負っていたのだから。聞くところによると、1997年に開催した前回では、世界一の高額予算を用意したということで、欧米の人気作家中心の大掛かりなものだったらしいが、そのようなヒステリックな態度では観客や納税者である国民を無視しているといわざるえない。もちろん、地域住民を意識しすぎたり観客に媚びを売る必要はないが、“だれのために誰が行うビエンナーレ”かを突き詰めていけば、今回のような規模は納得できるだろう。それに、あまり地域住民のみを対象にした国際展で成功した例は少ないのが現状である。むしろ、芸術に対する地域社会の意識向上を目指すほうが成功するといえるだろう。
 特に、今回のビエンナーレで受賞したアーティストたちを見れば、それが審査員や関係者、さらに観客にとっても等身大で選ばれたと思えるということは、次回のビエンナーレの方向性や姿勢を示唆したといえそうで評価できる。受賞した作家は、グランプリ:シリン・ネシャット(イラン)、アジア作家賞:戸谷成雄、特別賞:セリーター・ダグアドリ(モンゴル)、シェン・シュンチュ(台湾)、報道記者賞:キム・ホースク(韓国)で全員がアジア人であることが特徴だ。この受賞者のリストを見ると、意識的にアジア作家を選出したと考えがちだが、展示されたアジア作家の質的向上は目を見張るものがあったのも事実である。ただし、もっと他のアジア作家に受賞をさせたいと思うところもあったが。
 私の個人的見解では、アジアに限らず地域性の高い作家に注目すべき作品が多かったと思う。それが、なかなか目に触れることの無かった物珍しさや希少性によるものではない。つまり、リジョナリティ(地域性)というものが、ようやく確立してきたのではないかと思うのである。いわゆるエキゾジズムという西洋的視点から開放されて、民族的意識を誇張するばかりのエスニックの時代が終わり、各地域のなかで育んできた文化と、国際社会として共生するための同時代性や国際性というものをバランスよく持った作品が制作されるようになってきた。と思えたからだ。現在のようなインターネット社会では、極端な情報制限が行われている国や地域は少ない(もちろん、まったくではない。その点で北朝鮮の参加は有意義だった)。最近のアート状況では、ボーダーレスやワールドワイドな表現が主流となっているが、それに対抗してパトリオティックな回顧主義に陥ることも無く、自分たちの立ち位置みたいなものを素直に受け止めているというのが理解できる。危険なことは、世界が均一であると錯覚することであり、それを差別と考えることである。いわゆるそれぞれのアイデンティティや環境を認めあうことができるかが問題なのである。
 このようなリジョナリティを彷彿させる作品がでてきたことは、キュレーターの視線が、作家たちとレベルを同じくしている点も反映しているだろう。つまり、選ばれる者と選ぶものの関係ではなく、アーティストとキュレーターが同じ現代社会のなかで生きていて、そこに生まれる現代美術から選出していくキュレーションが行われたということ。それは、キュレーター自身が独自のアイデンティティを見つめ直したことではないだろうか。その点で、これまでの欧米主流型のビエンナーレから脱却できたといえるのではないかと思う。
 ここで、あえて追加しておくが、北欧の美術状況が現在興隆してきたと前回の記事で触れたが、それは今回も確認することができた。また、南アメリカや米国在住のカラー人種たちの活躍もみることができた。このようなあからさまな表現で語ると、逆差別して(有色人種を意識的に誉めて)いるのではないかと、疑われるかもしれないが、そうではない。素直にオモシロイと思ったものが、そうした環境にいる作家たちなのである。だから、ここで注目した作家たちが、今後はさらに露出度が高くなるだろうと信じているし、そうでなければ光州ビエンナーレの国際化を否定することになってしまう。
 今回は、個々の作家について言及することができないのは残念だが、シリン・ネシャットやエイヤ-リーサ・アイティラ(フィンランド)の映像作品は明らかにジェンダーをテーマにした作品だったが、ジェンダーの部門ではなくメイン会場のなかに入っていた(ネシャットは両部門にそれぞれ異なる作品を出品)。そのことが特に問題なのではなく、ジェンダー部門を設けたところに問題を感じたといえるかもしれない。彼女たちのような性意識を活用した作品は、もはやジェンダーのみの議題で語られる必要はないのではないか。多く女性作家たちの作品が、性差で枠組みされる時期は過ぎているのではないかと思う。少なくとも、ジェンダー部門に特記するのものはなかったわけで、それならば違う視点となる新しい部門を考えて欲しかったと思う。言ってしまえばアジェンダ(協議案)が喪失した議題といえるもので、語り尽くしている訳でもないのに中身のないものに映ってしまったといえるかもしれない。
 その逆の立場にあったものが「芸術と人権」部門であろう。議題が重厚で複雑である分、まだまだ語り尽くせるものではないと思える。この難しい課題に取り組んでいる針生氏の姿勢には感服するものがあるが、現代美術という今日性のなかで言及するために、セオリー軸に片寄り過ぎては作家や作品が見え難くなるのではないか。もちろん、セオリーとアートがバランスよく見えてくる場合は、深い感銘を覚えるのだが。
 それよりも、リー・ウーファンを軸に韓国抽象画ともの派の接点に言及した「韓・日現代美術の断面」は、もの派の新しい解釈や評価を見せてくれるのではないかと期待したが、ちょっと淡白だったように思う。もともとこれらの作品の見え方が淡白であるため、それぞれの作家の差別化が無くてうっかりすると一色にしか見えなかった。特にもの派とポストもの派の断面図はまったく無視されたといわざる得ないし、たぶん最も力を入れるべきだった韓国抽象画のもの派への影響というのもあまり感じることができなかった。日本の抽象表現を言及していくためにも、“もの派”事体の解釈については、今後、積極的に解析されるものであると念じているので、その時期を待ちたいと考えている。



光州ビエンナーレ2000
会場・事務局:韓国 光州広域市北区竜鳳洞山151-10
会期:2000年3月29日〜6月7日
HP:http://www.kwangjubiennale.org/
問い合わせ:biennale@www.kwangjubiennale.org

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