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アートにおけるセンサーシップ:芸術検閲と道徳意識

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10月15日 ザ・ギンザアートスペースにて 右が兄のディノス、左は弟のジェイク 写真:ザ・ギンザアートスペース
10月15日 ザ・ギンザアートスペースにて
右が兄のディノス、左は弟のジェイク
写真:ザ・ギンザアートスペース

 銀座の資生堂のギャラリーであるザ・ギンザアートスペースでイギリス人作家による「チャップマン兄弟のお受験」展が開催された。チャップマン兄弟は、YBa(イギリス人若手作家集団)の一角を成しているイギリスではすでに有名な作家である。特に、子供のマネキンの顔や体に、男性・女性の性器がランダムに付いた作品などを制作して話題となっている作家だ。
 現在、ニューヨークのブルックリン美術館で行われているサーチ・コレクションのグループショーとしてタイトル通り話題を席巻している「センセーション」展に、彼等は重要な作家として中核にいるといえるだろう。この展覧会のタイトルが示すように‘センセーショナリズム’が90年代の若手作家には重要なキーワードになっているのは事実だ。
 ちなみ、この展覧会がニューヨークで展覧会ボイコット騒動になるまでの話題にのぼっているのは、チャップマン兄弟の作品ではなく、クリス・オフィリ(昨年のターナー賞受賞者)のペインティングで使用されている象糞が聖母マリア像にかぶさっているためらしい。ここで作家に代わって弁明すれば、この作品で使われている象糞はロンドン動物園で飼われている象から採集されたもので、その象とはイギリスの植民地時代を象徴する動物である。侵略される立場であれば、象が気候の違うロンドンに無理矢理もってこられて飼われる事実は、堪え難く許されない掠奪行為である。キリスト教布教のために日常的に虐待され、侵略を余儀無くされたブラックの歴史を物語るものである。これは、ひとつの価値観だけで、歴史の尺度を測ることができないことを黒人作家の彼自身が敢えて白人社会に充てたメッセージでもあるのだ。そうした背景を知らずに、この作品を宗教的弾圧とか侮辱行為として荒らげるのは問題であるが、もし知っているのならば、両者にとって理解し難い文化的差異を露呈している難題であることも事実である。
「昇華されないリビドーモデルとしての接合子の増殖(Zygotic Acceleration, Biogenetic, De-sublimated Libidinal Model) 1995
「昇華されないリビドーモデル
としての接合子の増殖
(Zygotic Acceleration, Biogenetic, De-sublimated Libidinal Model) 1995

マイラ
ジェイク・チャップマン
「Homage」シリーズ 水彩
マーカス・ハーヴェイ「マイラ」

Dinos and Jake Chapman GCSE Art Exam 1999
(c) Chapman F.ARTS

 さて、この騒ぎはキリスト教関係者からのクレームらしいが、それではチャップマン兄弟の作品はキリスト教に反逆していないのだろうか?幼児の顔に男根が突き出ている作品や、2本足でありながら頭がふたつの少女たちだったり、それらの耳が女性の陰部であるとか、ペニスになっている角が生えている作品などは、あきらかに人類の生態そのものを冒涜しているものではないか?以前、かれらにロンドンでインタビューしたときには、彼らは「ぼくたちにとって息子のようなもの。美学的細胞分裂のようなものをつくろうとしたんだ。」と作品についてコメントとしている。この発言は、根底にキリスト教社会という事情がなければあまり意味をなさないということを気付くべきだ。彼らは、神に与えられた肉体を傷つけ、自然の営みによって恵まれるべき正当な身体をあえて変態させていることによって、観客に強烈なイメージを植え付けているのである。彼らの行為は観客の嫌悪感をうまく引き出し、社会から暴力的侵害と判断されるようにあらかじめ計画された行為なのである。
 ゴヤのエッチング作品をモチーフにした「死者に背く大いなる功績」は目を覆いたくなるような3人の男たちの無惨な惨殺の光景を立体作品にしたものだが、この惨たらしさを直視するのが、これまで築いてきたキリスト教社会の表向きのモラルであり、一神教としての真実を追い求める宗教社会の歴史でもあるということなのである。彼等が派手な造形作品を作れば作る程、現代社会の偽善的なモラルを暴露していくのである。制作のなかで彼等には冷静で皮肉な眼差しをいつも持ち合わせている。
 意に反してというかクリスチャニティを直視している作品と認知されたためか、彼らの作品はあまりスキャンダルの表舞台にもちあげられない。下手に触れると、人間本来の姿である欲望や犯罪といった反モラルが充満する近代社会の病巣を露呈させてしまうからかも知れない。既にヨーロッパのなかで、キリストの教えというひとつの真理からでは解くことができない宗教的懐疑が根底にあることに、観客は匂いで感じているためだろう。
 付け加えておくが、この「センセーション」展がロンドンで開催された時に、もっとも騒がれた作品は、マーカス・ハ−ヴェイによる「マイラ」というポートレート作品だった。この肖像作品となった女性はイギリスでは、だれでも知っている犯罪者である。彼女はボーイフレンドとともに複数の幼児を殺害した罪で終身刑の身の上である。しかし、刑務所での品行方正によって情状酌量として、出獄が許されるかも知れないというニュースが持ち上がっている時期でもあった。例えは良くないが、彼女への恩情は日本では幼女殺害・死体遺棄の罪で死刑を求刑されている宮崎勤が出所するようなものなのである。したがって、そのような極刑(イギリスでは死刑はない)に服している身上の人物の肖像画を、伝統あるロイヤル・アカデミーに陳列するとは何ごとだ!というわけである。しかし、この展覧会を企画したノーマン・ローゼンタール(ロイヤル・アカデミー、チーフキュレ−タ−)は、その背後にある人物の歴史を兎や角いうのではなく、肖像画としての美的鑑賞に耐える作品であることを篤と解説して、また、権威ある美術評論の立場を利用することで、マスコミの批判をすり抜けて展示を実行してしまったのだった。
 このような度重なるスキャンダルは、美術が社会的モラルの物差になっているのを明確化しているといえるだろう。チャップマン兄弟の作品が、幼児虐待や性的虐待である行為としてボイコットまで至らないのは、あまりにもアイロニカルな眼差しが明確なためではないかと思う。しかもマネキンという素材は、限り無くリアリティを削ぐものであって、蝋細工や実寸によってリアリティを言及したものとは大きく異なるのである。彼らにとってマネキンは、本物とは程遠い形であることを認知している。だが、見る側に強い精神的影響を与えることができることが大きなポイントでもあるのだ。
 それにもかかわらず、彼らの作品は日本に上陸を拒否された。1996年に初の個展のためにイギリスより出品された作品は、検閲に引っ掛かって展示されることなく返還されてしまったのだ。この出来事は彼らにとってひどく衝撃を与えたらしく、日本におけるモラルの基準になったことは事実である。それは、日本ではアートというものが、ポルノグラフィと一緒のものであり、我が国には表現というものが画一された価値観のなかでのみ評価されるということを認識したのである。これが、‘表現の自由’という創造的モラルがあるはずの日本の現状である。
 この事件によって、彼らは代表的なマネキンの作品を日本で展示することに極端に自信を無くしてしまったはずである。いってみれば、彼等自信がセンサーシップの基準を決めてしまったといえるかもしれない。実際、東京のコーポレートスペースで彼等の作品を発表できるところがあるかは疑問である。事実、今回の彼等の展覧会を企画したマーク・サンダース(『DASED&CONFUSED』誌アートエディター)の同ギャラリーでの前回の企画展でも、裸体の表現が問題になったばかりである。この事情を知っていれば、今回の個展が従来のチャップマン兄弟の作品と大きく異なることをがっかりしなくていいことになる。だから、ギンザの展覧会の初日に行われた彼等のレクチャーで、代表作として取り上げられたスライド作品が、マネキン作品ばかりに終止したのも頷けるのだ。彼等としては、本来の姿を少なくてもスライドを使って説明したかったのではないだろうか。
 さて、そんな彼等が日本の状況にそっぽを向くのではなく、彼等独特のユーモアと遊び心を持ち合わせて選ばれたのが、今回の「お受験」である。イギリスの教育システムのなかで高等中学(イギリスの義務教育は16歳まで)の時に受験するGCSEの美術教程を再受験しようというものだ。通常、この試験は13歳〜15歳の子供が受験するもの。特にGCSEは成績がおぼつかない落ちこぼれが必要に迫られて行う場合が多いのである。
 ロイヤル・カレッジ・オブ・ア−ツという美術大学の最高学歴を取得している彼等が、敢えてもう1度、最下位レベルの受験にチャレンジしようというのだから通常ならばナンセンスということになるが、“愉快な趣向”と考えれば洒落の分かる粋な遊びに変容するのである。少なくとも、この作品では彼等が彫刻上の問題を逸脱して、よりコンセプチュアルな方向にシフトしながら、純粋にアートを体現していこうとする新地に踏み込んだのも確かである。
 GCSEの受験をする生徒達の多くが、学校の授業に落ちこぼれて、退屈したり反抗的だったりすることが多々あることだが、こうした連中のなかにクリエイティヴな素質が潜んでいることも事実である。それを30代になった彼等が改めて体験することで、クリエイティヴィティ(創造性)の本質を再認識する機会を与えたことになったのは重要なことだろう。
 これらの試験が、日本の教育事情とまったく同様なレベルを追求した非常に保守的な点取り競争であることからも、彼等のやろうとすることにアイロニカルな視点が健在であることが分かるだろう。2ヶ月間の受験コースに仕組まれたドローイング、コラージュ、静物デッサン、そのほかの実技を行う模擬テストを修了する必要がある。それを二人は、キノコ雲の詳細なデッサンやポル・ポトのデス・マスクの描写などによって完璧に仕上げていくのである。これは、彼等が上等なスキルを駆使して課題をパーフェクトに完成させながら、モチーフのなかでパロディをやってのけている。さて、最終的に3日間に渡る15時間の試験を行い、そのなかから採点のために1点を提出し採点される。彼等はみごとに試験にパスしたが、成績は共にBであった。この結果は、試験管が彼等を病的人物と判断したためAからBに格下げされたものだ。
 「お受験」によってイギリス教育事情の実体が明らかになったことも事実だが、美術を採点するという‘評価’の意義を改めて提案したことに意味があるだろう。この点では、日本の美術の受験事情もまったく変わらないというのが分かったことだけでも、受験シーズンになった日本の観客にも身近な問題として見ることができるのではないか。それにしても弟のジェイクによる「センセーション」展からの模写は美術教育の原点をみるようで興味深い。
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「チャップマン兄弟のお受験」
アーティスト:ディノス・チャップマン(1962生まれ)
       ジェイク・チャップマン(1966生まれ)
会場:ザ・ギンザアートスペース
   104-0061 東京都中央区銀座7-8-10 B1F
会期:1999年10月15日〜11月14日
問い合わせ:Tel: 03-3571-7741

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