「加瀬大周宇Zプロジェクト」の挫折
今から6〜7年前、僕がアーティストとしてデビューして2年目くらいに東京でやった「加瀬大周宇Zプロジェクト」というのは、加瀬大周の芸名騒動にアイデアを得て、見た目のバカバカしさとは裏腹に意外と真剣にやったものでした。現代の日本の社会におけるノンコンセプトな人生観、その場限りの人生観のリアリティを、これでもか、これでもかと出すことで、世界でも類をみないオリジナルなアート作品をつくろうと思って手がけたものです。
最初は、「横浜で俺でブルー」という訳の分からない加瀬大周宇Z君が唄う主題歌の歌詞をつくって、作曲家に楽曲をつけてもらったり、詩の朗読をさせたりして、ない芸を補っていろいろやって、フジTVやTBS、テレ朝や日テレの深夜番組に出してもらいました。それで昼間の番組で、加瀬大周宇Z、加瀬大周宇アキラ、加瀬大周宇レオ、加瀬大周宇ブラックという4人をデビューさせたら、フジTVがすごく興味を持ってくれて「これで村上先生、アートですか、えー!?」というのが落ちなんですけど、TV局側がそれをさらに膨らましてくれて、新加瀬大周が坂元一生という名前に変わった時に、坂元一生の名付け親である群馬県の寺の坊さんのところに行って「あなたたち4人も名前を変えて頂きましょう」とやった。坊さんは一生懸命新しい芸名を考えてくれるんですけど、僕らのシナリオとしては「とにかく、僕らは名前を変えないようにしよう」ということで、坊さんが何を言っても「僕は加瀬大周宇Z」「僕は加瀬大周宇アキラ」とかずっとやっていたら怒ってしまいましたが、「しょうがない。ちょうど4人いらっしゃるから春夏秋冬で、加春大周、加夏大周、加秋大周、加冬大周に」となり、それが上手い具合にカメラに録画されたんです。ところが、その話がすぐに坂元一生の事務所に伝わったらしく、フジTVにこわもての人達がゾロゾロときて「いい加減にしろ」ということでお開きになりました。
ちょうど美術館での展覧会が順調に決まりはじめていたのに、これをやった途端、僕は日本の美術業界から総スカンをくって、たくさんあった話が随分無くなりました。
DOB君誕生まで――オリジナリティをいかに作り上げるか
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『DOBSF ふしぎの森のDOB君』
美術出版社1999
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プリミティブ・アートを除けば、アートは先進国といわれるところが先鞭をつけてやっているF1グランプリの戦いのような側面もあります。西洋中心主義の業界で、なぜ日本のアートが世界に出ていけないかと考えると、それはオリジナリティがないからで、それがなぜかといえば、僕が学生だった20年くらい前までの日本の教育制度自体が、個人のオリジナリティをのばすことをしなかったからだと思います。今は自分たちの趣味の中から何でも選べますが、当時は、そういう考え方や方法論を教師も知らないし、生徒である本人たちもよく分からなかったし、もちろん親も知らなかったと思います。
僕の作品の全ての出発点は、オリジナリティをいかに作り上げるかということです。業界の最先端といわれるものを見ている限り、それはアメリカやイギリス、フランス、イタリア、スペインなど、自分の生まれ育った国や環境でのリアリティを徹底して突き詰めたものがインターナショナルなアート・サーキットで動いている。そういうもどき文化を見るにつけ、僕は僕で自分の正直なところを出すべきだと思って「加瀬大周宇Zプロジェクト」をやりました。加えて僕の世代は、オタクをやったり、自分自身がコンピュータを使って作品をつくったりもするので、デジタルのリアリティも少しは自分の中にあってそこら辺をリンクさせている。しかし、そういうもどき文化やオタク文化は、日本の文化の中では圧倒的に劣位の文化として認識されています。先日、いっしょに仕事をすることになった関係である光学機器メーカーの人と飲んで話した時も「村上先生はオタクの文化をやっているということですが、それを批判なさっているんですよね」みたいなことを言う。「どうして!?」と言ったら「オタクはすごく汚くて、嫌で」。いまだにそういう認識が一般的なんだと思います。オタクのネガティブなところも僕は否定はしません。コミニュケーション不全の人たちがオタク・カルチャーの大多数を占めているのはまぎれもない事実です。ただ、その中からエッセンスとして、何かクリエイティブなものをつかみだしたなら、それはそれで文化なんじゃないか。例えば、北斎の『富獄三十六景』などは、日本国内の流行り絵として流布されていたとしても、宮廷にまで影響が及ぶような権威を与えられていたかというと、けしてイエスとは言えないと思う。町衆の文化として、今だったら加納典明の写真集のように、みんなから喜ばれたレベルだったと思う。でも、それを僕ら自身が否定したら、残るものなんか何もない。なぜなら、今の日本ではヒエラルキーがあってはいけない社会が捏造されていて、ヒエラルキーを欠落させられたままこれまできているからです。でもアートは、貴族階級がいたり、大金持ちがいたりというヒエラルキーのなかでしか生きられない。そういうルールがあるが故に面白みがあるというのが西洋社会ではアートを鑑賞する不文律としてあり、そうした大金持ちが、大金持ち同士のパーティをする時に必要なアイテムとしてアートが必要だったりするけれども、そういう空間は日本にはない。80年代の日本画なら、例えば、平山郁夫のシルクロードで「日本人のルーツは中国にあったのかも知れない」というストーリーがまだまだ精気を持って生きており政治家の事務所の壁に必要だったかもしれません。
しかし、99年になって、いろいろなものを開国しなければならない時に、そういうストーリーはもはや使えない。そうした時に何を使うかといっても、何もない。「加瀬大周宇Zプロジェクト」をやって日本の美術館に背を向けられて、僕は逃げるようにニューヨークに移り住みました。そこで何か違うモードの作品、ある種社会のアイコンみたいなものをつくろうとDOB君みたいなキャラクターを生み出した訳です。僕は真剣にやったんですが、それをデビューさせたギャラリストにはすごく怒られて、結局その時は分かって貰えませんでした。当時と比べると現在のDOB君が変形しているのは、ニューヨークに渡った時、DOB君というキャラ文化の日本という文脈自体が非常に分かりづらいと思って戦法を代えたためです。アメリカといえばヒッピーの末裔たちもいるだろうから、ラブ&ピースの花で勝負しようと花を描いたら、案の定受けた。花がいいんだったら、DOB君もどうですか、しかも今現在,アメリカにもポケモン旋風が吹き荒れていますから、今やっとキャラ文化とは何なのかというDOB君のコンセプトの本陣も解説可能となって来た、そんな感じで段階的に進めた訳です。