リアリティのある等身大フィギュア=「ポック・アート」
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「HIROPON」と
「My Lonsome Cowboy」
右「HIROPON」1997
oil, acrylic, fiberglass & iron
193×212×150
左「My Lonsome Cowboy」1998
oil, acrylic, fiberglass & iron
288×117×90
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「My Lonsome Cowboy」1998
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「My Lonsome Cowboy」(部分)
Back beat展 展示風景 1998
ロサンゼルスのブラム・アンド・ポウ・ギャラリーにて
Courtesy Blum & Poe
Photo: Joshua White
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今の日本のサブカルシーンではありとあらゆるものがフィギュアになっていますが、フィギュアの歴史は、『うる星やつら』の「ラムちゃん」を何とか自分の手許に残したいというところから始まったようです。ラムちゃんの髪の毛や顔のホホのあたりのフォルムが変な形をしているため、3D化することはとてつもなく困難で誰がやっても上手くいかなかった。そうした試行錯誤の中で、切磋琢磨をしているうちに、花形満みたいに前から見た髪型と横から見た髪型の整合性がないものでも、立体化した時に整合性のあるものにするテクニックをオタクのフィギュアモデラーたちは修得していった訳です。
フィギュア彫刻は、整合性のない絵から整合性のある3Dを起こすという、美術史上の革新的な出来事であり、僕は、これはちゃんとプレゼンテーションするしかないと思いました。それはアニメーターの金田伊功のアートシーンへのリプレンゼーテーションと同じ仕組みです。僕の立場は、未発表の文化のプレゼンテーターだと思っていますから、最初の課題は、ボーメさんというフィギュア界の王者の人の文脈をいかに上手くプレゼンテーションするかということでした。等身大にするというプロジェクトは、海洋堂が最初に綾波レイで抜けがけとしてやってしまったんですが、実はそれより前に僕が海洋堂と一緒に開発していたKO2ちゃんが元祖です。
最新作は「加瀬大周宇Zプロジェクト」の直後からずっとあたためてきて今やっと実現した「SMPKO2 セカンド・ミッション・プロジェクト・ココ」という、女性がトランスフォームして飛行機になるというプロジェクトです。これは飛行機の形態ですが、機首にヴァギナがある。僕は、フェミニズムとかそういう単一の主題で作品を制作するアートにリアリティを感じません。もともと僕らの文化から出てきている訳でもないからリアルじゃない。それで「フェミニズム・アートに対抗するならこれ」みたいな感じで、女性がトランスフォームして飛行機になるというプロジェクトを始めました。僕のやりたかったのはこれで、今年のカーネギー・インターナショナルにも出しています。
制作は、『ガメラ3』のクリーチャーをつくっていたビショップというムーヴィープロップ屋さんに協力してもらい、制作費5.000万円でつくっています。スイス人がスポンサーで、それをロサンゼルスのギャラリストがプロデュースして、日本のプロップ屋でつくるという、かなり変な形での制作プロセスです。しかし、これが今のアートの世界のリアルのひとつだと思います。物をつくるには金がかかりますが、バブルでもないのに5.000万円もかけてオタクの固まりみたいなものをつくり、しかもそれでオタクの人は満足させられないし、100個つくって100個売れるわけでもない。でも、アートということに関していえば、これは世界で誰も見たことのないイメージです。変態のアーティストに思われると嫌なんですが、オタク的にいうと、もりマンのところが非常に重要だというので、誰も気にしないようなところもあらゆる角度から見てつくっています。最近のロサンゼルスのチャーリー・レイやポール・マッカシーのヒューマン・フィギュアから見ても、ここまで突飛なものはアートの世界ではあまり出ていない。もちろん、ハリウッド・ムーヴィのなかではガンガン出ていますが、これを美術としてなぜ提示できるのかというのが、僕の勝負どころです。この作品が、僕が提示する「ポック・アート」なんです。
日本の社会の中で「ポップ」や「ポップ・アート」という言葉が使われる時に参照されているのは、いつもアメリカのポップ・アートです。でも今、「フィギュア王」や「クール・トイズ」といったフィギュア系雑誌がコンビニに溢れているさまをポップでないのかというと、僕は、日本のリアルのポップだと思います。ただ、そこにはオタク的な文脈も入っている。それは、ただのポップとはいえないし、オタクの要素も入っているということで造語しましたが、ポピュラーになる言葉ではなくても、これが僕のなかでは非常にリアルなもので本陣だと思っています。
日本のオリジナルなものを求めて
アニメーションが日本の文化の本陣になるかもしれないということは、今や誰もが気がついている。先日、千葉市美術館で、高畑勲さんという『となりの山田君』をつくった監督が絵巻物を題材にした展覧会をつくりました。これはチャレンジングな企画でしたが、生まれた時からアニメーションを見ている僕にとっては最悪の展覧会でした。僕はアニメーションを愛していますが、美術も愛しています。でもこの展覧会の制作者はどうも、双方共に愛していない。要するに、映画が撮れないコンプレックスをもってアニメーションを撮っていて、自分に欠落したものを埋めるために、ポッカリあいた穴に組み込むブロックとして日本の美術史を使っているところが、僕には許せなかった。
高畑さんの文脈は、戦後日本人の誰もが持ってしまった、あの世代に共通する悲しさ、つまりアメリカに敗戦したことによる心的外傷だと思います。僕らにはそういう悲しさは全く無く、むしろ自国の文化の誇れる部分を拾い集めてゆく作業がピュアに出来得る世代となっていると思います。でも代わりとなるコンテキストもない。アニメーションや漫画をみんなすごいカルチャーだと思っているし、こうしたトライアルも始まっていますが、エンターテインメント・ビジネスとしてインターナショナルなサーキットにまだ誰も持っていけない。例えば『パワーレンジャー』という日本の戦隊物の作品は、向こうでは何百億円もの収入になっているのに、東映に入ってきたのはその数万分の一とも言われています。もちろん、今のピカチュウあたりは、任天堂がキチっとオーガナイズしていると信じたいのですが、僕の素人の情報網だと、おもちゃを動かすユダヤ系のシンジケートが動いたが故にピカチュウが成功しているというような話を聞いたりする。そういうところや批評も含めてサブカルチャーを研究しなければならないと思います。かつて日本の産業といえば重工業でしたが、時代とともにシフトして今はソフトが産業にならなければいけない時期にきているのに、それに対しての研究や開発への予算の投入が非常に遅れていると思います。先ほども言いましたが、僕の作品は5.000万円かかります。日本ではこの5.000万円のバジェットを獲得できませんが、スイスやロサンゼルスの人たちは納得してくれている。これがリアルな現実ですが、これでいいのかと思う訳です。
要するに、金と、オリジナルと、自分の足下を見るということが、今日の話の主題でした。若い人は着る物から話し方まで周りの人に影響されたりしますが、クリエーションというのは、オリジナルなものです。くだらないようなものでも、自分が子供の頃からこだわっているもの、それを表現すれば世界で1個のオリジナルなものになる。人の真似ではいくらレベルが高くてもいつか淘汰されてなくなってしまいます。たとえレベルが低くても、人と違うものであるならば、いつか陽の目を見る可能性が高い。今後、日本もそういうことがリスペクトされる文化になっていくと思います。でも、その下地ができていないのを憂うので、私はこういう場所で辻説法みたいなことをしています。