キュレーターズノート
やなぎみわ演劇プロジェクト第二部「1924 海戦」
山口洋三(福岡市美術館)
2011年11月15日号
美術家が演劇に関わるといったとき、まず思い浮かぶのが舞台美術の担当や衣装のデザイン。つまり演劇の視覚的要素を担う役割。それはしかし「演劇」においては周縁である。やなぎみわの演劇への関わり方は違った。美術家の片手間でもない、展覧会の関連事業とも対局にある、直球勝負の「演劇」を目の当たりにした。
なにかやむにやまれない衝動。そうする他はないという切迫感。そして状況と自己の内面についての冷静な眼差し。強い表現を支えるものは常にこれなのではないかと思う。やなぎみわが演劇を志すと知ったとき、私は彼女のなかになにかしらの衝動と切迫感が備わっていたのだと感じた。それは内的には、現状の美術への不満であり、外的には、モホイ=ナジ展、村山知義展が近々開かれることと、東日本大震災の発生である。
今年7月の「Tokyo-Berlin」に始まる彼女の演劇プロジェクト『1924』。今回の「1924海戦」を経て、来年上演予定の「人間機械」で完結する三部作である。残念ながら初回の「Tokyo-Berlin」を見落とし、たいした観劇体験もない私は本来今回の「1924 海戦」を語る資格は、正直言ってないと思う。どなたか本格的な演劇評を、artscapeやART iTに書いてほしいと思う(あ、もちろん新聞でも雑誌でもいいんですけど)。
それでもなにかをここに書き留めておきたいと思った理由は、確かにいくつか見落としはあるにせよ、私はやなぎの(ほぼ)デビュー作である、生身のエレベーターガールを使ったインスタレーション(「The White Casket」、アートスペース虹/京都市、1993)を偶然見て、そして私の初企画展(「あぁ、『日本の風景』?」、福岡市美術館、1996)にも出品していただいたことがきっかけとなり、彼女の作品を観覧し続けてきたからである。
そうした観覧経験、本人との会話から感じられることは、やなぎみわは、いつどんなときでも自分の制作欲求にきわめて忠実であるということだ。思いついたアイデアを必ず形にする。それもかなりのクオリティで。作家としては当然のことだが、しかしこれを貫徹している作家はいま、はたしてどれだけいるのか。本気でそうするためには膨大なエネルギーを要する。そして、これまでの制作の方向をすっかり変え、演劇という他流試合に臨むことに、またどれだけのエネルギーを費やしたのか。
「1924 海戦」は、築地小劇場を設立したドイツ帰りの演出家・土方与志(ひじかた・よし)を主人公に、彼の前衛芸術への熱き志と、その挫折を描いた物語である。
自身も会場で配布されたパンフレットで語るように、本編は、三つの要素から成る。まずひとつが、本編舞台となっている築地小劇場のこけら落とし公演のひとつとして実際に上演された(オリジナルの)『海戦』。二つめが、これを演出したドイツ帰りの演出家・土方与志を主人公とした演劇人たちのドラマ。さらに、狂言まわしとして登場するモダンガール風のコスチュームを身にまとった案内嬢の語り。しかし、観覧していて、この三つがバラバラに進行することはなく、いったいいつ入れ替わったのかがわからないほどに緊密に関連づけられている。
オリジナルの『海戦』は、本劇の主要パートを占める。土方は、この『海戦』の台詞回しを聞き取れないほどの早口にしたというが、やなぎの演出においても、このパートの台詞の速度を上げて、できる限り当時の雰囲気に近づけようとしていたようだ。これが、作品全体のスピード感と高揚感をドライブしている。1924(大正13)年という時代に、芸術家たちの内部に吹き荒れた、芸術による革命への渇望を象徴させているようだ。
さて『海戦』の内容、築地小劇場の説明は、詳しい方に譲ろう。私が注目したいのは、土方の変節を描くことで、やなぎが発しているメッセージだ。
劇中、土方は、新しい芸術の開花を目指して築地小劇場を自費で設立し、小山内薫とともに歩んだ。しかし劇中劇『海戦』の戦闘シーンの最中で戦死するかのように小山内が倒れ、死ぬ。このとき、背景に投射される小山内の絶筆文章は息をのむものだ。芸術至上主義が、大衆の支持を得ないまま敗北を喫したことを告げている。このシーンの直後に、死体を「舞台が汚れる」ことを理由にそこから除去するように言う土方。そして次のように言う。「私を惑わす潤いは、強風にさらされすべて流された。メイエルホリドという病巣を切除し、乾いた体が残った。だが私は死んではいない。まだこれからも生きて行かなくてはならない」。
ドイツからの帰路で立ち寄ったモスクワで眼にしたメイエルホリドの作品の衝撃だけで築地小劇場設立まで突き進んだ土方は、のぼせすぎたのだろうか。小山内の死後、彼はあっさりと大衆を味方に付ける「プロレタリア演劇」へと変節するが、しかし作品上では、やなぎが彼を責めるところは希薄であり、むしろ多分に同情的な眼差しが見られるように思えた。しかしこれもまたやなぎの与するところではないだろう。ART iTその他のインタビューでも、やなぎはこのあたりの態度を明快にはしていない。はっきりとは語られないが、ここには「芸術と大衆」という二項のあいだでの芸術家たちの態度についての真剣な問いかけがある。そしてその問いかけは芸術家内部に向かうはずである。
私はやなぎの演劇制作に、菊畑茂久馬の1970年代の沈黙を重ねてみたくなった。菊畑は戦争記録画の考察において、時代の熱に突き動かされることが、結局は国家の手のひらで踊らされているだけにすぎず、ほとんどの画家たちがこれに気付くことなくおしなべて戦争画制作になだれ込んでいったことを喝破した。イデオロギーや思想に犯されない作品の見方、そして制作は可能か。こう問いかける菊畑もまた、前衛の嵐が吹き荒れた1960年代のまっただ中にいた。嵐が過ぎ去った後に残されるのは個としての作家である。やなぎもまた、ここで個としての自らを見つめようとしているのではないか。それもものすごいエネルギーを使って。震災、原発事故と国内が揺れ動くなかで、はたして芸術家とは何者なのか。峻厳な問いかけがあるような気がしてならない。第三部が待ち遠しくなった。