キュレーターズノート
Goh Uozumi 新作インスタレーション展「observer n」
井高久美子(山口情報芸術センター[YCAM])
2012年10月15日号
対象美術館
現在、山口情報芸術センター[YCAM]では、若手作家を紹介する展示シリーズ「scopic measure(スコピック・メジャー)」の第14弾として、Goh Uozumi(魚住剛)の新作となるインスタレーション展示《observer n(オブザーバー・エヌ)》を開催している。この作品をとおして、昨今の表現と技術にまつわる動向をレポートしたいと思う。
本作は、Goh Uozumiが2008年に制作した《observer n》を原点として、今回の企画のために3つの構成要素を拡大、アップデートしたものである。作品は、広く解放されたスタジオ全面で展開されており、展示空間に入ると、天井から吊り下げられた3つのモニタと、無数の小さな機械が駆動しているのが見える。また音源が特定できない音とともに、不定期に床を突き上げるような振動が伝わり、解放された展示室のガラスからは日光が差し込んでくる。作品の展示環境を完全にコントロールし、作品のみに没入させるタイプの展示法とは異なり、本作の展示構成は、作品と展示されている環境との境界を意図的に曖昧にする方法が選択されている。こうした構成自体が、「環境との多次元的な対話」というコンセプトと直結し、作品展示の持つ既存のフレームから、どのように逸脱していくのかを模索しようとする姿勢を感じさせる。こうした姿勢は、作者の制作行程でも一貫されており、作者本人とのやり取りを通して感じた、これからの技術と表現の問題を、順を追って述べていこうと思う。
作品のタイトルになっている「observer n」とは、無限級数であるn項の観測者を意味しており、ひとつの俯瞰した観測視点ではなく、多様な次元に視点を移動させ、観測を行なうというコンセプトを内在している作品である。要素としては、スケールの異なった3つのシステムと、それらを繋ぐネットワークで構成されている、生態系を表現したモデルである。
一番小さなスケールのものは、f-deviceと呼ばれる明るさを判定できる目(センサー)を持ったデバイスで、3つと5つの2群に分けて天井から吊り下げられている。それぞれのf-deviceは、表面が白と黒に印字された、1本の円環状に繋げられたビニール製の紐を共有しながら、白黒のパターンを読み込むことで多彩なデータを生成する。また角速度センサを内蔵しているため、互いを物理的に引っ張り合うことで、デバイスが自身とほかのデバイスとの位置関係を把握できる仕組みになっている。つまり、物理的な紐がネットワークとなって機能している。また、f-deviceにより生成されたデータは、無線によりPCを経由して、LEDが等間隔に並べられたレールへと転送され、光として出力される。
b-botと名付けられた8つのデバイスは、色彩を判別できる目(カメラ)を持っており、レールに沿って移動しながら、LEDの色彩情報を読み取る。それぞれのシステムが、空間や環境条件を共有しつつも、自律的に振る舞う様子が伺える。さらに、LEDの色の情報を読み取ったデータは、紐状のコンピュータグラフィックを、リアルタイムに生成して、モニタに映し出される。
さらに、展示室と中庭に取り付けられたマイクが、環境音を取り込んでおり、ガラス面に直接取り付けられた16個の振動子によって出力される。中庭で話す人々の声や風の音が、ガラス面を透過して、外から中へ浸透していくような効果が生まれる。また、音のデータは、リアルタイムに出力されるだけではなく、取り込まれてからデーターベースのなかで保管され、突然思い出したかのように、数日後にアウトプットさせることもある。思い出すまでの期間が長くなればなるほど、音が劣化して聞こえるように設計されており、音響空間自体が、一番大きな生命体を模したシステムになっている。また、床面を振動させる大型の振動子や、ロボットアームに取り付けられた可動式の超指向性スピーカーにより、音が空間を移動し、空間を包み込むような音響空間が表現されている。
また、これらのシステム間は、一方向にデータが送られるだけではなく、送られたデータが過多になったときには、生成を抑制するようにデータが逆送される。小さなデバイスから、大きな音響空間に至るまでの多層的なシステムが、それぞれどのような目と耳を持って環境を読み取り、互いにどのようなネットワークを形成しているのか。システム全体を俯瞰した視点からだけではなく、多層的に繋がった一つひとつのシステムに視点を移動させ、それぞれのシステムをとおして環境を観測することが、この作品の大きな主題となっている。
しかし、この展示のもっとも肝になった点は、先に述べたこの作品が持つ複雑で多層的なアイデアを、共有し、リアライゼーションするプロセスそのものにあったように思う。まず、基本的に、設計からプログラム、またデバイスのハードケースにいたるまで、作者自身の手により制作された。マイコン、プログラムの制作は、ArduinoやopenFrameworksなどを利用している。現在、オープンソースやオープンソースハードウェアが普及し、安価に、また工学的な素養が少なくても、モーターなどのアクチュエータを制御できるなど、物理的なアウトプットを簡単に行なうことができる。また3次元データをプリントアウトできる3Dプリンターは、個人で所有できる価格帯になったこともあり、プログラムからハードウェアまで、すべてを一人で制作できるようになった。まず、そうした技術的な変遷が背景にある。
本作では、デバイスのケースはもちろんのこと、YCAM InterLabのスタッフが最終的に設計したf-deviceのモーター稼働部分も、概ね3Dプリンターで試作された部品が、技術的なアイデアを共有するための原形として機能していた。また、プログラムも、Processing★1のスケッチをベースに、実際に動作するプログラムを書き、プレゼンテーションすることが、他者と作業を共有するための重要なポイントになっていた。
大きなスケールでの作品を実現させるためには、共同作業が必須であるが、共同作業を行なう方法として、数年前までは、すべてを言語化し、図面を引く、仕様書を書く以外に、リアライゼーションする手段はなかったのではないだろうか。作者は、本作の制作行程で、プログラミングや設計行為を、紙に絵を描くことや粘土をこねて造形するのと同じように扱うことを目指しており、設計図や仕様書など、共同作業のための既存のプロトコルに落とし込むのではなく、「実際に動くもの」自体を、他者とアイデアを共有する為の手段として利用している点で、技術と表現が向かうひとつの可能性を予見しているように思う。共同作業を経ているにもかかわらず、言葉や図面にすることで削ぎ落とされてしまう思考の複雑さを、本作は保持している。
技術の一般化によるパーソナル・ファブルケーションの潮流は、メディアアートが、特権的な技術をともなって進化してきた過程とは逆行する流れのように思う。これまでの作品の在り方を踏襲して、新たな作品を生み出していく限界に、若い世代のアーティストは直面しているのではないだろうか。過去のフレームの踏襲ではなく、フレーム自体を新につくっていく、その思考錯誤の過程において、思考自体を強化していくような影響を、技術が与える時代になってきたといえる。その点において、本作は、新たな方向性を本能的に示唆した作品といえるのではないだろうか。