キュレーターズノート
大竹伸朗「憶速」、大竹伸朗「ニューニュー」、大竹伸朗《女根/めこん》
山口洋三(福岡市美術館)
2013年08月15日号
対象美術館
大手新聞ほか、ネット上でもすでに話題の、瀬戸内での大竹伸朗の大展開。昨年の「ドクメンタ」そして今年の「ヴェネツィア・ビエンナーレ」出品の余勢も駆って、まさに「驀進」の名にふさわしい。7月16、17、18日と丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、高松市美術館、そして同市女木島(めぎしま)の女木小学校に展開される《女根/めこん》を見て回った。
まずは、二つの美術館で開催される大竹伸朗の個展から。言うまでもないが、2館同時開催の展覧会を片方だけを見て済ますべきではない。両館相互協力のもと、別個に企画され、テーマも作品内容も大きく異なる展覧会なので、そのつもりで観覧したが、見終わったあと、あたかも両会場にひとつの展覧会がまたがっているようにも思えた。
全体的な印象としては、すでに伝説の域に入りつつあるかもしれない「全景」(東京都現代美術館、2006)に比べ、抑制的に作品が吟味、厳選されているように思えた。これは特に高松の「憶速(おくそく)」展にいえることで、毛利義嗣学芸員と作家との対話のなかから生み出された「記憶と速度」というテーマ設定、そしてそこから導き出された七つの小テーマのもとに、渋めの作品選択がなされている。それらは「全景」そして私自身企画させていただいた「路上のニュー宇宙」(福岡市美術館/広島市現代美術館、2007)の出品作ともあまりかぶらないものとなっている。大作ばかりがずらりとならぶマッチョな構成ではないが、「まだこんな作品があったのか」と(いっぺんでも企画に関わった人間にとっては)ちょっとどきどきさせる要素もあって、ついつい時間をかけての鑑賞となった。
ところでこの「憶速」、つまり「記憶の速度」とはなんだろうか。
大竹の作品を見るときにしばしば感じることが、時空のゆがむ感じ、なんとも言葉に表わしようのない独特の感覚である。その代表的な作品と言えば、高松ではなく丸亀市猪熊弦一郎現代美術館屋上に掲げられた《宇和島駅》である。超モダンな美術館建築が、あっという間に駅舎に早変わり。丸亀駅前のゆるい雰囲気とまるで相容れない建物の偉観/異観が、あたかも初めからそこにあったかのように変化する。過去のものがいまの時空をゆがませる。
毛利学芸員が、「憶速」図録のエッセイで、本展の冒頭に展示された映像作品《宇和島》について書いているように、古いものが「まるで今発見されたかのような生々しい感触」が、私の場合は、擬態語で示す「にゅるっ」とした感覚だ。作品もさることながら「憶速」のように、年代の離れた作品群を巧みに組み合わせ、あたかも同年代に制作されたかのような感覚を観客に与えること。大竹伸朗展の醍醐味はここにある。
その意味では、丸亀の「ニューニュー」展は、その感覚が乏しい。それは、新作で固められた本展においては、過去作品との対比という要素がないからなのか? いや、そうではなく、新作中心の本展の作品は、そのいずれもが大竹の過去の作品と時空を超えて相似形をなすように思える。小作品である《境界色》は、1980年代後半に描かれた《Dreams》の連作を思わせる。《時場》は、《from Egypt》(2000)など、過去につくられた小さな紙片を格子状に貼り込んだ作品を思わせるし、《時憶》は、大竹が20代のころに大量に制作した、空き箱などでつくった作品群(おもに1978-79年頃)を彷彿とさせる。過去の視点において眺めた現在の作品? その視点は、過去の作品画像を無数にちりばめ、巨大なスクラップブックとした《焼憶》(2013)に顕著だ。ドクメンタ出品作である《モンシェリー:スクラップブックとしての自画像》(2012)では、スクラップブックが小屋の中に収まっている(!)が、これもまた、スクラップブックの変奏と言えそうな作品である。残念ながら、彼のライフワークである《スクラップブック》の一群は、ヴェネツィア・ビエンナーレ出品のためここにはなかったので対比は難しいが、過去と現在を巡る視線の向け方が、高松展とは真逆になっているように思えた。「ニューニュー」とは「ニュー」の再定義か? ではそれは「にゅるっ」とは別の感覚になる(なんと言えばいいかな?)。
「にゅるっ」感を渇望していた私は、3番目に訪問した女木島にて、腹一杯にその感覚を味わうことになった。
いまだ制作の途上と紹介された《女根》は、蛍光色と植物の根っこで埋め尽くされたインスタレーション(といっていいのかな)。どろっとした蛍光色、ぬるぬる感満載の根っこの絡み合い──その作品題名の音感とも相まって、これは奇妙な快感である。2009年に直島に完成した《I♥湯(アイラブユ)》との比較をしたくなるが、この両者は似て非なる物だ。《I♥湯》では過去の大竹作品のイメージが存分にコラージュされていたが、《女根》ではそれは主役ではない。植物、鉄くず、蛍光色、そして巨大なブイ──、大まかに入って、この奇妙な庭を構成する主要な素材はそれだけだ。休校となっている小学校校庭が過去とするならば、上記の物たちはそこに割り入ってきた、時空の異なった珍客たちとなるだろうか。しかし、過去と現在という異なった時間の混交による「にゅるっ」とした感じとはまったく種類の違う「にゅるっ」感がここにはあるように感じた。直島といい、女木島といい、島の大竹作品は冴えている。彼の「今」は、動きを止めたかのような島の時空間に「にゅるっ」と割り入っている。