キュレーターズノート
「横尾忠則の昭和NIPPON──反復・連鎖・転移」、菊地敦己「Creation Is Free. Production Needs Fee.」
工藤健志(青森県立美術館)
2014年01月15日号
対象美術館
新しい年が明けたけど、今回は昨年後半期に開催された2本の展覧会について書いてみたい。
まず1本目は、当館(青森県立美術館)で開催された「横尾忠則の昭和NIPPON──反復・連鎖・転移」(2013年9月7日〜11月4日)。横尾の個展はこれまで何度も開催されてきているが、今回は「横尾忠則」という一人の作家から「昭和史」を導き出そうという企画。「作品」ではなく、戦前に生まれ、戦争体験を持ち、高度成長期の日本を象徴する存在となった作家の存在に焦点をあて、そこから「昭和」の時代性を浮かび上がらせようとする、意欲的かつ実験的な試みであった。企画は当館学芸課長の飯田高誉で、以前飯田が「誌上キュレーション」を行なった『プリンツ21』の記事「横尾忠則の日本──反復・連鎖・転移」(2005年・夏号)がベースとなった展覧会である。
横尾の作品の特徴としては、既存イメージの引用とその集積、折々の社会性を個人的記憶と重ねあわせて描出する点などが挙げられるが、さらにそれらモチーフが繰り返し描かれ、無数のヴァリアント(異形体)が生み出されることも際だった個性と言える。その「多様」な、というよりは「雑多」で「猥雑」なモチーフの組み合わせは、歴史の一コマを映し出しつつも、事象、観念の集積として、見る者に無限の想像力を喚起していく。なるほど、歴史年表のように文字で一言書かれたものを読むより、横尾のつくるイメージの群れは記憶の引き出しを幾重にも開き、新しい知的な思考の回路の拡がりをうながしてくれる。その意味で横尾の作品を歴史の再認識の手段とするのは極めて有効であろう。そうした横尾の「時代の表象としての側面」に着目し、三島由紀夫による「ポップコーンの心霊術──横尾忠則論」をサブテキストに用いながら、「幼年時代 恐怖と快楽」「焼け跡 廃墟の記憶」「近代の病 呪われた部分」「陰惨醜悪怪奇 百鬼夜行」「笑う女たち 土俗の悲しみ」「日本資本主義 シュミラークルの残骸」「富士と旭日の光芒 至高性への憧憬」「記憶の鎮魂歌 心霊的交流」「忘れえぬ英雄 昭和残侠伝」「泉 彼岸と此岸」という10のセクションで展示は構成されていた。回顧展ではないため作品は制作年代順ではなく、記号表現によって分類されており、その展示構成に、個人的な感想を書けば、まずは面食らい、そして思考を混乱させられた。戦時イメージを集めたはじめの「幼年時代 恐怖と快楽」のセクションに2000年代の作品が展示され、続く戦後直後の世相を写した「焼け跡 廃墟の記憶」のセクションに1960年代の作品が並ぶなど、「制作年」を作品分析の基本的な拠り所とする美術史の「常識」から、大きくかけ離れていたからだ。しかし、展示室を巡っていると、それが逆に横尾作品の勘所を的確に押さえたものであるようにも思えてきた。「作品イメージは一点一点で完結することなく、くりかえし同じ主題を反復し、また関連し合いながら連鎖し、そして姿をかえて転移していく」という飯田の指摘を踏まえるなら、そこに描き込まれる時間はいわゆる過去から現在、そして未来へと一直線につながるものではなく、ゆえにそこに描写された文明や社会もまた進歩や発展とは切り離されたものとなっていく。むしろ、歴史の一コマ、記憶の一コマを時間、空間を超越してコラージュさせることで、「近代」という堆積した時間の土壌の奥にひそむ混沌がそこから浮かび上がってくる。そんな大衆性のなかにおける日本の土着性、言い換えるなら近現代の社会における得体の知れない不安をアニミズム的に再解釈したものが横尾作品なのではないかと、今回の展示をとおして強く感じさせられた。そう理解すれば、10のセクションもいわゆる通常のセクション分けとは異なり、それが横尾作品、ひいては昭和という時代を考察するためのキーワードであることが見えてくる。横尾という存在は常に時代の先端事象を感受する「依代」ではなかったか。依代であるなら、そこでとらえられた事象はどこまでも客体化された他者、モノとなるため、必然的に生と切り離された死の印象がそこから生じるのだろう。もしかするとそれは横尾という人間にとって必要な「生きるためのバランス感覚」なのかも知れない。
横尾作品はけっして「反近代」の立場をとるものではない。むしろ、「近代」を日本の歴史の断絶ととらえるのではなく、前近代的な土壌を踏まえつつ、近代以降の日本といかにして向き合っていくかに横尾の意識はあるように思う。ゆえにその作品は常に矛盾をはらみ、アンビヴァレンツな様相を呈していく。もともと人間も社会も不可解なもの、整理できないものであり、よってイメージは無限に反復、連鎖、転移していく。確かに、時間、空間という観念を解放し、肯定と否定をないまぜにし、生と死が一体化したところに人間存在のリアリティは生じるものかも知れないな……などと考えながら展示を見終えると、最後にまたスタート地点に立ち戻るよううながされる。そしてまた横尾作品、そして昭和という時代に対しての解釈が刷新されていく。まさに歴史とは小さな事象の積み重ねと、それがもたらすわずかな変化の連続によって形づくられていくものであり、その複雑かつ曖昧な事柄がある力によって意図的に整理され、ある一定の側面のみで認識させられたものであることを思い知らされるかのようであった。ほんらい歴史はさまざまな記述が可能であるはず。旧来的な指標や価値の基準で評価しきれない横尾作品だからこそ成立する切り口であり、「横尾作品をとおして昭和史を振り返る」という趣旨の展覧会でありながら、むしろ横尾芸術の理解にもっとも迫った企画であったように思う。
寺山修司とつながりの深い作家であることも今回の展覧会開催のひとつのきっかけにはなっているが、近代の矛盾を抱え込まされた東北、青森の地において、縄文の精神性に立ち返り、「中央の価値基準に追従せず、青森県の風土性に密着した新たな価値を創出する」ことを目的に企画展を開催してきた青森県美ならではの取り組みであった。
また、これまでの企画展とは異なり、普段常設展示に使用しているスペースを活用したことも新しい挑戦と言える。青森県立美術館の展示室はAからQまでアルファベット順に展示室名が付けられているだけで、企画展示室と常設展示室の区別もなくそうというのが本来のコンセプトであった。しかし、観客動線や管理上の都合から半ば慣習的にB2フロアの展示室AからEまでを企画展示に用いていたのだが、展示室活用の新しいあり方を示したという点においても大きな意義があったように思う。ホワイトキューブに加え、土の壁、床が混在するスペースなど各展示室の個性を活かし、横尾作品の魅力や展示コンセプトを最大限に引き出した乗田菜々美(本展の宣伝美術も担当)による会場構成も見事であったと付け加えておこう。
横尾忠則の昭和NIPPON──反復・連鎖・転移
そしてもう1本もデザイナーの展覧会について。
銀座のクリエイションギャラリーG8で開催された当館のV.I.(ビジュアル・アイデンティティ)を手がけている菊地敦己の個展「Creation Is Free. Production Needs Fee.」(2013年10月18日〜11月21日)は、展覧会というフレームや作品/商品という既成の価値を問い直そうとするユニークな試みであった。会場内には「作品」としてのポスターやインスタレーション、彫刻に加え、「商品」としてのTシャツやマッチ、ノート、マグカップ等のグッズが展示され、もちろんすべて購入が可能となっていた。と書けば、ごく普通の展示会のように思えるが、面白いのは商品とグッズ双方が、「電球」「ピーナッツ」「矢印」「マッチ」「手袋」「チューブ」といった共通のデザインオブジェクトで処理されていること。すなわち、Tシャツにプリントされればそれはグッズになり、紙に印刷されればそれは版画作品になるという仕掛けなのだ。むろんエディションが少なければ少ないほど高価になる。大きさが大きくなればその分価格も上昇する。キャプションにはエディションと価格も作品名と等価で記載されており、この展覧会を構成する重要な要素であることが伺える。そのことはB9からB0までサイズの同一モチーフの版画作品を並べた《Graphics“Same Dots”100(B9)、200(B8)、400(B7)、800(B6)、1,600(B5)、3,000(B4)、6,000(B3)、12,000(B2)、25,000(B1)、50,000(B0)》が顕著に示している。紙サイズが倍になれば価格も倍になるというわかりやすさとそこにひそむ皮肉な視点。「売る」という行為よりも、作品が作品として成立するための「価格」というシステムに対する批評行為にほかならない。「作品」としてより高価なのは彫刻の《Sculptures“Copies”200,000(5 piece set)》とインスタレーションの《Installation“Same Weight”500,000(4 piece set)/Limited Edition 3》で、作家の手が直接加えられているということからの価格設定と考えられるが、それを“Copies”、“Same Weight”と名づけるひねりもさることながら、“Copies”は出力紙をクシャと折り曲げた(だけの)もので、しかも5点とも丁寧に折り皺まで同一であるため、むしろ行為としての痕跡=作家性は薄らいでいる。こうした仕掛けを幾重にも施し、アートの「常識」に揺さぶりをかけるコンセプトは、デザインというメディアの機能を、その長所と短所を含め、最大限に引き出したものとも言えよう。デザインはアートの下位カテゴリーであるという一般に普及している認識までをも利用するしたたかさ。逆説的に、そこにはデザインというメディアが持つ可能性の豊かさが示されている。
本展はギャラリーに加え、特設ウェブサイトと連動した二会場構成となっており、ウェブサイトでは今回使用されているデザインオブジェクトが無料で加工、ダウンロードできるようになっている。モノとしての価値のみならず、コンピュータとネットの普及によってさまざまなデータの入手が容易となった現在、自由に複製、加工され、瞬時に世界中に拡散する「データ」の意味と価値についても本展は再考をうながしている。「データ(素材)」と「作品」と「商品」は、そもそもどのような関係性のもとにあるのか、その因果関係のプロセスをあえてさらけ出し、そこに介在する(はずの)オリジナリティやクリエイティビティの問題と、それぞれの概念を支える一般的認識についてもわれわれは問い直しを迫られる。
そもそも「クリエイティビティ」なるものの本質はどこにあるのか。デザインオブジェクトも既製のイメージをモチーフにしており、その意味では菊地の創造物ではないが、その色と形と配置の組み合わせに僕は菊地の個性を認めざるをえない。それをあえて「素材」と位置づける菊地の巧妙な罠。そのさらなる加工の権利を一方では放棄しつつ、一方では「作品」と「グッズ」という形式に自ら再創造していく。引用と複製の時代、コンピュータを筆頭にさまざまな技術が誰でも安易に利用できる時代だからこそ、その状況を逆手にとるかのような仕掛けによって「クリエイティビティ」の根拠が浮かび上がってくる。すなわち、クリエイティビティとは作り手のなかにおいて生成されるものではなく、あくまで作り手と受け手との相互作用によって生じるものであること。つまり、作品という「権威」やその「経済的価値」によるものではなく、主体と他者/社会との交感/交換においてクリエイティビティは発露するのではないかということ。旧来的なフレームや価値を転倒させるかのような問いに満ちた本展に、われわれ見る者の意識は否が応にも揺さぶられていく。その意味では確かに“Creation Is Free.”なのだ。そして、デザインとはたんに視覚的イメージをつくる行為ではなく、他者/社会とのつながりを考察し、そこからクリエイティビティを喚起する表現行為なのだ。そこに新たな価値を見出しえた者がそのモノに対して対価を支払う。“Production Needs Fee.”たる所以であろう。この展覧会では、アイロニカルかつ軽やかに、そうしたデザインの本質が言い当てられていたように思う。