キュレーターズノート

黒田大祐個展「ばんじいしころ」、「スリーピング・ビューティー」

角奈緒子(広島市現代美術館)

2014年03月15日号

 アートスケープの記事執筆担当がまわってくるたびに、時間の経過の早いことを痛感させられる。このたびも然り。3月はいうまでもなく年度末の時期であり、さらに今年に関して言えば、私の勤務する広島市現代美術館では、指定管理者の再契約時期でもあり、普段に増して多忙を極めている。少々いいわけじみているが、そういうわけもありゆっくりと展覧会を見てまわる時間を確保するのが難しかった今回は、ちょうどよいタイミングで開催された、広島で活動を続ける作家の個展と、私がいま準備にいそしんでいる次回展覧会に関する思いを述べてみたい。

 広島ではすでにおなじみの、市内に残る被爆建物のひとつである旧日本銀行で開かれた、黒田大祐個展「ばんじいしころ」を紹介したい。黒田は昨年、広島市立大学大学院博士課程を終了し、広島を拠点に作家として活動を続けている。彼が博論で取り上げたのは、大正期から昭和前期にかけて日本美術院彫刻部に属し、彫刻家として活躍した橋本平八(1897-1935)である。論文では、彫刻家としては当時異色と目された平八の作品《石に就て》とその制作に至った独自の概念「仙」とを再考したとのことだが、この個展は、黒田が作家および研究者として現時点での総括として開いたようだ。平八の作品に衝撃を受け彫刻を志し、以降少なからず影響を受けてきた自身との関係を整理したうえで、いわば一区切りをつけるべく、平八の思想から得た彫刻に対する黒田自身の姿勢の表明と、広島という都市にいる限りどこかで意識せざるをえない「ヒロシマ」を作品で表現する試みであることが伺えた。橋本平八による木彫の「石」に魅了された黒田の作品は、個展のタイトル通りすべて「石」に関連した作品であった。「人間の知覚を超えて物理的に動いている自然の力」を「仙」と解釈し、自然が流動する力の結果として見出された「石」を木彫で表わした平八の思想を借りて、これまでにも「ヒロシマ」をテーマに制作に取り組んできた黒田は、今回も作品でヒロシマを語る方法を模索している。その方法とは、広島の歴史を人ではない主体(=「石」)の視点で語ろうする試みとでもいえようか。その主体は、絶えず自然の流動の力を受けることで、山、岩、石……と姿を変えながら、広島の長い歴史を見てきたかもしれない「石」である。つねに「人」によって語られる歴史と、その歴史的記述が大きな力と根拠をもってしまうあり方に懐疑的な黒田が、頼るべきは人(だけの視点)ではなく、平八が自然に見出したような、より客観的な事実、または普遍的な法則のようななにかではないかと信じ、求めようとするその気持ちは理解できないでもない。しかしながらそれゆえに残念なのは、その探究の方向性と、その実現の場であるはずの作品の表現とが合致していないことである。例えば、映像作品《土石も亦彫刻と為すを得たり。石は土の上にあるとき仙あり因て土石といふ。卓上の石に非ざる也。土石も仙あるを得たるに於て名ありと云ふ可し。》では砂を人が演じ、石にインタビューを行なうという別の映像作品《広島の石に聞く》でも、石となって語るのはやはり人である。「モノ」に焦点をあて、「モノ」が語る体(てい)にはなっているものの、その実、主体はあくまでも「人」、結局のところ、「人」に捕われたままである。そこから抜け出さなければ、自身が納得いく表現へはなかなか至れないのではないだろうか。作品のテーマ選択における黒田の着眼点の鋭さを称えつつ、どのように表現に繋がっていくのか、今後の展開を楽しみにしたい。


黒田大祐《土石も亦彫刻と為すを得たり。石は土の上にあるとき仙あり因て土石といふ。卓上の石に非ざる也。土石も仙あるを得たるに於て名ありと云ふ可し。》
ビデオ、石、砂、2014年


黒田大祐《広島の石に聞く》
石、インタビュー音声、2014年


展示風景。黒田大祐《小さい日銀の時間空間》
タイヤチューブ、インクジェットプリント、木、モーター、カーテン、2014年

黒田大祐 個展「ばんじいしころ」

会期:2014年3月5日(水)〜2014年3月9日(日)
会場:旧日本銀行広島支店3階
広島県広島市中区袋町5-21/Tel. 082-504-2500

学芸員レポート

 ところで、唐突に聞こえるかもしれないが、現代美術は難解である。そう感じる要因は、受け手である鑑賞者にも、また送り手である作家にもありうるだろう。とはいえ、目の前の作品と対峙し、なんだか気になるがなにを表わしているのか判然としない、その判然としない理由はなにか、どこに理解へのルートの断絶があるのかなど、さまざまに思索すること、そこに芸術鑑賞の極意がある。しかしながら相も変わらず、「現代美術はわからない」という紋切り型のコメントが、多くの場合は一般の人から、たまに美術関係者すらからも聞こえてくる。こうしたコメントを耳にするたび、残念な気持ちを覚えずにはいられないと同時に、「では、何ならわかるんですか?」と聞き返したい意地悪な気持ちも沸き上がる。「現代美術は嫌いだ」と言われるのであれば、少なくとも好き嫌いの判断が下されたことになるので理解できなくもないが、「わからない」と一蹴してしまおうとする姿勢にはまず誠意が感じられない。もちろん、さまざま考えを巡らせた末に到達した「わからない」という結論であることもありうるが、往々にして主語が「現代美術は」の場合、そうではないような気がしてならない。学芸員ならば誰しもたちどころに現代美術がわかると思われているのだろうか。こう明言するのは憚るべきかもしれないが、そんなわけはない(少なくとも私は)。とはいえそれでも生業として、芸術作品と対峙し、なんだか気になるその理由を探ろうとし、作品の意図を理解しようと努め、さらにわかったことを言葉に置き換え、その意味や存在意義を伝えようとする。では、仕事という理由がなければ、人は芸術作品を目の前に、なにかを「感じ」「思索し」「理解しようと試みる」という一連の行為を放棄してしまってよいものなのか。そこでわからないと拒絶するのは簡単だが、物事の道理だけでなく、自身のもつ(自身でも気づいていないかもしれない)感性をも動員し、自分を省みることをも可能にする、そうした経験をもたらすものこそが芸術である。現代美術を含む、自分の解釈を越えたある意味「異質な」対象である作品と対面した人が取る行動、対応の仕方は、人としての器の大きさをも物語る。
 なぜこんなことをいまさら、しかもあらめてこうした場で言うのかと思われるかもしれない。ひとつは先述のような残念なコメントを耳にする機会が多く、半ば「耳にたこ」状態で辟易しているということから。もうひとつは、作品におけるコンセプトの比重が高く、外観から瞬間的に感性による判断が下しにくいと思われがちで、自分の理解の域を越えた作品と出逢う確率が比較的高い現代美術への入口として、「美」という主観的な概念をテーマに設定した展覧会を準備中だからである。美の諸相を提示する「スリーピング・ビューティー」展では、作品の深奥に潜む美を、自身の感性をとおして見出すことを目的とする。作品を目の前にし、それを美しいと感じるか否か、なぜそう感じるのか、自身と対話しながら現代美術鑑賞を楽しむ機会として欲しいと願っている。

スリーピング・ビューティー

会期:2014年5月17日(土)〜7月21日(月・祝)
会場:広島市現代美術館m_00000873
広島県広島市南区比治山公園1-1/Tel. 082-264-1121

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