キュレーターズノート
「ヤンキー人類学」、「国立国際美術館コレクション 美術の冒険」、「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」準備中
角奈緒子(広島市現代美術館)
2014年06月15日号
対象美術館
6月初旬、広島では街中の目抜き通りに夜店が立ち並ぶ、大きな夏祭りが開催される。今年も早いことにそのお祭りの時期を迎え、過ぎてしまった。浴衣で出向くことが恒例のこの夏祭り、色とりどりの浴衣が印象的なのだが、かつてはもうひとつ別にたいへん印象的な見物があった。特攻服で身を固めたヤンキーたちである。気にはなるけれどもあまり凝視するのも憚られ、なんとなく横目でチラチラと窺っていただけだが、彼らはどこからともなく集まってきて、連合(というのだろうか)同士が豪華な衣装を披露しあっている様子であった。ヤンキーとまるでセットであるかのように警察も出動し、なにやら物々しい雰囲気だったことも覚えている。
そんな「ヤンキー」に焦点をあてた展覧会「ヤンキー人類学」が、「鞆の津ミュージアム」で開催されている。この美術館は、専門的な美術教育を受けていない人々による「アウトサイダー・アート」に焦点をあて、いわゆる狭義のアートに留まらないさまざまな背景をもつ人たちによる創作の一端を紹介している。
「ヤンキー」という言葉からみなさんはどういう印象を受けるだろうか。リーゼント、変形学生服、特攻服、改造車などを生み出した若者たち「ヤンキー」が街中を闊歩し、世間を賑わせたのは少し前の時代のこと。彼らの装いや言動が理解しがたくどんなに悪趣味であろうとも、ヤンキーという存在がひとつの社会現象であり、「流行」と見なされていたのが一時代まえのことだとすると、全盛期も過ぎ去り、もはや取り立てて騒がれることもなくなったいま、相変わらず異端ではあるものの、ヤンキー的なるものはいまや定番化し、ともすれば「自分はヤンキーではない(=普通である)」と思い込んでいる人の中にも浸透してしまっているかもしれない。精神科医の斎藤環氏は、「気合い主義」や「反知性主義」といった性質をもつ「ヤンキー文化のエッセンス」がいまやかつてないほど広く拡散していると指摘し、ヤンキーを一部の少年少女たちの「不良文化」にとどまらない現象として、六つの特徴を挙げながら分析する(「バッドセンス」「キャラとコミュニケーション」「アゲアゲのノリと気合い」「リアリズムとロマンティシズム」「角栄的リアリズム」「ポエムな美意識と女性性」/『ヤンキー化する日本』より)。「ヤンキー人類学」展は、こうした「ヤンキー」をテーマに、「超精巧なデコトラのミニチュア、デコチャリ、ブチ上げ改造単車、ド派手な成人式の衣装、金色の折り紙を使った『黄金』の茶室、相田みつをの書など、自らを表現せずにはいられないその精神から生み出される自由で生命力に満ちた表現」(展覧会チラシより引用)を紹介しようというものである。筆者が訪れた日は、都築響一氏と上野友行氏の対談開催日だったこともあるのか、いつもに増して多くの来館者で賑わっていた。
盛り髪、パチンコ台(『ビー・バップ・ハイスクール』がテーマだったと記憶している)、名キャッチコピーとともにストリートファッションを紹介する雑誌(『メンズナックル』)、成人式を迎える若手ヤンキー御用達となっている成人式用コスチューム(みやび小倉本店/レンタル衣装店)、ヤンキーやその筋の方々が好まれるお召し物やアイテム(「バースジャパン」/アウトローショップ)、子どものころ出合ったデコチャリに魅せられ、独学によって制作するデコチャリ(丸尾龍一)、暴走族時代の思い出のグッズ(梶正顕/暴走族の元ストッパー)、ポスカを使って自分たちで作り上げ、素人によるブリコラージュ的なかわいらしさも感じられるブチ上げ改造単車(ちっご共道組合/旧車會グループ)、ネットや雑誌から得られるデコトラの写真などをもとに、精巧に再現されたミニチュア・デコトラ(伊藤輝政)、数々のライトやハローキティで装飾された軽トラのデコトラ(常勝丸船団/アートトラックチーム)、地下格闘技団体「漢塾(おとこじゅく)」のユニフォームや写真(前田島純/「漢塾」塾長)、自宅の屋上に手づくりによる天守閣の築城を続ける城主による金の茶室(磯野健一)などが並ぶ展示室は、「とにかく派手」の一言。デコらずにはいられないというヤンキーたちの衝動と、そのマインドに共鳴、追従する人々による創作物の競演である。
一つひとつの造形は、その趣味に賛同できるかどうかはさておき、たいへん目を見はるものばかりである。そんななか、ひとり毛色が違いすぎていると感じたのは「相田みつを」の存在である。日本国民の多くが知る、相田みつをの詩がなぜ「ヤンキー」なのか。これは言うまでもなく視覚的な類似性ではなく、先述の斎藤氏の分析によるヤンキー的マインドのひとつ「ポエムな美意識と女性性」が解釈の鍵となる。ヤンキー文化は、「ホンネ」「ありのまま」「現状肯定」を特徴とする相田みつをのポエムとの相性がよく、「ポエムは情感を盛り上げ、気合いをもたらし、自らの正当性を信じさせてくれ(…中略…)、知識や論理とは無関係に、依拠すべき肯定的感情をもたらしてくれる」(前掲書より)という、斎藤氏による分析を知らないで見ると、相田みつをの詩はこの空間で完全に浮いてしまう。ここで今一度、会場での展示内容について(私なりに)整理してみると、以下の4点に分類できる。
(1)身も心も筋金入りのヤンキーである/あった人々とその愛蔵品または愛用品
(2)ヤンキーの精神や真髄ではなく、デコによる見た目の派手さやきらびやかさに魅了され、自らの手で創作せずにはいられない人々とその創作物(丸尾龍一、伊藤輝政、磯野健一)
(3)ヤンキー文化を象徴するモノ・商品(盛り髪、坂本龍馬グッズ、デコ電など)
(4)ヤンキー文化と親和性の高いポエム(相田みつを、『雑誌メンズナックル』のキャッチコピー)
このように「人物、モノ、現象」が混在していることに気づく。展示物としては(1)に当てはまる品々が圧倒的多数を占め、会場を賑わしているわけだが、(2)に該当する人々、つまり、ヤンキーという出自ではなく、自らの制作意欲を満たすためになにかを生み出さずにはいられない表現者たちも一緒くたにされている点におさまりの悪さを感じた。独自の美学をもち、視覚的なスタイルを構築し発展させてきたヤンキーたちも、広くとらえればアウトサイダー的表現者と言えなくはない。そして、その「ヤンキー」を展覧会のテーマとして掲げ、魅力ある展示を実現させたことに対しても敬意を表したい。それゆえに、その筋で伝説的な人物や団体の紹介や、表現における類似性を提示するに留まるのではなく、なぜそうした表現を目指すのか、その根底に流れるマインドとはなんなのかというところまで、鑑賞者に考察を促すような展示方法──人物や団体ありきで分類・章立てするのではなく、例えば、斎藤氏が先述の著書で行なっているように、「ヤンキー文化」の特徴から導かれるキーワードなどをフレームとして、展示物を再構成するなど──も可能だったのではないかと悔やまれる。とはいえこの「ヤンキー人類学」展、細かいことにとらわれず、とにかく気合いでブチ上げて盛り上げていこうぜ、というヤンキー的気質があったからこそ実現されているということは十分に伝わってくる。
ヤンキー人類学
ところ変わって新潟。先日、私用で訪れた新潟市にて、県立万代島美術館で開催中の「国立国際美術館コレクション 美術の冒険」展を鑑賞してきた。いきなり正直ベースで白状すると、「大阪で見られる作品なんでしょ」という思いがよぎりはしたものの、国立国際美術館ではない別の空間でそれらがどんなふうに見えるのか、また、どのような切り口で作品を見せているのかという点に関心があったので、見てみることにした。見た印象はごく端的に、国立国際美術館は素晴らしい作品をたくさん所蔵しているなということ。なお、国立国際美術館が誇る名品を紹介するにあたり今回用意されたテーマは、「美術とはなにか」という、美術(または美術館)入門者にとっては美術に親しむきっかけとなるような、基本的な問いかけであった。なんという配慮!
ところで、この展覧会に限ったことではないが、「○○コレクション展」と掲げた展覧会に、抵抗を覚えるとまではいわないまでも、ちょっとした疑念を抱いてしまうのはなぜだろう。学芸員という職業柄なのか、はたまた何事に対しても穿った見方をしがちな筆者のねじ曲がった性格という個人的な問題なのか。もちろん、すべての「○○コレクション展」を十把一絡げにとらえてしまうのはよろしくないということは承知している。しかしながら「○○コレクション展」に出くわすと、その展覧会の開催意義をいつも以上に探らずにはいられない。遠く離れた海外の名だたる美術館の名品を国内で見られること? 通常は公開されていない秘蔵コレクションを特別に見られること? そうかもしれないけれども、どうも腑に落ちない。その理由は自分でもはっきりわからないが、ぼんやりとではあるが感じるのは、大都市では見られるけれど、地方(または日本という僻地)ではなかなか見られないだろうから、名品をお見せする機会をつくりましょうという啓蒙思想の匂いが漂う前時代的な発想と、それをいまなおありがたく受け入れる美術館の姿勢への疑問ではないかと思う。
国立国際美術館コレクション 美術の冒険──セザンヌ、ピカソから草間彌生、奈良美智まで
学芸員レポート
「○○コレクション展」といえば、6月20日より東京国立近代美術館にて「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展──ヤゲオ財団コレクションより」が開催される。そう、筆者が思わず身構えてしまう「○○コレクション展」であるが、広島市現代美術館も巡回館のひとつとして、たいへんささやかながら準備に携わっている。ヤゲオ財団とは、台湾資本の電子部品メーカーのCEOが中心となって創立した非営利の組織で、中国の近現代美術、欧米の現代美術を中心にコレクションしている。けっして作品を秘蔵しているわけではなく、コレクションの一部を美術館に寄託したり、さまざまな展覧会に貸出たりして公開しているものの、ある程度の点数がまとめて見られるのは初の機会となる。この展覧会は、現代美術の核心(ハードコア)ともいえる作品が、私たちが考えている以上に「世界の宝」であるということを二つの視点──ひとつは、感性的な面や美術史的な視点、もうひとつはオークションの落札価格が紙面を騒がすという事実が端的に示すように経済的な視点──から確認しようとするものである。
ヤゲオ財団コレクションの出発点であると同時に特徴でもある中国・台湾の近代美術だけでなく、アンディ・ウォーホル、ゲルハルト・リヒター、アンドレアス・グルスキー、蔡國強、ピーター・ドイグ、マーク・クインといった現代美術のスーパースターたちの作品を、「ミューズ」「崇高」「記憶」「新しい美」といったキーワードによって、ある意味オーソドックスな見方を提案するだけでなく、いまや価格が高騰し、とくに日本の国公立美術館では所蔵することすら難しい名だたる現代作家たちのコレクションが、一コレクターによって構築されているという事実に基づき、とかく「芸術」を語るうえでは回避される「価格」や「経済的価値」といった、やや挑戦的な視点からも紹介する。どちらの見方で作品を堪能するか、鑑賞者からの反応も楽しみである。