キュレーターズノート
ハルカヤマ藝術要塞探訪
岩﨑直人(札幌芸術の森美術館)
2015年11月01日号
対象美術館
北海道在住の立体作家らが主導した野外美術展「ハルカヤマ藝術要塞」が札幌の西隣り、小樽市春香町で開催された。2011年、2013年に続き、今年で3回目を数える。だいたい、夏の最中に現地制作、設置が行なわれ、秋に公開されている。初回は55組(56人)、第2回は65組(67人)、第3回は63組(64人)が作品を展示発表した。
9月某日。その日は午前のみ出勤の日。時計の針が頂点に揃ったとき、そそくさと帰り支度をし、札幌の南の端っこゲイモリ(札幌芸術の森美術館)から、テラコッタオレンジのベリーサに乗り込み、「ハルカヤマ藝術要塞」へ向け、いざ出発。ここから北西、小樽方面へと向かうときは、交通量の多い札幌市街の幹線道路を避け、西の山道、盤渓を経由することに決めている私。冬となれば話は別だ。凍てつく季節は除雪のゆき届いた街中の平地を問答無用で選択する。非四駆車での雪道はなにせ心許ない。車の運転は得意だし、好きなほうだが、前愛車四駆のラシーンフォルザ(ラシーンの亜種、色はやはりオレンジ)なら平気で乗り込めた新雪や砂浜も現愛車ベリーサではとても突っ込めない。そんな場所ではたちまちに立ち往生してしまうその非力さを身をもって知って以降、無茶はしないことにしている。車をお持ちでない方がハルカヤマ藝術要塞へ向かうには公共交通機関を利用することとなるが、これがなかなかに交通の便がよい。札幌最西端の地下鉄駅「宮の沢」、あるいはJR駅「手稲」からは一時間に一本のペースでバスが出ている。バス停「春香」で降りれば会場はすぐそこだ。札幌を抜け、会場最寄りのJR駅「銭函」(小樽市)まで突っ込むという手もある。ただ、もっとも近い距離にある駅とはいえ、会場まではまだ3キロくらいの距離があるから徒歩での移動はおすすめしない。私の足ならおよそ30分間を要する。ハルカヤマ藝術要塞においてもひたすら歩くことを考えれば、体力をできるだけ温存しておきたいところだ。
さて、その日はどこまでも薄く延びる曇天。できることなら、海の見える景色では澄み渡る青空の下、爽快ドライブを楽しみたいものだが、まあ、雨が降っていないだけでもよしとしよう。かつて開催された2011年、2013年のハルカヤマ藝術要塞を知っている私からすれば、ここを訪れる折り、雨天だけは避けたかった。なにせそこは山野だ。ひとたび雨降れば、地表面は想像を絶するぬかるみをいやというほど体験させてくれる。雨じゃなくたって長靴くらいは携えるべきところだ。会場での貸し出しも行なっているが、私はマイ長靴を携行する。バックミラーにはつまさき揃えて鎮座する、黄と黒で彩られた新品のゴム長靴がいまかいまかと出番を待つ。後部座席からはそれをなだめすかすように微笑む私がバックミラーに映っていたことだろう。虫除けスプレー、あるいは腰にさげる携帯蚊取り線香もまた必須アイテムだ。あまり好き嫌いなく育ってきた私であっても蚊は率直なところ大嫌いである。容易にストレスを与えてくれるその力にはほとほと脱帽する。そうそう、帽子もあったほうがいいかもしれない。私は、フード付きのパーカーを選択した。首元を狙ってやってくる蚊を防ぐにはこれがじつに奏功し、己の準備万端ぶりをのちに絶賛することとなる。
ところで、目標の地、ハルカヤマ藝術要塞は、石狩湾岸沿いに這う国道5号線から入ってすぐのところを会場とするから、じつは、「ヤマ」と名付くも分け入るほど山奥にはない。名の由来である春香山は標高900メートルもある。その裾野だ。とはいえ、しっかりと山林野である。現在、そこは個人所有の土地であり、かつてはその一画で観光ホテルが営まれていた。なんと北海道を代表する彫刻家本郷新も別の区画に自身のアトリエを構えていた。いずれもいまでは立派な廃墟と化し、30年余りの歳月をかけて森がこれらを呑み込んでいる。縁あって小樽市銭函在住の彫刻家渡辺行夫(1950- )氏が自身の作品をここに制作、展示し、のちに周囲にも呼びかけたことから発展し、現在にいたる。ハルカヤマ藝術要塞という体を成してからは、今回で3回目を数え、63組の作家による作品が9,000坪の山野に展開されている。半日ではすべてを見切れないかもしれない。そう思うと気が急くが、安全運転を第一に心がける。小樽市に入ってまもなく、白地に赤い文字「ハルカヤマ藝術要塞」の細長い看板が目に入る。およそ1時間で到着だ。砂利の小道を上り、受付小屋をかすめてすぐの駐車場に車を停める。指定の駐車場は全部で四つ設けられていて、あわせると50台くらいは収容可能だ。現に、この日も多くの車で駐車場が埋まっていた。回を重ね、積み上げられた関心の高さがうかがわれる。
車を降り、長靴に履き替え、パーカーを羽織る。フードはまだ被らない。虫除けスプレーを全身に入念に振りかけ、一眼レフカメラを首に提げる。レンズのキャップを外し、ポケットにしまう。さぁ、臨戦態勢整った。準備が完璧だとほどよい高揚、緊張を覚えるものである。まずは、要塞の心臓部、「仮者小屋(けものごや)」へと突入だ。途中、かつて開催された折りの作品がそのまま残された常設展示作品や目新しい本展出品作がいくつか目に入ったが、惑わされてはいけない。本陣には、どこに誰の作品が展示されているという情報が細かく記された地図が配布されているはずだ。これを入手することで、くまなく、漏れなくこの展覧会を楽しめる。脇目も振らずに歩を進める。人だかりが見えてきた。仮者小屋だ。おや? 小麦粉の焼けるよい香りがする。小屋のそばの石窯からは煙が立ちこめる。張られたタープテントの下や周辺ではたくさんの人が談笑しながら焼きたてのピザを美味しそうにほおばっていた。顔見知りの作家たちに挨拶を交わし、勧められるままにタープテントの下に設けられたテーブルに着く。ささ、と差し出されたピザ。小屋は調理場と化していた。調理するのは、近隣にお住まいの協力者。具材もほとんどその皆さまの畑で採れた野菜たち。自家製のベーコンも盛られている。遣り場のない刀を鞘にしまうような気分で、カメラのレンズにそっとキャップをする私。舌鼓を打ちながら、前回つくられたツリーテラスとは別に目に入ったツリーハウスは今回のためにつくられたもので、それが美術家によるものではないことを知ったり、熱いハートの作家と美術の現況について熱のこもった持論を語りあったり、バードウォッチングがご趣味の作家夫婦の鳥話に興味深く耳を傾けたりと楽しく時は過ぎていく。歓談中、ピザ生地に果実と甘いソースをからめたデザート風のものが出てきたときには舌を巻いた。そしてまた話に花が咲く。はたと周辺を見渡すと、あんなにたくさんいた人がいつの間にやらまばらだ。石窯の熱も冷め、調理器具を片付ける金属音がせわしく響く。薄雲の向こうにありながらも陽がとうに傾いていることを知る。なんと、今日は閉場。ほとんど汚れていない長靴を脱ぎ、スニーカーに履き替え、帰途につく。また、同じように準備万端整えて、ここに来ればよい。人と人とが多様に編み込まれるその姿こそがこのハルカヤマ藝術要塞の魅力でもあるのだ。
それから1週間後に再訪。63組によるすべての作品を通覧した。北海道に根ざしつつ、さまざまな表現を試みる美術家たちによって繰り広げられる野外美術の祭典、ハルカヤマ藝術要塞。標榜するは「山を遊ぶ、アートで遊ぶ」。ある者は場にとらわれることなく巧みな技をもって純粋なる美を打ち立て、またある者は場より抽出せしめたエッセンスを形にする。過去を必死にたぐり寄せようとする者。未来が明るいものでありますようにと願いを込める者。その地に深い精神性を植え付ける者もあれば、遊び戯れているうちにその地から新たな可能性や魅力を引き出す者もある。表現、手法はじつにさまざま。しかし、ほとんどの作家に通底しているのは、その場に詫び申しつつ、また感謝申しつつ、そっと作品を差し込んでいる様子が垣間見られることだ。無遠慮に無配慮にこの場をかき回しているようには見えにくい。私は、ここに都市のはじまり、まちづくりの原初形態を見た。同士手を携え、自然との境界線の押し引きを繰り返しながら土地を拓き、あらかた整地を終えたのち、次に個々が己の場を見出し、拠を構える。次第に誰もが認める首長が定まり、ブレインがこれを補佐し、実行部隊が形成される。場とコミュニティの誕生。その次に生まれる大事なものは祭りだ。皆がその地に感謝し、自然を畏敬し、もたらされる恵みを喜ぶ。こうした一連の動きは、自然と関わりながら人が生を営むもっとも根幹的なものではないだろうか。ハルカヤマ藝術要塞がいつも多くの来場者を数え、いつも社会的関心が高いのは、表面的には美術展であっても、「まちづくり」の根源的な姿、すなわち自然との折り合い、人との折り合い、そして土地の神を祭って平和を祈る、そんな渾然となった姿が映し出されているところもその理由のひとつに挙げられそうだ。
今回は初めての試みとして韓国の作家が12名、招待出品されている。ついにこの“まち”は他国との国交も樹立したのである。