キュレーターズノート

「コンニチハ技術トシテノ美術」展

伊藤匡(福島県立美術館)

2018年02月01日号

東北地方では、冬場には大規模な展覧会が企画されることは少ない。雪と寒さのため、人の動きが少なくなるからだ。あえてこの時期に自主企画展を開いているのが、せんだいメディアテークである。貸しギャラリー事業も行なっている同館では、自主事業を開催できる時期が冬場しかないという事情もあるようだ。背景には、仙台市が東北の中では比較的雪が少ないことや、地下鉄などの公共交通機関もあり、冬場でも人が動きやすいこと、学生など若者の人口が比較的多いことなどの立地条件もある。ただ、以前は正月をはさんで開催されていたのだが、今回は会期が年末までと縮小されたのは残念である。

「積極的にさまようための術と活力」


さて、同館で昨年末に開催された『コンニチハ技術トシテノ美術』は、難解だが興味深い展覧会である。

最初に展示の概要を説明すると、本展は5人の作家、高嶺格、飯山由貴、井上亜美、青野文昭、門馬美喜の作品を展示している。高嶺作品は半透明のビニール・カーテンで、会場内で他の出品作家の展示を仕切る壁となっている。カーテンには、横積みした本の背表紙のコピーが貼り付けてある。飯山は、作者の家族が童話の登場人物の着ぐるみを着て海辺に行く様子を映像にした作品などを出品している。井上は、狩猟をしていた祖父の家と、京都の猟師小屋を再現展示する。青野は「なおす」をコンセプトに、廃棄されたり放置されたりした物を補修して並べたインスタレーションである。本やプラスチック容器のような小さな物から、自動車やクローゼットなどの大きな物まで、約70もの物体が林立するさまは、物の墓標のようにも見える。門馬は、故郷の福島県相馬市の祭「野馬追」の起源を絵解きした大画面の水墨画連作と、東日本大震災後の仙台、相馬、東京間の風景の移り変わりを、高速バスなどの車窓からの視点で描いた油彩画の連作を展示する。



高嶺格《Now I can see you, still you》



左:飯山由貴《あなたの本当の家を探しにいく / 海の観音さまに会いにいく》
右:井上亜美《京都の猟師小屋》



左:青野文昭《なおす・それぞれの欠片から──無縁の声・森のはじまり──1997〜2017》
右:門馬美喜《Route / 78ヶ月 東京─相馬─仙台》


デモクラシーをアートから提示する試み


本展のおもしろさは、展覧会名に現われている。ここには、多義的なメッセージが込められているようだ。同館での展覧会名に「美術」という言葉が使われるのは、本展が初めてだそうである。周知のように、美術と技術はどちらも"ars"を語源とする言葉だ。本展における「美術」は、ファインアートのことではなく、技術とつながる言葉として捉えられている。しかも、「コンニチハ」(タイトルの英訳では、"nice to meet you")と、まるで親戚なのに初対面のあいさつをするようなものだ。これは放蕩息子の帰還のように、長く別々の道を歩んできた二つの言葉が、時を経て再度出会うということなのか。


パンフレット『コンニチハ技術トシテノ美術』


本展のパンフレットには、「困難を抱えた社会のなかを積極的にさまようための術と活力をつたえよう」という一文がある。震災のような災厄を乗り越え、これからの時代のサバイバルのための技術を、各アーティストが作品によって提示する展覧会という解釈は成り立つのか。

展示を見ても、答えはなかなか見えてこない。それゆえ、難解で取っつきにくい。本展はせんだいメディアテークの独自企画だが、仙台で2011年の東日本大震災の後からアートと地域をつなぐ活動を続けている長内綾子、細谷修平の両氏が企画に参加している。本展の『ハンドブック』という30ページほどの小冊子に、本展を企画したメディアテークの清水建人学芸員、長内綾子、細谷修平の三氏による座談会を採録していて、本展の成り立ちや企画者側の意図を知ることができる。これがおもしろい。

この座談会によれば、企画の出発点は二つあった。ひとつは、東日本大震災以後の活動の中間総括。もうひとつは、近年世界の政治・社会が、不寛容、暴力、独裁など悲観的な情況が目立つなかで、いまデモクラシーの役割と有効性を問うこと。これをアートを通して見ていく。「アート」と「デモクラシー」をパラレルに見るための、両者をつなぐ言葉として「技術」に辿りつき、さらには「美術家の技術」という方向性が見えてきたという。本展では、メディアテークが続けている「3がつ11にちをわすれないためにセンター(わすれン!)」などの市民メディアや、来場者が発言する広場のような、技術の民主化や共有化の方向ではなく、一作家の共有不可能な技術とその身体化や深化を提示することをめざしているのだ。

この企画を生み出した原動力は、現今の政治社会や、アートを取り巻く状況に対する企画者たちの不満や違和感なのだろう。例えば、現今の展覧会はつくり手に制作の必然性や批評性が感じられず、受け手の側も楽しめたか否かだけが基準になっていることへの不満である。2000年代以降各地で乱立するビエンナーレなどの芸術祭では、知名度の高いアーティストが呼ばれて、話題になった作品の類似品を出すなど、皆が知っているアートのモニュメントが展示される。作品の大部分は、インストーラーと呼ばれる木工や設営に長けた人たちに外注する。展覧会も個々の展示行為も、その時限りの経済活動としてパターン化している。

この指摘には全く同感だ。芸術祭のみならず、東日本大震災後のさまざまなプロジェクトにも同様の傾向が見られる。さらに、震災から7年が経ち、世間の関心と政治、経済界の注目が震災復興から2020年のオリンピック、パラリンピックに移っているが、その関連のアート・イベントもまた同じ構図で、有名アーティストや企画者が名を連ねている。これでは、看板を掛け替えているだけで、演しものは大差ないのではないか。お声がかかれば、掛け持ちだろうが二股になろうが構わず引き受け、お題に合わせて適当にアレンジする作家たちの側にも、矜持を求めたい。アート・イベント事業を受託して実施する広告代理店等が、同じような人選を続けることにも問題があり、事業を丸投げする自治体等の企画者側も無責任である。

ただし、このような企画者たちの意図が、展示を見てどこまで読み取れるだろうか。5人の作家が各々どのように「技術」と関わっているのか、あるいは企画者はどのような意図でこの5人を選んだのだろうか、などの問いに対して、納得できる答えが見つかるかという点が気になる。

前述のハンドブックには、出品作家への質疑応答も掲載されている。「関心を持っている技術」という質問に、各作家がどう答えているか。「封印され、忘却された技術」(青野)、「糸を紡ぐ技術、生殖補助医療ART」(飯山)、「狩猟の技術」(井上)、「北九州監禁殺人事件における支配と服従」(高嶺)、「言葉や写真や映像では残せないものをかたちに残すための技術」(門馬) と、各人各様である。どうも「技術」という言葉への思い入れについて、企画者側との間にギャップが感じられる。この展覧会のタイトルは、企画者たちと出品作家たちが長時間議論の末に、皆が納得して決められたようなのだが、鑑賞者としては、置いてきぼりをくった印象を受ける。とはいえ、デモクラシーを、アートを通して展覧会の形式で提示するという意欲的な試みは、まだまだ掘り下げる余地がありそうである。

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「コンニチハ技術トシテノ美術」展

会期:2017年11月3日(金・祝)〜12月24日(日)
会場:せんだいメディアテーク
宮城県仙台市青葉区春日町2-1/Tel. 022-713-4483(企画・活動支援室)

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