2019年09月15日号
次回10月1日更新予定

キュレーターズノート

リニューアルオープンした広島平和記念資料館

角奈緒子(広島市現代美術館)

2019年09月01日号

今年の4月末、広島平和記念資料館本館の改修工事が完了し、先に改修工事を済ませていた東館と合わせて、その展示の全貌が明らかとなった。新聞紙面、ネット等、すでに各所で記事にもなっているため出遅れた感は否めないが、筆者もようやく先日訪問の機会をもてたので、今回のレポートでは「平和記念資料館」を取り上げてみようと思う。



本館入口 被爆少女の写真[撮影:筆者]


平和を創り出すための工場としての「広島ピースセンター」


1949年に制定された「広島平和記念都市建設法」に基づき、広島市は「平和記念公園および記念館」の競技設計を発表した。コンペは、当時東大助教授だった丹下健三のグループ★1による案が1等入選を果たす。丹下は当初、旧中島町(現在の平和記念公園周辺)に官公庁を集中させる案を提案していたが、その案は否決され、公園化が決まった。ちなみに丹下は「有機的な統一のあるコミュニティの新しい建設でなければならない。(中略)その中心施設の建設が、市民生活の再建と歩調を共にすべきである」という考えの下、当初は、平和記念公園だけでなく、児童センター、体育館や各種競技場、野外劇場などの施設、そして、広島城本丸跡には美術館を構想していた。

当時のプランによると、平和公園には一際目立つ大アーチがあったが、この大アーチが「原爆死没者慰霊碑」に替わった以外、現在公園内に建つ施設の基本的な配置は、当時の設計案が踏襲されている。丹下によるプランの最大の魅力はなんといっても、公園を貫く軸線を設定したことだろう。平和大通りと直行するこの軸線は、壮麗な柱によって持ち上げられた記念碑の下の広場として機能するピロティから、埴輪に着想を得たという原爆死没者慰霊碑、そしてその向こうに「ヒロシマ」のシンボルのひとつとなっていく原爆ドームを一直線上に据える(ちなみに現在はまだ、本館の外周りの工事が続いており、目隠しの囲いが立っているため、このように軸線上に捉えることはできない)。

「広島平和会館原爆記念陳列館」は、1955年に開館する。丹下の言う、平和を創り出すための「実践的な機能」をもった工場と、平和を祈念する「精神的な象徴」の調和を試みた、この一帯のプランによって、世界に向けて平和を発信していく使命を担う広島に、その絶好の場が用意された。

なお、1994年には「平和記念館」を改築し、「平和記念資料館東館」として開館する。2006年には、本館が戦後の建築物としては初めての重要文化財に指定された(ちなみに、同じく広島市内にある村野藤吾による「世界平和記念聖堂」(1954年に完成)も同時期に重文に指定。2016年から耐震補強工事が始まり、今秋完成予定である)。東館は2014年から休館、改修工事に取り掛かり、2017年にリニューアルオープン。入れ替わるようにして本館が休館、改修に入り、今年の4月末に再開する。


リニューアルした展示の流れ


1955年の開館以来、展示内容は過去に二度ほど変更されている。一度目は1975年、初の大規模改修に伴って内容を一新、二度目は1991年の大改修を機に大型模型や映像機器による展示が採択され、今回は三度目という。

まずは、最新の展示内容を概観してみたい。東館1階から入り、チケットを買ってエスカレーターで3階へ。そこは「導入展示」のセクションであり、広島を表わした白い地形模型に、原爆投下前から投下、そして投下直後の様子を伝える映像を映し出す「ホワイトパノラマ」に出迎えられる。被爆後の荒廃した広島を撮影したパノラマ写真は、湾曲した壁面いっぱいに引き伸ばされ、鑑賞者が焼け野原のなかに立っているかのように感じられる工夫が施される。ここでは基本的に、複製写真、映像、模型といった資料でヒロシマが紹介される。



焼け野原と化した広島[撮影:筆者]

そこから渡り廊下を渡って本館へ移動し、「被爆の実相」と題された一連の展示が続く。展示室の入口では、原爆によって負傷した痛々しい姿のひとりの少女の写真が鑑賞者を出迎える。その次に目に飛び込んでくるのは、やはり壁いっぱいに引き伸ばされ、迫力に満ちたキノコ雲の写真。細い通路を抜けた先には、「8月6日の惨状」というサブタイトルのもと、爆風で曲がった建物の鉄骨や煙突、被爆衣服や、被爆した場所から移築された、人影が残る石(階段)が並ぶ。続くセクション「放射線による被害」では、頭髪が抜けた幼い姉弟を捉えた写真や、放射線被害によって苦しみながら亡くなっていった家族を描いた絵、被爆した娘の体温を記録したグラフ用紙などを通じて、放射線の脅威を伝える。そして、「魂の叫び」では被爆資料、すなわち、原爆で亡くなった人たちがそのとき身につけていた遺品や、それらを大事に保管し、資料館に寄贈した遺族の言葉が紹介される。ここでは、リニューアル以前から展示されていた「三輪車」、「三人の中学生の遺品」のほか、今回新たに常設展示に加わることとなった「市民が描いた原爆の絵」も並ぶ。これまでは、基本的に特別展示や書籍でしか見ることのできなかった「原爆の絵」が、ヒロシマを証言し得る貴重な資料として昇格している。「外国人被爆者」の声を紹介する部分も設けられていた。続く「生きる」では、原爆に翻弄された家族と、少女に焦点をあてた二つの年表──ひとつは「N家の崩壊」、もうひとつは「佐々木禎子★2さんの生涯」──が印象に残る。



ギャラリーからの眺め[撮影:筆者]


被爆資料保存の観点から(だと思いたい)、照度をかなり落とした展示室内は大変暗い。長い暗闇を抜けると、それまでとは対照的に、外光が降り注ぐ「ギャラリー」に出る。ようやく明るい光に照らされ、窓の外に広がる、青々とした木々やみずみずしく繁った地面の芝生など、穏やかな風景に救いを得たような気持ちになるが、それもつかの間。かつてここにあった、人々の豊かな日常の営みを思い、そして原爆投下による阿鼻叫喚の光景が、嫌が応にもオーバーラップすることで、再び気が滅入ってくる。気を取り直し、慰霊碑と原爆ドームが一直線上に並ぶことを確認しながら、奥にまっすぐ進んでいくと、本館入口で出迎えてくれた、被爆した「少女」が美しい「大人の女性」になった姿で再登場する。鑑賞者は、彼女が結婚・出産を経て、若くして亡くなったことを知り、人の幸せを残酷にも奪い去る、原爆の卑劣さを改めて噛みしめるような展示になっている。

再び渡り廊下を渡って、東館に戻る。「核兵器の危険性」と題された3階展示室では、原子爆弾開発の背景から投下の経緯、原子爆弾の仕組みや脅威、核時代に入った世界の動向から核兵器廃絶へ向けたさまざまな運動の流れを学習するための資料が展示される。さながら知識が湧き出る泉のような「メディアテーブル」(タッチパネル式モニターが仕込まれた巨大なテーブル)では、上述の展示で学んだ事柄を復習したり、見逃したポイントを再確認したりすることができる。そして階段で2階に降りると、今度は「広島の歩み」と題されたスペースで、かつて城下町として形成された広島が、いかにして軍都へとなっていったかを振り返る、戦前の広島の歴史、被爆後の都市復興の歩み、そして、行政や市民による、世界平和を訴えるさまざまな取り組みや各種運動の概要が、パネルや公文書を通じて解説される。3階同様、ここにも鑑賞者が自ら情報を補うことができる「メディアテーブル」が設置されている。

ざっとこういった流れだが、いわゆる「みどころ」はとにかく多く、全展示と全力で対峙し続けるのは正直とても困難である。



メディアテーブル[撮影:筆者]



ジオラマから「実物資料」の陳列へ


もう6年くらい前になるだろうか、資料館の展示刷新が発表されたとき、被爆直後の人間の姿を人形で表わした「被爆再現人形」の撤去に話題が集中したのを覚えている。焼けただれて皮膚が垂れ下がった腕を前に突き出して、がれきのなかをさまよう惨たらしい姿を再現した人形は、鑑賞者に強いインパクトを与えてきた。そのニュースを聞いたとき、瞬間的に「残念だな」と思ったこともよく覚えている。その時点から「なぜ、残念なのか」を自問し始めたが、今なお明確な(もしくは論理的な)理由を説明できる自信はまったくない。資料館が発表している、展示における整備方針★3では、「人間(被爆者)の視点から原爆の悲惨さを伝えるため、被爆者の遺品や被災写真、市民が描いた原爆の絵、被爆者証言映像など被爆の事実をストレートに伝える実物資料の展示を重視する」、「様々な被爆状況を示すため、より多くの被爆資料を展示する」などがうたわれる(下線は筆者による)。

ここで、資料館の起源を振り返ってみよう。もともとは、基町の中央公民館に設置された「原爆参考資料陳列室」がその起こりである。ここでは被爆後に集められた瓦や原爆によって溶融した塊などが展示されていたという。被爆したさまざまな物そのものが並べられていたことがわかる。このことを思えば、今回のリニューアルでは、ある意味、原点に立ち返ったと考えられるかもしれない。それではなぜ、原点に立ち返る必要があったのか。

ひとつには、展示手法の流行や傾向のなかで形成されてきた、展示のあり方、仕方そのものを、展示されるべき物ともども見直すことにしたのではないか、ということが考えられる。件の被爆再現人形と、焦土と化した広島の様子を再現した背景を伴ったジオラマは、73年に設置されたという(しかも91年には、最初のロウ人形からプラスチック人形へと作り替えられ、継続して展示された。なお、開館当初は、被爆衣服を着せたマネキン人形が設置されていた)。たんなる推測にすぎないが、博物館や資料館において、ロウや合成樹脂などを素材としたジオラマや再現模型が、視覚的な伝達手段として一定の市民権を得て、普及し始めたのが70年代頃だったのかもしれない。かつての展示物のなかに、訪れるたび私が必ず落胆させられるものがあった。資料館の外に、紛れもない実物資料である「原爆ドーム」があるにもかかわらず、なぜか展示室の中に(も)堂々と鎮座していた「原爆ドーム」屋根部分(一部)の再現模型である。実物の屋根よりも近い距離で、ある程度のサイズ感が体感できるということ以上に、このハリボテにどんな意義があったのか、正直まったく理解できなかった。こうした作り物を導入した背景には、この都市と人々が被った被害をわがことのように感じ、知ってもらいたい、被爆の惨状をもっと強く伝えたいという、展示する側の真摯な思いと、展示の工夫という大義名分のもと、そのときごとのトレンドを導入してみようという思惑とがないまぜになっていたように思われる。



東館2階[撮影:筆者]


一般的に、資料の見せ方において、あるスタイルや型といったものに頼る限り、当然、その傾向が更新されるに従って、展示の手法も変化していくものだろう。今回についていえば、風潮の反映というにはすでに遅く、むしろ定着したといったほうが正確かもしれないが、プロジェクター、モニター、タッチパネル式モニターといった映像機器の大量導入だろうか。2年前の東館リニューアルのとき、展示を見て「とうとうここまできちゃったか」と感じずにはいられなかった。部外者の私が心配することでもないが、機材・機器というものは、使えば消耗して壊れるものだし、調子だってしょっちゅう悪くなる。しかも、これ以上必要なのかと呆れるくらいにスペックは上がる一方で、最新機器を取り入れてもすぐに型落ちしてしまう。にもかかわらず、いよいよそこに手を出したのか、というのが正直な感想だった。極めつけは、導入されたハードもさることながら、ソフトとして用意された、例の「ホワイトパノラマ」だ。原爆投下の一連の動きと様子がそれらしく見えたとしても、そこには爆音も爆風も熱風もない(炸裂音は入っていたと記憶しているが)。一般的に、高度な技術で制作された映像が、事象把握の補助となることはわからないでもないが、映像がそこかしこに溢れている昨今においては、ともすればヴァーチャルな戦争ゲームのワンシーンか、エンタメ的テーマパークのアトラクションに見えなくもなく、事実の矮小化にも繋がりかねない。しかしながら、「爆音も爆風も熱風もない」のは、例の被爆再現人形にも同じことが言えてしまう。「原爆被害の凄惨な情景はこんなものではなかった。もっと悲惨だった」とは、被爆再現人形に対する意見のひとつだが、妙にリアルさが加味された「ホワイトパノラマ」は、余計にタチが悪くないだろうか。ストレートに事実を伝えることを方針として打ち出した今回の展示において、再現がもとより不可能な事象を、無謀にも再現しよういう試みにすら見える「ホワイトパノラマ」にはどうも違和感を覚えずにはいられない。



ホワイトパノラマ[撮影:筆者]


被爆から70年以上を経た今、実物展示に立ち返らせる、より大きな動機は、被爆者は確実にこの世の中からいなくなる、という紛れもない事実だろう。被爆者の高齢化が進み、亡くなっていくなか、原爆・ヒロシマをどう語り継ぐかという課題に応える試みとしての展示、というわけだ。広島市は2012年度から、被爆者の体験を非被爆者が語り継ぐ役割を担う「被爆体験伝承者養成事業」★4を始動しているが、人材に頼るだけでなく、人類の共有遺産である物=被爆資料にも原爆の語りを託すことにしたのではないか。ヒロシマを語り継ぐ人材を育てるのと同じように、またはそれ以上に、年月をかけて丁寧に被爆資料の調査が進められたことがうかがえる。被爆した遺物の状態把握や保存に腐心するのはもちろん、被爆者や遺族から寄贈された遺品・資料について聞き取りすることによって、無惨にも亡くなった家族の悲惨な最期をも知ることになる。そして、膨大な数の被爆資料のデータや、各々に付随する背景を調書にまとめ、さらにはそれを公開用に文章にもしなければならない。展示用にパネル化された、被爆者や遺族の証言でさえ、胸をえぐられるような辛い内容であることを思えば、ここに辿り着くまでの過程がどれほど苦労を伴うものだったか、想像に難くはない。



被爆遺品[撮影:筆者]


血の通った人間の感性や良心に訴えかけるような内容であるぶんいっそう、演出過多に見えてしまう一連のディスプレイには落胆を隠しきれない。展示室内は、(おそらく誰が見ても)「オシャレ」にまとめられており、よく言えば「高度に洗練された」その展示はさながら高級宝石店のようにも見える。やや劇的なライティングの効果も手伝って、被爆資料が陳列される什器のなかに、高級宝飾品が飾られていても違和感はなさそうだ。各種「情報」を発信する東館は概ね「白」で、「実物」資料を展示する本館は「黒/グレー」といった、商業施設を彷彿とさせるカラーコーディネートも徹底されている。各種写真の効果的な活用についていえば、とりわけ本館入口に掲げられた被爆少女、彼女ひとりが選ばれているのも腑に落ちない。同じ境遇の被爆者は確実にたくさんいたことを思えば、あえてそうした意図を勘ぐらずにはいられない。各所でのぬかりない演出の結果、展示室は抑揚のない画一化された空間となり、全体の見た目は深みを欠いた大きな作り物のようになってしまった。

美術館、博物館、資料館といった施設において、誰もが満足する展示(内容、手法とも)など、おそらく存在しないだろう。展示スタイルにおいて、その時々で好まれる傾向が異なることを否定するつもりもない。仮想空間を最新技術で表わした映像や周到にコーディネートされたスタイリッシュな展示の素晴らしさに、アナログ世代の筆者がたんについていけていないだけかもしれない。確かに、私にとって馴染みがあり親しみを覚えるのは、理にかなったジオラマであり、多少ちぐはぐでDIY感がそこはかとなく滲みでてしまっていようとも、物をきちんと見せたいという熱意と物への愛情が感じられる展示である。そこはおのずと、不要なざわつきなど感じさせることなく、展示物そのものと静かに向き合うことを可能にする環境となるはずだ。

このたびあらためて資料館を訪問し、雑念に煩わされず沈思黙考することができたのは、本館「ギャラリー」にたどり着き、一直線上にたつ慰霊碑、原爆ドームの姿と窓越しに向き合ったときだったかもしれない。とはいえ、丹下によるこの場所のプランとて、大いなる演出といえまいか。さしあたっては、その是非の思案より憂慮が勝ったという事実に、素直に従うこととしつつ、再び思い出してみたい。かつて丹下が表わした、ここが平和を創り出すための工場として、本当に「平和」を生産できているのか、私たちはつねに問い続けなければならない。



★1──丹下健三ほか3名(浅田孝・大谷幸夫・木村徳國)によるプラン。https://www.tangeweb.com/works/works_no-1/
★2──日本の広島市に住んでいた原爆の被爆者の少女(1943-1955)。広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルにもなっている。http://www.pcf.city.hiroshima.jp/kids/KPSH_J/frame/hirotop1.html
★3──http://hpmmuseum.jp/modules/info/index.php?action=PageView&page_id=24
★4──http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1525154329974/index.html

広島平和記念資料館

住所:広島県広島市中区中島町1-2
Tel. 082-241-4004

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