トピックス

トーノのへんしんへのノート──『虚像の時代──東野芳明美術批評選』評

成相肇(東京ステーションギャラリー学芸員)

2013年07月01日号

 『虚像の時代──東野芳明美術批評選』の書評を東京ステーションギャラリー学芸員の成相肇氏にご執筆いただきました。


『虚像の時代──東野芳明美術批評選』(松井茂+伊村靖子 編、河出書房新社、2013)

 東野芳明の本である。しかし東野を知るための本ではない。
 針生一郎の映画が撮られた。中原佑介の批評集編纂が進む。戦後美術批評のいわゆる御三家の一人としてようやく東野もまとめのときを迎えたか、という反応も刊行直後に見かけたが、本書はあくまでも1960年代に焦点を絞って思い切り刈り込んだ選集である。記念すべき第一回芸術評論募集(美術出版社)で受賞した「パウル・クレー試論」から初期のグロテスク論があるわけでなく、彼が傾倒したジャスパー・ジョーンズをはじめポロックやデュシャンらに対する評論も、美術分野を超えて幅広く発した言論もない。不遜ないい方を承知でいえば、これは東野を使って、今何を考えることができるのかを投げかけるための本なのだ。
 編集の軸に据えられた主題は「虚像」である。雑誌、ポスター、そしてとりわけテレビといった複製メディアがほとんどインフラとして浸透していく時代の状況にあって、虚とか幻とかいった語は、特に60年代後半頃の文化批評のバズワードとなった。いささか否定的なニュアンスをまとうこの語を取り沙汰した懐疑論や積極論がいっとき大いに流行。嘘かまことか、だますかだまされるかといった固定的な関係を設定した不毛な議論も少なくない中で、鋭敏なセンスを光らせたのが東野である。彼は「虚像」に可能性を垣間見た。それはきっと、発明と創造のチャンスを与えてくれるはずだ、と。
 「物質や記号やデザインが、いままでとはどう違って扱われているか」──東野が着眼したのはものの見方、情報の受け取り方の変化である。今や複製(虚像)を通じて、わざわざその場に行かずとも、どこかで起こっていることに立ち会える。もしくは、あらゆる経験が複製を経て得られることが当然になりつつある。そのような環境において、「テレビっ子」の生んだ美術が幅をきかせつつあるのだと彼はいう。事件は現場で起きてんじゃない、テレビで起きてんだ。
 東野は自身を含めた観衆の変質に注意しながら、みずから虚像の火付け役を自称してメディアの渦に次々に話題を放り込んでいく。ポップアートが、プライマリー・ストラクチャーが、マクルーハンが、ケージが、ウォーホルが、今まさに日本に輸入されようとしている。反芸術論争が、ヤング・セブン展が、「空間から環境へ」展が、多摩美のバリケード封鎖が、クロストーク・インターメディアが、大阪万博が、今起こっている最中である。身辺雑録や日記のカジュアルな形式、そしてすばらしくゆかいな比喩を駆使して軽やかに綴っていくその語り口は、まさしく本書の帯にある名コピーの通り「生中継」だ。東野にとって60年代とはアメリカであり、テレビであった。それらにおいては「いつも現在がとてつもなく新鮮であり、一瞬一瞬がすべて発明的であって、その背後になんの揺曳もない」。アメリカ経由の近代資本主義──コカコーラニゼーション──を「培養」していた、あるいはそれに「培養」された戦後日本における「現在」を促進させるべく、東野はアメリカを日本を奔走する。
 さて、それでは本書所収のトピックに沿って、心踊る東野のレポートをあらためて中継することにしよう。
 60年代も終盤に差しかかる頃、東野のいうアメリカないしテレビ性が局地的に顕在化したのが新宿であった。ヒッピー、フーテンが艶やかに着飾って風月堂や紀伊国屋書店前にたむろし、ハイミナールを飲むやらサルトルを論じ合うやら。花園神社に行けば唐十郎の紅テントが待ち構えていて、大島渚は横尾忠則を主役にカメラをまわし、東松照明がファインダー越しに街頭を狙っていた。なかでも若者たちがこぞって足を運んだのが西口地下広場で、いつからかここは野外の討論場となり、そのうち毎週土曜の夜には決まって反戦フォークソングのコンサートが開かれる大集会場と化していた。この流行発信のど真ん中に、虚像の人が首を突っ込まないわけがない。
 毎回5千人とも言われる規模で夜の街をにぎわせたフォーク集会は警察が目を付けるところとなり、ついに取締り対象とされるに至る。若者らの熱気によって秩序が臨界点に達しようというまさにその時に、東野は現場取材に訪れた。若者と交通警官のつばぜり合いを楽しんだりショックを受けたりしながら、彼は警察が最終的に持ち出した規制理由、すなわち、西口広場は法的には通路であって、歌い騒ぐのは道交法違反、という言い分を反芻する。事実日本には法的に「広場」という概念がそもそも存在せず、それがあくまで西洋からの借り物であったことをあらためて認識した東野は、レポーターとしてまた「生態学」者として、巧みな分析を披露する。曰く、「『広場』『公園』という移植概念が、劇的な形で現実に根をおろそうという歴史に、いまわれわれは立ち会っているのである」。この報告と考察の締めくくりの方に書かれた次のような記述がすこぶるおもしろい。

「そこには、じわじわと物理的に広場をうばおうというよりも、まさにテレビのように限られた時間だけ異変を起こすことで、情報としての広場を獲得したといった感じがある。いってみれば、テレビの視聴者参加番組に突然入り込んで、その番組の時間を獲得してしまったようなものであり、そのとき『広場』はあらゆる空間の中に発生したのに等しいのである。そして、「西口広場」というテレビ番組は視聴率があまりに高すぎたため中止になったのである。」
(「新宿西口“広場”の生態学」)

 「情報としての広場」とは、そして「『広場』はあらゆる空間の中に発生した」とは、どういうことか。ここで東野のレポートを受けて、解説者にコメントを願おう。つい先頃他界した山口昌男に、ちょうど当時の新宿の有り様にふれたぴったりのテキストがある。

「学生の異装は、街頭が舞台であるならば、人間は仮装によって舞台空間を充たす存在であることを教えた。いわば、都市の設計において、機能がすべてではないということを、まず街路論としてわれわれは知ったのである。流通させるだけが能じゃない(…)遮ること。(…)廻り道の実現。廻り道は、機能の部品から人を逸脱させ、日常生活のささやかな恣意性にもとづく空間を実現させる技術である。(…)
 ヒッピーが啓示的であったのは、新宿駅のごとき大都市の結節点が、建築的に西欧近代化の極点に達しようとしたときに、あたかもこれを嘲笑するかのごとくに、通路の片隅を占拠し、その空間を解放したことである。(…)解放とは、何ものかを解き放つことであり、抑圧とは、空間の隅々まで支配することによって、人間がみだりに変身するのを阻止することにほかならない。」
(山口昌男「「社会科学」としての芸能」『本の神話学』中公文庫、1977)

 そう、若者たちは占拠によって新宿を解き放った。交通を遮って、抑圧を脱した変身のための臨時の舞台空間を、「情報としての広場」を、作り出した。この時代にかつてなく激しさを増したありとある流通を、いったん停めることが自前の「広場」を、なんなら創造を、生むという予感がこの瞬間に生まれたのだ。東野はテレビを例えにそう言おうとしたのではあるまいか。東野が得た予感と確信は、のちに巨大な流通の結節点たる大阪万博における「お祭り広場」構想へと直結していく。それはまさしく視聴者参加番組としての、「群衆の一人一人がデクノボーから強烈な主役に変貌するような場、そのための状況発生器」であった。
 ここで重要なのは、東野が他の虚像懐疑論者のようにテレビを情報流しっぱなしのメディアとしては考えていなかったということである。テレビはたしかに流通そのものだ。しかし一方で、それはこちらの生活を無遠慮に遮ろうとしてくる存在でもあった。テレビっ子としての東野は、テレビに翻弄されながら解放感に魅了された。いやその翻弄こそが解放であったというべきか。
 巧みに編まれたこの一冊のトーノのノートにちりばめられた言葉をぱらぱらとザッピングするだけでも、彼の主張の揺るぎなさはよくわかるはずだ。…………テレビの本質は、繰り返しのきかない「現在」を、否応なく送り込むところにある……理不尽に強制的……どたどたと流れ込んでくる画像の厚かましさ……テレビの同時性の不自由さこそ評価すべきだ……過程を果断に停止させ、凍結させることで、その機能の根源をあばきたてる……動いてやまない「現在」の現実性の只中に立ちすくむ……必然を扼殺しよう……呪われているのは、いつも、あわれな自己の手垢……自己崩壊……実体喪失……自己創造、自己決定、自己超越と関係すべきである…………
 ────変身せよ、変身せよと東野は繰り返しているのだ。
 今さらいうまでもなかろうが、虚像を愛した東野はテレビをただ礼賛したわけではなかった。むしろその中途半端さを批判するのである。流通させるだけが能じゃない。「あらわれるというよりもどんどんと消えてゆくところに特質」があるのがテレビなら、流す方でなく消していく方に、廻り道をさせる方にこそおもしろさがあるべきだと東野は考えた。だから彼は、番組よりもCMが好きだった。ぼくらの「現在」は、「単にチャンネルをひねったらすぐにとび出す、安っぽい「現在」にすぎない」と東野はいう。各自が勝手にしょい込む「現在」は機能に過ぎず、それは安っぽい。「何らかの経験を味わうとき、あなたは、「機能」として観衆の役割を演ずる」。東野はみずから傍観者、立会人、あるいは批評家なる機能を「チャンネルをひね」るように次々に買って出る。一貫性という抑圧を抜けて虚像に飛躍するために。変身するために。
 さて、それから数十年の時を経て、いっそう虚像があふれコミュニケーションメディアが充実した今日は、東野が夢見たような環境となったかどうか。流通しまくる情報を遮ることはなおさらに難しいようである。ではいかに変身すべきだろうか、と、廻り道を許さぬ東京駅のごとき大都市の結節点に勤めるぼくは思う。

  • トーノのへんしんへのノート──『虚像の時代──東野芳明美術批評選』評