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今、アート購入に注目が集まるのはなぜ? その3──若手アーティストはマーケットをどう見ているのか
ユミソン(アーティスト/キュレーター)
2018年10月15日号
これまで2回にわたって紹介してきたように、このところアートマーケットに対する一般からの関心が少しだけ高まり、政府や産業界からも注目を浴びつつある。ある意味で流動的なこの状況に対して、若手アーティストの中には受け身になるのではなく、アーティストが主導しながら状況に対峙しようという試みが出てきている。2018年夏には中崎透の監修による「スーパー ローカル マーケット」とカオス*ラウンジによる「現代美術ヤミ市」が開催された。そのうち後者について、作家活動をしながら地域芸術祭のキュレーションや作品売買のプラットフォーム作りにも携わるユミソンがレポートする。(編集部)
「現代美術ヤミ市」
最近、著名人が現代美術の作品を売買する話題が一般メディアを賑わすことが珍しくない。その程度まで、現代美術の売買への世間一般からの認知度があがっている。また様々なレベルのアートフェアの開催や、インターネット上で容易に売買ができるようになり、かつての「アート作品は美術館で鑑賞するもの/一部のお金持ちだけがアート作品を手に入れられる」というイメージから、現代美術の作品を購入することは多くの人にとって身近な存在へと変化しつつある。
そんな中、若手アーティストを中心とした約20組の招待作家たちが出展し作品を展示売買する「現代美術ヤミ市」が2018年7月21日(土)、22日(日) に開催された。会場となるBUCKLE KÔBÔは、SIDE COREと寺田倉庫アート事業計画プロジェクトとが運営する鉄工所跡を改装したアートファクトリーだ。
「現代美術ヤミ市」を主催するカオス*ラウンジ代表の黒瀬陽平は告知用のウェブページで、ステイトメントを次のように書き始めた 。
日本には現代美術のマーケットが無い、と言われる。
そして、マーケットがないから現代美術が根付かないのだ、と。 ほんとうにそうなのだろうか。
「ほんとうにそうなのだろうか」という疑問文は、「そうではない」という暗喩として使われる。この疑問は、「マーケットが無い」にかかるのか、「マーケットがないから現代美術が根付かない」にかかるのか、もしくはその両方にかかっているのか。つまり黒瀬は、「現代美術ヤミ市」で、「マーケットを見せる」のか、「現代美術が根付かない理由をマーケットのなさに依拠させることを否定する」のか、または「現代美術が根付いている」ことを証明するのか、いずれかを実行することをほのめかしている。
さらにステイトメントの最後はこう書き終えている。
残念ながら、このような「現代美術マーケット論」は、この国ではまだ受け入れられそうにない。だから、ぼくたちは「ヤミ市」として、独自に立ち上げることにした 。
「現代美術ヤミ市──限りなくゴミに近いマテリアルの市」は、ゴミが現代美術になる、その魔法の現場として企画される。
アーティストも、コレクターも、
観客も、スタッフも、ゲストも、 立ち会うすべての人たちが、
現代美術の「共犯」と なる。
黒瀬は立会う人々を共犯者とし、「現代美術ヤミ市」を「現代美術マーケット論」の実証の場として位置付けている。これはBUCKLE KÔBÔという場で、今までとは違うマーケットを見せるという宣言だ。もちろん現代美術は犯罪ではないので「共犯」は、比喩だ。一般的に背徳的な関わりを「共犯関係」と比喩する。このネガティブな結びつきの形容は、同じ業界にいながらもマーケットにおいて、お互いの存在に距離を置いているもの同士の結びつきを再定義することへのメタファーとしてとらえられる。
特にタイトルの「ヤミ市」は強力なメタファーだ。闇市は、統制経済において自由な流通が規制されている場合における独自の市場のことだが、さらにヤミ市は「闇市」と「病み」を掛け合わせた言葉遊びの造語である。このコンセプトは黒瀬の発案ではなく、「100年前から続く、インターネット上の秘密結社」として「インターネットが降臨する場」を作る活動を行う任意団体IDPWが開催する「インターネットヤミ市」から借用している 。そして「ヤミ市」の響きは、戦中・戦後の混沌を連想させる。2018年の現在の美術の現場が戦中・戦後のような統制下にありそこから離れた市場を作るというのなら、日本の現代美術を統治しているのはむろん欧米の現代美術を指すのだろう。
このステイトメントの特徴は、短い論の中に「共犯」「ゴミ」「魔法」「錬金術」「ゾンビ」などいくつものメタファーを使っていることだ。語の多さから、業界内や仲間内に通じるジャーゴンめいた響きも与える。「日本の現代美術は所詮欧米からの「伝聞」でしかないが、「現代美術ヤミ市」で日本の現代美術が立ち上がるかもしれない」という大上段に振りかぶった論は、その大胆さが魅力になり、実際に開催告知ののち、その魅力から参加アーティストたちはSNSやメッセンジャーを伝搬しながら増えていった。参加アーティストの決定は黒瀬がメインとなり、さらにSIDE COREが選出したアーティスト、選出されたアーティストのブースで出品する関連のアーティストたちで溢れかえっていた。
販売側のアーティストも予想より売り上げが好調だったようで、刻一刻と変わる作品の売れ行きをSNSで公表していた。またその状況を見ようと、会場は溢れんばかりの来場者で賑わい、来場者たちは自分の好みに合った作品を熱心に探しては購入していた。来場者の一部は、購入後にSNSに戦利品をアップし、作品に対する思いを書き綴り、アーティストとどのような会話を交わして手に入れたのか、時には価格も一緒に開示していた。そして、ステイトメントに共感した観客は「共犯者」となるべく積極的にアーティストとコミュニケーションを取っていた。
教育の場としての、新芸術校の延長としての「現代美術ヤミ市」
今回開催されたアートマーケット「現代美術ヤミ市」では、興味深いことにサブタイトル(「限りなくゴミに近いマテリアルの市」)やステイトメントで書かれたメタファーを、比喩や隠喩ではなく言葉のままに扱う傾向が、黒瀬や参加アーティスト、または観客の中に多く見られた。顕著だったのは「ゴミ」を隠喩ととらえず、作品のマテリアル(素材)にゴミの要素を見いだす。またはテーマとして「ゴミ」をとらえるという傾向である。その結果、作品の良し悪しを別にして、安価な紙類が作品の大半を占めた。しかし、こうした原材料費合戦に向かうと、コンセプチュアル・アートに軍配が上がるのは必至で、ルーシー・リパードが1960年代後半から見出した「芸術の非物質化」のアップデート版として、デジタルデータに昇華させたところで、それも既出なので黒瀬の言うところの西洋からの統治下からは逃れられそうもない。
一方で好意的な見方をすると、メタファーをメタファーととらえない行動は、反転してその行動自体がアレゴリー的な役割を果たす。つまり『現代美術ヤミ市』は一般的なアートフェアとは違い、その売買の方法までをアーティストが統制する作品となる。紙類や混沌とした場での作品の売買はその「魔法」を購入者も疑わない限りにおいて、象徴的な意味として「ゴミが作品となる瞬間」を作る。ある種のコミュニケーションがアーティストや作品に必須条件として含まれるが、その寓話がアートマーケットを可能にする。同時にアートマーケット自体を寓話化する。その意味では、アートフェアとの対峙というより、村上隆が2014年まで開催していた「GEISAI」からの流れを連想させる。欧米の伝聞ではない日本の現代美術を作るということなら、企画者側が意図せずとも村上の「GEISAI」スピリットを受け継ぐのは不可避だろう。
そのせいか、アートフェアへのアンチテーゼというよりは、村上も意識的に行なっていた後進育成という教育的要素の面が強く感じられた。「このイベントはアートフェアとどこが違うのか」という筆者の質問に黒瀬は、「これはアートフェアではない、なぜならアーティスト自身が価格を決め観客が価格の妥当性を見出すという一連の行為を、教育の実践として行なっている。そして継続することでアーティストと観客の学びの場となることを想定している」と答えた。「アーティストとして生産活動をしていくならマーケットの存在は不可避であるのに、大学では教育とアートマーケットが別のレイヤーになっており、交わることはなく、価格の付け方や作品を介した観客との接し方等々は教えられない。それではアーティストは育たない」と。そして現代美術ヤミ市は教育の場でもあるので、参加アーティストはある程度固定させる意向である、それは黒瀬が教えている「ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校」の延長に近い行為だという。
「マーケットを含めた教育」といっても、黒瀬がアーティストたちに価格付けや作品証明書の作成方法、梱包から発送の流れを指南するわけではない。ただ、各自がそれぞれやるようにという命題を与えるだけのようだ。通常のアートマーケットでは作品に資産としての価値を求めるので、プライマリーにおいて価値と価格のバランスを崩すような激しい価格変動は好まれない。しかし「現代美術ヤミ市」ではアーティストは今回の失敗や成功を加味して次回は同等の作品の価格等を大幅に変更する可能性があり、それを主催者も教育的立場として推奨している。価値と価格のバランス自体を実践をもって体験させようという算段だ。
その意味では現代美術ヤミ市では、ゼロ円から数百万、せめて数十万円までの幅広い価格帯の作品が並ぶことが期待されるが、初回ということもあってか、「お買い得」なドローイング作品が中心となっていた。酒井貴史による継続プロジェクト《物々交換所》によりゼロ円は実現していたものの、数百万円の作品が並ぶということはなかった。コレクターではなく、所得も平均より下回る筆者は、3万円から5万円、10万円は超えないドローイングを探していたが、目当てのものはなかった。100円均一や千円未満の安心安全な価格帯のメモやドローイング、選択権のない千円の作品は多くの観客で賑わっていた。売り手と買い手が無言の同意をしたり、騙されたりするような混沌としたヤミ市というよりは、コミュニケーションによる同意、大量の作品が並ぶパワーから乱雑な雰囲気はあるが、「ヤミ」市というよりは「明るい」マーケットのような印象が強い。もちろん価格が100円の作品の価値が100円ではない。しかし安心安全を超えた共犯関係を作る出費でもない。参加アーティストの弓指カンヂ がTwitterでつぶやいているように、共犯関係を真剣に探そうという気持ちでいると、会場では「寒いやつ」として自身を位置付けてしまう雰囲気は、観客として筆者も感じていた。
現代美術のヤミ市なんやから安く売るのは違うと思って敢えて高めに価格設定して(交渉可!)それでも買うって人、ほんとに共犯者を真剣に探そうと思って展示した。でもあの会場内では僕は完全にスベっていた。間違いなく勘違いした寒いやつやった。でも明日もそのままでいこうと思う!
弓指カンヂは「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校」の第一期最優秀者でもあり、黒瀬の教育方針をよく理解していたのかもしれないし、他の参加者より企画コンセプトを内在化させていて共犯関係を作ろうと思い至ったのかもしれない。兎にも角にも「現代美術ヤミ市」に参加し続けるアーティストたちと観客は、今後どのように価格を変動させていき、作品の売買に関してのやり取りを成立させていくのだろうか。ヤミ市は始まったばかりだ。
時期未定だが次回の開催は予定しているとのこと。しかし今回と同じような価格帯や作品の真贋の保証の仕方を続けていては、未来はない。もちろんそんなことはアーティストにとっても観客にとっても織り込み済みの問題だと思うので、今後の動向を注目していきたい。
現代美術ヤミ市──限りなくゴミに近いマテリアルの市」(終了しました)
会期:2018年7月21日(土)・22日(日)
会場:BUCKLE KÔBÔ(東京都大田区京浜島2-11-7)
詳細:http://chaosxlounge.com/yamiichi/