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[PR]レポート:文化庁主催シンポジウム 芸術資産「評価」による次世代への継承──美術館に期待される役割
内田伸一(編集者、ライター)
2019年01月15日号
対象美術館
去る2018年11月30日、文化庁主催シンポジウム「芸術資産『評価』による次世代への継承──美術館に期待される役割」が開催された。文化庁主催ということ、およびそのタイトルから来場者の多くが予想・期待したのは、同年5月に突然報道され議論を呼んだリーディング・ミュージアム(先進美術館)をめぐる、その先の議論であっただろう。このことも念頭に置きつつ、シンポジウムの概要をレポートしたい。
「芸術資産」をめぐって
登壇者は6名。ファシリテーター的役割も担った青柳正規(東京大学名誉教授、山梨県立美術館館長、前文化庁長官)、経済学の領域から柴山桂太(京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)、また研究者側から加治屋健司(東京大学大学院総合文化研究科准教授)、アーティストの名和晃平、建築家の田根剛が参加。さらにコレクターの岩崎かおりも開催告知後に参加が決まった。前半は青柳の基調講演および柴山との対談、後半は登壇者全員でのディスカッションという構成だ。
まず開催側から以下の説明があった。
今後、人口減少と超高齢化社会が進行するわが国においては、美術品などの芸術資産を活用するとともに、適切な評価を形成することで国民共有の資産として次世代に継承していくことがきわめて重要になってきており、その評価の役割を担う美術館の役割やあり方に対する関心が高まっています。
文化庁では、この機をとらえ、文化・芸術資産の活用の重要性、価値評価を高めていくための方策、今後の美術館のあり方などに関してさまざまな立場から議論するシンポジウムを開催します。
タイトルには「芸術資産」なる言葉がある。文化遺産、文化財とは違い、「資産」という言葉を「芸術」とつなげる背景には、その保護・継承に加え積極的な活用を、との意図が見える。芸術を社会的資産とするとき、どのような活用のかたちがありうるのか。先進美術館構想をめぐる報道で特に懸念の声が上がったのは、美術館収蔵品の購入・売却による市場活性化という考え方だった。文化庁は取材に応え、5月の報道時点ではいずれもあくまで検討段階であると回答
。今回のシンポジウムはこうした背景も踏まえ、各界との問題意識の共有から始めるべく開催された。キーノートスピーチ
まず青柳が「美術と社会」という切り口で、現状と課題についていくつか論点を示し、続く議論への材料とした。
市場規模の小ささ
世界全体の市場規模やGDP比から見ると、国内美術市場の規模がいまだ小さい。これは先進美術館報道の発端となった内閣官房の会議での資料でも指摘されており、詳細はそちらを参照されたい
。青柳は「市場が小さすぎると芸術が育っていかない、そうすると市場が成長しない、という悪循環」の可能性も指摘した。関連して、国家予算のうち文化予算の占める割合が高いフランスとの比較(フランス約1%に対して日本は約0.1%)からも、構造的な課題が示された。美術への関心の高さ
一方で、市民の美術への関心の高さについては、国内美術館の企画展入場者数から見ると一定の評価ができるとした。シンポジウム会場となった国立新美術館の例で言えば、「ミュシャ展」(2017年、65万7千人)、「草間彌生 わが永遠の魂」展(同、51万8千人)などの来場者数は、欧米の美術展入場者数ランキングに比しても高い水準にある。
ただし人気企画展が新聞社などの主催による欧米近代美術やオールドマスターに偏っており
、またこうした美術(展)への関心は、広く美術作品の購入には結びついていない現状がある。なお関連して、美術館や批評・メディアの現場からの、国際的な発信力の弱さも指摘された。美術と社会の親和性という課題
青柳は「美術と社会の親和性」が確保されていない理由として、前述の状況に加え、美術品の鑑定・評価が確立していないこと、税制改革の対象となっていないことも挙げた。鑑定・評価については、2018年に設立された一般財団法人東美鑑定評価機構(東京美術倶楽部の鑑定委員会の役割を引き継ぐかたち)や、今後の競合組織の登場によるこの領域の発展に期待する発言もあった。
芸術系の人材育成については、近年、芸術系大学(音楽、デザイン等含む)の卒業生が1万6千人程度で推移しているデータを紹介。芸術を志す若者が一定数いることを評価しつつ、その就職率は漸減している点や、初等・中等教育における芸術系教師数の減少も指摘した。作家志望者の多くは就職しないという推測もできそうだが、美術館など芸術の現場で活躍する人材の充実も重要である。
ダイアローグ「芸術資産の価値を高めるには?」
続いて柴山が登壇。「これからの経済施策・経済思想についての発想を話すことで、今日のテーマとの接点が見いだせれば」とし、青柳と対談した。その際に用いたのが、「フロー型からストック型へ」という視点である。GDPを指標として経済の向上を目指すのが20世紀的な考え方の典型だとすれば、同世紀後半以降は、目先の生産性だけでなく、「たまっていく価値」としてのストックの重要性が高まっているという。
「芸術資産」というものを考える際、文化財などもストック型の財産として注目する。柴山はこうした姿勢が今後はより必要になるのではと考える。国民所得のようなフロー的指標が一定期間(1年間)の生産・支出から算出される一方、過去から引き継がれた資産や資本は国富(national wealth)として扱われる。国富=非金融資産+金融資産−負債として定義されるが、厳密な国富調査は時間と手間が膨大にかかるため、1970年を最後に実施されていない
。柴山はこの調査の再実施も検討してよいのではと語った。その際、従来の国富が基本的に①生産設備(物的資本)、②土地、③天然資源の三つで考えられ、人的資本、知識資本、社会関係資本(人のネットワーク)など多様化する無形資産には対応していない点を指摘。文化財もそこには含まれないことを挙げ、価値計測の難しさや、そうした評価がタブー視されがちなことも踏まえつつ、国内の文化遺産を正当に評価することで価値を引き上げる有意義性を主張した。
国富というとものものしい響きもあるが、柴山の主張は、「芸術資産」の評価と向上というテーマに、経済学者として率直に応答した印象でもある。その他の消費財などとは違い、美術作品は時間を経て価値が上がりうる(もちろん逆の場合もある)点からも、ストック的な価値があるという認識がこの主張の背景にある。
20世紀を代表する経済学者、J・M・ケインズも実は芸術支援と絵画収集に熱心だった。柴山がこの史実を紹介しつつ、ケインズの絵画収集に投じられた金額と、ケインズ・コレクションの現在の市場価格を比べた投資実績研究にも言及したのは、経済学者ならではというべきか。またケインズのコレクションには目利きたちが貢献したことから、ストック的な価値の向上には正当な評価のための「装置」が要るとの認識も示した。
一方、スライドでは、予想される反論への言及もあった。まず「芸術の価値は市場価値で計れない」というもの。柴山も作品の評価には複雑な要素が存在することに首肯しつつ、とはいえ価格も価値指標のひとつであり、業界の活性化には市場拡大も欠かせないであろうとした。また、もし不当に低い評価の作品群があれば、それを是正する動きがあっていいのではと述べた。別のありうる反論「“道楽”に公金を使うのは間違い」については、「芸術を道楽ではなく文化資産ととらえ」、その資産が生み出す効果も考えるべきでは、と答えた。
パネルディスカッション
後半は加治屋、田根、名和、岩崎も加わっての議論。岩崎はまず、日本で美術品のコレクターが増えない理由として①アートは美術館(だけ)で観るものという意識が根強いこと、②美術作品が投資対象として認識されないこと、③美術作品売買における金融、保険など関連サービスの未整備に言及。結果的に「優れた日本作家の作品を、国内で見ることができなくなっていく」ことへ懸念を示した。
名和は「自分は作品を個々の所有者に渡すというより、世界に新しいものを生み出していく感覚。ただ、新プロジェクトを始めるにはエネルギーも資金も要り、かつ作家が自ら作品群を保管し続けるのは大変なこと。だからこそ、自作を“良い場所”に残したい」と述べた。一方、20年を数える作家活動のなかで、自作の販売先の8、9割が国外であり、東京の多くのギャラリーでも国外購入者の割合はかなり高いはずだと指摘。
作品の多くが海外に渡る結果「来日した客人に、日本の現代美術を見るならぜひここへ、という場がない」ことも問題視した。教育においても本物の作品は一番の教材であり、それを肌で感じられる場をつくる重要性を強調。またこれらの問題が自分の大学生時代=20年前から変わっていないことを憂慮しているという。国内ギャラリーについては、作家を信頼できる買い手と結びつけ、若手のインキュベーションも担う重要な存在としつつ、10年前に比して総体的な弱体化も感じると危機感を露にした。
加治屋は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が刊行した書籍『From Postwar to Postmodern Art in Japan 1945—1989』(2012)の編集に参加した経験について青柳に水を向けられると、MoMAがほかにも中国や中東、中東欧、アラブなど各所の美術をめぐる言説を、おそらく収益が出ずとも書籍化していることを紹介。日本で国内美術に関してこの種の取り組みが少ないのは課題だと語った。また作品の価値決定において市場の力が強く働くこの時代にも、「批評と研究による新たな言説が作品の価値を見つけることもある」とし、美術館、アーカイブ、言説の3要素を重視する姿勢を示した。
またアメリカでの体験談から、あるコレクターが自ら展示室を持って展覧会を企画し、図録をつくり、ときには美術館から作品を借りて展示を補強することさえしている例を紹介。「さらにそれらを私たち研究者にも解放している。市場と言説が相互につながっているとも言える」とし、利害の絡み合いも生じうるにせよ、そうした複合性が活発な動きの一端にあることを伝えた。
田根は「お話を聴きながら、建築も議論の仲間に入れてほしいなと思いました」と笑顔で発言。特に商用/民間の近現代建築は、文化として見たときには保護されにくい現状があり、老朽化や相続時の手続きで破壊されることが多いという。また彼は「資産」と「財産」の考え方の違いにも言及。資産は時間とお金から価値が数値化できるものだとすれば、財産は時間と「回数」(作品の販売・展示歴、施設への訪問者総数など)で価値を示す数値が変動するのではないかとの考え方を示し、もしそうならば後者が共有されることが、広い理解につながるのではと語った。
柴山は、市場の活性化が望まれる一方、市場原理が過度に働くことで作品の国外散逸が進みかねないのであれば、このジレンマについて「作品の(散逸)保護についても一定の仕組みが必要なのかもしれない」とコメントした。
一方で名和からは、作品の性質上から収蔵されにくかったものも、状況が変わりつつあることが示された。「自分の作品でいえば、泡を使ったインスタレーションなどがそうです。そのため、別の作品の販売で資金を得ることで全体をやりくりしてきた。ただ、欧米の有力館ではインスタレーションの展示権利を“購入”する例なども増えています」。他方、この日は話題に上らなかったが、去る秋にMoMA館長が将来的にコレクションへの投資撤退も考えている旨の発言をするなど
、収蔵活動の課題は各館にあることも窺える。青柳は、インターネットの普及も踏まえて美術館が収蔵資料をよりオープンにすることの可能性にも触れた。MoMAが歴代展覧会の豊富な資料をオンラインで公開し、メトロポリタン美術館がパブリックドメイン扱いになった収蔵作品画像をオープンアクセス化したのは、記憶に新しい。後者は愛知県美術館でも類似の取り組みが発表されている。資料の販売費や利用料を収益とする既存モデルに対し、美術がより広がる道をどう開くか。これも議論されて然るべきだとし、美術館のみならず、これら多面的な課題からどのように良い循環を生むかが、いま問われていることを強調した。
名和は「言いたいことが多すぎて終われない」としつつも、こうした議論があることは大事だとし、現在の逆境を「インフラそのものから変化するチャンス」ととらえることを提案した。美術館やギャラリー、また個人や行政によるオーガニックなつながりのなかで、美術が根づく仕組みづくりは可能か。長期的・継続的な取り組みへの期待を述べた。
筆者の周囲でシンポジウムを聴講した知人たちからは、肯定的な意見として「日本における美術(作品)の価値をめぐる課題を、多様な視点から知る機会になった」「自分は作品売買には関わっていないが、美術に携わる者として共通する課題やヒントを得た」などが聞かれた。一方、「(タイトルにある)美術館に期待される役割についての議論が少なく、登壇者に現場のキュレーターなどもぜひ招いてほしかった」「先進美術館という考え方が報道によって“ひとり歩き”したのだとしたら、今回はそれも受けての公開議論の場。文化庁の見解も聞きたかったし、会場との質疑応答時間も設けてほしかった」などの意見があった。
また、シンポジウム副題にもある美術館の役割に関連して、おそらく現場の率直な悩みは、購入予算をはじめとするコレクション活動の予算問題と、この日の議論に上がったような新しい取り組みに関わるだけの時間の確保の問題ではないか。ただし、この問題については今回、深く掘り下げられる場面はなかった。
総じて、限られた時間のなかで、改めての課題共有というかたちになった印象はある。しかし、「最大の敵は無関心」という警句もある。芸術はどのようなかたちでなら「資産」として活用しうるのか? また「芸術資産」をめぐり、国や自治体、美術館、そしてアーティストやコレクターを含む市民との間には、どんな関係性が育ちうるのか。今回のシンポジウムを端緒に、立場を越え、開かれた議論が継続することを強く望みたい。
なお、今回のシンポジウムの模様は文化庁のYouTubeチャンネルで全編公開されている
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