Dialogue Tour 2010
第4回:CAAK Lecture 35 中崎透「遊戯室について」@CAAK[プレゼンテーション]
中崎透/鷲田めるろ2010年10月15日号
ツアー第四回は、金沢のCAAKに美術作家・中崎透氏をお招きし、作家活動と水戸での遊戯室のこと、さらに、これまでの“場づくり”の変遷についてお話しいただいた。CAAKの鷲田めるろ氏がホストを務め、CAAK Lecture 35として開催された。
ホワイトキューブではない場をつくる
中崎透──僕は地元の水戸の美術予備校で二浪したあと、武蔵野美術大学油絵学科に入学しました。大学の3,4年生のころは砂壁や墨や材木などを使ったインスタレーションをつくっていましたが、卒業制作をきっかけに、カラフルで一見ふざけたようにも見える、看板をモチーフとした作品を制作するようになりました。
美大の卒業制作の時期が近づくと、「ここに彫刻を置きます」といった感じで展示のための場所取りをして、みんな各々の場所をペンキで白く塗って教室をホワイトキューブもどきにします。学校という場所を美術館に見立てようとするわけですが、そういうことに、違和感を感じていたので、逆に場所の敷居を下げてしまうことができないかと考えていました。まずは、学校の広場のまわりに作品と称して看板を置く場所を確保して[図1-3]、そこで卒業制作展に出品する人に「卒制の宣伝しませんか」と声をかけて、1枚100円で100枚の看板をそれぞれと契約を交わして切り売りする。看板は文化祭よりもチープなダサいものに仕上げる。それによって、捏造されたホワイトキューブのイメージを歪ませて、ここは学校ですよってツッコミを入れるような試みでした。作品や看板そのものよりも、状況や学校という場所だったり、契約関係といったそれらを取り囲む仕組みみたいなものに関心が向くきっかけになった作品だったと思います。
卒業制作を終えて大学院に進学するのですが、僕らの同期は男ばかりで、どうしたらアトリエに女の子が来てくれるかと話しているときに、「人をよぶなら、やっぱ、ギャラリーでしょう」ということになって、荷物置き場になっていた共同アトリエの一画の壁面を白く塗り始めて、拾ってきたソファやおしゃれそうな画集を並べたりして、自分たちの作品を掛けていろいろな人たちと話せる溜まり場みたいなものをつくりました。そのスペースの名前は「warehouse art project」といって、僕が大学院2年生のときに大学院生5人で一緒にやっていました。メンバーは、今井俊介、石川卓磨、槙原泰介、飯村藤大郎と僕でした。当時、僕と槙原は大学院の2年で、他の3人が院の1年生でしたが、僕らが卒業したあとも島初季がメンバーに加わって、翌年まで運営していました。スペースはもうないのですが、同名のウェブサイトが残っていて、いまでもコラムは続いています。当初は大学の中でも同級生くらいしかこのスペースのことを知らなかったのですが、だんだん学年や学科の垣根を越えて人が遊びに来るようになったりして、ひとつ場所があることで、自分が動かなくても自然に人が集まってきて話が展開していくことのおもしろさを体験していました。
大学も会社も地域も社会の一部
中崎──2003年の春に大学院を卒業したのですが、月並みですが倉庫物件を何人かのアーティストでシェアすることにしました。埼玉県の所沢よりも遠い場所で4人で「スタジオ・テナント」というスペースをはじめました。その頃はちょうど「スタジオ食堂」がなくなってしばらくしたくらいの時期で、僕らは直接関わっていませんでしたが、上の世代には「スタ食」に関わっている人がいたり、僕らのいくつか上の世代だと多摩美出身のアーティストが「ボイスプランニング(BOICE PLANNING)」という名前でスタジオとかギャラリーを運営していました。そういう活動を横目で見つついいなと思いながら、なんとかその倉庫物件にも人を連れてこようと思っていたのですが、駅から4〜5kmも離れていて、駅前にレンタサイクルがあったのですが20時半には返さないといけないような過酷な場所でした。当然、誰も来ないので、そこは制作に専念するスタジオにして、人を呼ぶのは早々にあきらめました。
大学を卒業したあとは、アルバイトでスタジオ代と貸ギャラリー代を稼ぎながら、制作をするような生活をしていましたが、僕は心が折れるのが早いので、「そんな生活無理!」ということで、奨学金の借金をしてでも大学に戻ろうと思いました。それで、2004年からムサビの博士課程に戻りました。そのときはもうスタジオを持っていたので、大学から与えられる制作スペースはギャラリーにしようと思って始めたのがこれです[写真5-7]。完全な手作りです。さきほどお話しした「warehouse art project」の名前を継続して運営するのもありかなとも思ったのですが、いろいろ事情があって、今回は僕の個人プロジェクトになっていきそうだったので、「中崎透遊戯室」という個人名を冠した自分のスペースとしてスタートさせました。
スペース名を決めていく過程での当時のやりとりは、個人なのかシェアなのか、場やプロジェクトの主体者を考えるいいきっかけになりました。それから、学校の中で勝手に壁を立てて外のお客さんを呼んだりしていたので、学校側とももめたりするわけですが、いろいろ交渉を繰り返して、ときには「このスペース自体が研究の一環で作品なんです」と企画書なんかをでっちあげつつ運営していました。そういう大学との掛け合いみたいなやりとりは、ぶつぶつ言いながらも結構自覚的に楽しんでいた気がします。一度大学を出ていたので、余計に学校という枠組みを醒めて見ていたというか、小さな社会と見立ててその中で練習している気分でもありました。でも、おかしいのは、実際そのつもりで社会に出てみると、いわゆる大文字の社会ってあんまりなくて、会社だったり、地域だったり、とある業界だったり、いくつかのコミュニティを通したうえで存在するのが社会なので、囲われた仮想社会だと思っていた学校という場所も、よく見たら普通に社会の一部だったという感触を持ったことをいまでも覚えています。