フォーカス
ヴェネツィア・ビエンナーレの現在
市原研太郎(美術評論)
2011年06月15日号
ヴェネツィア・ビエンナーレがオープンした。ご承知のように、世界最古にして最大のビエンナーレである。例年なら6月ともなると暑くて会場を回るのに苦労するのだが、今年はそれほど気温が高くなく、パビリオンを探して迷路のような市内を歩かされる身としてはたいへん助かった。今回で54回目、19世紀末より100年以上にわたって続けられてきたヴェネツィア・ビエンナーレは、“La Biennale”と定冠詞を付けて紹介されるのが当然なほど、その歴史の長さや展覧会の規模と充実度を誇り、その後に出発した幾多のビエンナーレに手本を示してきた。
巨大化がまねく〈空洞化〉〈混乱〉〈レベル低下〉を超えて
そのビエンナーレに、20世紀末から巨大化の拍車がかかった。アルセナーレ(軍隊の元倉庫)が企画展の新しいスペースとして充てられ、主要会場のジャルディーニに収まりきれない国々が、市内に張り出して各所に国別のパビリオンを設けるようになったのだ。そのうえ、ビエンナーレにあわせて関連の展覧会が多数開催されるようになり、期間中ヴェネツィアは、さながらビエンナーレ専用の都市と化す(1週間で、すべての展覧会を回るのは不可能!)。
今年は、初登場のパビリオンが出展するなど、規模がさらに大きくなっていた。それほど世界各国(とくに第二、第三世界)がアートに関心を寄せているとの証拠だが、過去数回のビエンナーレを観て、企画展を含めこの巨大化の様相が問題を引き起こしているのではないかと感じられた。その問題とは、巨大化にともなって、空洞化あるいはその反対の混乱、そして作品のレベルの低下が生じているのではないかということだ。
レベルの低下は、参加国つまり参加アーティストが増えることで、必然的に作品の質の劣化が起こる現象である。現代アートの祭典と謳われているのに、そのように思われない作品が陳列される(しばしば現代アートの周縁に属する国のパビリオンにおいて)。また空洞化とは、企画部門のスペースが広大すぎて、一人のキュレーターでそれを埋めることができないことに起因する。一定の企画の趣旨にそって、世界中から満遍なくアーティストを選出し、作品でスペースを余すところなく占めることなど誰もできないのではないか?
その反対の混乱とは、このスペースを作品で満たすために、一人ではなく複数のキュレーターに企画を任せることから生じる(実際、過去のビエンナーレでそれが実行された)。このやり方で、アーティストの数は十分まかなえるのだが、今度はそれぞれのキュレーターで考えが異なり、展覧会全体を通じて一体性を保つことができなくなる。この事態に対応するには、各国のパビリオンの場合もそうだが、複数の個展やグループ展を鑑賞していると前提すればよいのだが、それでは同時期に同じ場所で開催する意義がなくなるのではないか。
これらの難問を、どう処理し解決するか? この問いが、私が今年のビエンナーレを訪れる際に胸中にあったものだ。
ILLUMI-nations──世界諸国に広がる光
今回のビエンナーレのキュレーターであるBice Curigerが、企画部門を担当した。彼女は、この問いにいかなる解答を出したのか。元々個人の力でどうにかなる問題ではないので期待していなかったが、結論を先に言ってしまえば、私の問いに応えた素晴らしい展覧会に仕上がった。
“ILLUMInations”というビエンナーレの総合タイトルを掲げたCurigerは、とりわけ彼女による企画の展覧会──ジャルディーニの中央パビリオンとアルセナーレの一部(アルセナーレのその他の部分は国別パビリオンに割り振られている)──で、彼女の選んだアーティストの作品を配置したのだが、その中心にルネサンスのヴェネツィア派の代表であるティントレットの絵画三点を展示したのである。その理由は、ティントレットが光の画家であるということだが、これが功を奏して企画展全体に光を行き渡らせた。この場合、光とは信仰というより知性の光であり、聡明で落ち着きのある雰囲気を醸し出した。ティントレットが、というより彼を導きの糸として選んだキュレーターの配慮が浸透した、慎ましやかななかにも一本筋の通った展覧会となったのだ(詳細は次回)。
国別のパビリオンについても、全体にレベルの向上が見られた。ジャルディーニに立ち並ぶビエンナーレの古参国は言うに及ばず、ヴェネツィア市内に散在する多くのパビリオンにおいて、鑑賞に値するレベルの表現に出会えた(アートに対する見方が根本的に変わってきたことが、こうした評価をうながす要因のひとつになっている)。これも、現代アートの知識(光)が、世界中に広まってきた結果と判断できるだろう。
その意味でも、Curigerが掲げた“ILLUMInations”というタイトルがタイムリーだったことは間違いない。アートという光が世界中の国民に届けられる、啓発的にして暗示的なタイトル。もちろん、今回のビエンナーレの成果や美点のすべてが、キュレーターの能力によるものというわけではない。大きく変わろうとしている(日本も、天災とはいえ同じ変化にさらされている)この時代、世界が同一の方向(とはいえ全体主義ではない)に歩み出そうとしているときに、偶然とはいえ、このような展覧会を開催できたCurigerは非常に幸運だった。
最後に、主催者からさまざまな賞が出されているが、私が勝手に選んだ賞を書き留めておきたい。
大賞:ポーランド・パビリオンのYael Bartana
イスラエルのアーティストBartanaの三部作を観るためだけでも、ヴェネツィアに来る価値はある。とくに最終作は、このような展開があったのかと思わず涙ぐむ力作。
新人賞:メキシコ・パビリオンのMelanie Smith
イギリス出身のSmithはすでにキャリアのあるアーティストだが、初めて観たので新人賞。彼女の力量は本物。本当に恐くて危険な作品である。
敢闘賞:台湾パビリオンの"The Heard and the Unheard Soundscape Taiwan"
じつは、台湾は国家として国連で認められていないので、関連企画展だが、視覚ではなく聴覚に焦点を合わせた意表を突く展覧会は、台湾の電子音楽、ノイズ、ハードロック、民衆の抵抗歌を集めて、展覧会に疲れた鑑賞者の目を癒す好企画だった。