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サントリー美術館「歌舞伎座新開場記念展:歌舞伎──江戸の芝居小屋」展

加藤弘子(近世絵画史/東京藝術大学教育研究助手)

2013年02月15日号

 東京ミッドタウンのサントリー美術館で「歌舞伎」展が開幕した。これは4月2日にこけら落とし公演が決まった第5期歌舞伎座の開場を記念した展覧会である。サブタイトルは「江戸の芝居小屋」─江戸時代、〈芝居〉と言えばそれは歌舞伎のことであった。歌舞伎の劇場は〈小屋〉あるいは〈芝居小屋〉と呼ばれ、簡素な仮設の小屋から始まったという歴史がある。

 《上野花見歌舞伎図屏風》(サントリー美術館蔵、2.27〜3.31展示予定)から抜け出した役者たちが踊る垂れ幕に誘われて会場へ足を踏み入れると、近世の芝居小屋から近代の劇場空間が成立するまでの歌舞伎の世界を、豊富な作品群が案内してくれる。会場は3章で構成され、1.劇場空間の成立、2.歌舞伎の名優たち、3.芝居を支える人々と続く。とくに草創期の歌舞伎を伝える絵画作品が充実しており、歌舞伎とは何か、その原点をうかがうことができるのが、ひとつの魅力となっている。


《上野花見歌舞伎図屏風》 伝菱川師宣画 六曲一双のうち左隻
江戸時代 元禄6年(1693)頃 サントリー美術館蔵

 歌舞伎は慶長8年(1603)、京都・北野社で勧進興行を行っていた出雲阿国(いずものおくに)が一世を風靡した「かぶき踊り」に始まる。《阿国歌舞伎図屏風》(重要文化財、京都国立博物館蔵、2.27〜3.11展示予定)は、草創期の歌舞伎を伝える貴重な作品である。舞台は能舞台を転用したもので、役者の通路である橋懸りは見えるが、まだ花道にはなっていない。お囃も笛、小鼓、大鼓、太鼓のみ、三味線のない初期の編成である。入り口は割竹を菱目に編んだ簀戸(すど)で簡素な造りであるが、まわりを囲う竹矢来には筵(むしろ)が張り巡らされ、小屋の外から覗かれないように工夫されている。
 阿国は刀を肩にかけた男装のかぶき者に扮し、道化役の猿若を従えて「茶屋のおかかに七つの恋慕よ、のう」などとたわいのない恋の歌を唄いながら茶屋の女の元へ通う姿を滑稽に舞う。観客席は舞台の目の前、屋根のない開放的な土間席で、さまざまな身分の老若男女が毛氈に座して弁当の重箱を広げ、くつろいだ様子で思い思いにかぶき踊りを楽しむ。開かれた野外空間での遊興、これが草創期の歌舞伎のありようであった。
 〈かぶき〉の語源は〈傾(かぶ)く〉で、慶長8年に刊行された『日葡辞書』には「逸脱した行為をする」「勝手気ままにふるまう」とあり、転じて身なりや振る舞いが華美で常軌を逸していることをも意味する。阿国の踊りが「かぶき踊り」と呼ばれた理由は、まさに彼女のいでたちや踊りが斬新で人目を驚かすものであったからにほかならない。やがて、阿国にまつわる伝説は《阿国歌舞伎草紙》(重要美術品、大和文華館蔵、全期間展示)のように『かぶき草紙』と呼ばれる絵本に描かれるようになる。第1段「念仏踊」では、北野社内の舞台で念仏踊を踊る阿国と、その歌声に誘われて客席から登場するかぶき者・名古屋山三の亡霊を描く。阿国は華やかな衣装で首から鉦を下げ、黒の塗笠を手にした僧の姿、一方の山三はクルス模様の胴着に名護屋帯を締め、首にはきらびやかな数珠をかけている。第2段「茶屋遊び」に登場する阿国は覆面姿で描かれ、梅玉本《かふきのさうし》(重要美術品、松竹大谷図書館蔵、全期間展示)が伝える阿国の姿─紅梅の小袖の上に呉服の華やかな小袖、赤地金襴の羽織、帯、刺高数珠(いらたかじゅず)を首にかけ、金鍔の刀に金の大脇差を撥ね差しにしていたという─を彷彿とさせる。


重要美術品《阿国歌舞伎草紙》一巻(部分)桃山時代 17世紀初 大和文華館蔵

 阿国の人気は多くの追随者を生み、女歌舞伎・遊女歌舞伎が流行する。その一人、采女を描いた《歌舞伎図巻》下巻(重要文化財、徳川美術館蔵、2.6〜25展示予定)は注目の出品作のひとつで、濃密できらびやかな彩色に目を奪われるだろう。画中には、役者だけでなく観客や舞台裏、茶売りの様子まで描かれ、歌舞伎図の重要なモチーフとなっていたことがわかる。芝居小屋はただ歌舞伎を鑑賞するだけの場ではなく、お洒落をして出かけ、最新の流行に触れ、茶や弁当に舌鼓を打ち、芝居談義に花を咲かせる、ときには喧嘩見物もできる遊興の場だったのである。


重要文化財《歌舞伎図巻》二巻のうち下巻(部分)江戸時代 17世紀
徳川美術館蔵
©徳川美術館イメージアーカイブ/DNPartcom

 遊女歌舞伎は「総踊り」と呼ばれた群舞が人気を呼び絵画化されているが、風俗を乱すとして寛永6年(1629)に禁令が出る。それを受けて美しい少年による若衆歌舞伎がより盛んになるが、これも衆道(しゅどう=男色)の対象となっていたため承応元年(1652)に禁じられ、以後は前髪を剃り落とした月代(さかやき)姿の野郎歌舞伎の時代となる。草創の精神を受け継いであくまでも華美を追及し、庶民が日頃の憂さを晴らす歌舞伎は遊郭とともに二大悪所とされ、江戸時代を通じて幕府による取り締まりの対象であった。天保の改革で処罰された七代目市川團十郎が愛した「鎌〇ぬ」柄の《朱漆塗りたばこ盆》(たばこと塩の博物館蔵、2.6〜3.4展示予定)や、役者の似顔絵禁止に対して落書きを装って描いた歌川国芳《荷宝蔵壁のむだ書》(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵、3.6〜18展示予定)には、見た目のユーモアや可笑しさとはうらはらに、厳しい弾圧をくぐり抜けてきた一流の歌舞伎役者と浮世絵師の強い精神性を感じる。
 歌舞伎に関する展覧会はこれまでもたびたび開催されてきたが、従来とは異なる本展の面白さは、歌舞伎の大きな特徴のひとつとして〈役者〉と〈観客〉の応酬に注目し、両者を結ぶ場として〈劇場〉すなわち〈小屋〉を捉えた視点にあるだろう。担当学芸員の池田芙美氏は「江戸時代の芝居小屋において、観客は役者と並ぶ、もうひとつの主役であった」(「観客たちの芝居小屋」、『歌舞伎展』図録)と述べ、観客は場内に華を添えるべく積極的に芝居に参加し、自分たちが芝居を支えているという強い自負があったと指摘する。そして、こうした観客意識への転換期を、全蓋式の常設小屋が誕生し、今日の歌舞伎劇場の基本形式が揃った享保期にみている。
 享保の改革以後、江戸・京都・大坂の三都では幕府の許可制による常芝居が始まり、江戸では中村座、市村座、森田座、山村座の興行が許された。花道を設え、全体を板葺屋根で覆った常設小屋の誕生であり、開かれた野外空間から閉じられた室内空間への転換である。中村座の場内を描いた鳥居清経《芝居狂言浮絵『百夜草鎌倉往来』》(神戸市立博物館蔵、2.6〜3.4展示予定)は透視図を駆使した浮絵で、舞台とともに客席まで詳細に描かれる。升席にひしめき合う観客たちは、煙草をのみながら銘々に芝居を楽しんでいる様子であるが、中には取っ組み合いの喧嘩を始める狼藉者もみられ、観客の描写にも役者同様、最大の関心が払われている。歌舞伎の舞台は花道のある客席まで含み横幅が広く奥行きも深いため、それを一枚の画に収めようとするとひとつひとつのモチーフが小さくなってしまうが、この点、歌川豊国《芝居大繁昌之図》(国立劇場蔵、2.6〜3.4展示予定)のような3枚続きの浮絵は大画面を実現し、歌舞伎の劇場図にふさわしい形式であった。


《役者はんじ物 市川團十郎》歌川国貞画、大判錦絵
江戸時代、文化9年(1812)、千葉市美術館蔵(〜2.25展示予定)


『江戸客気團十郎贔負』 烏亭焉馬著 一冊 江戸時代 天明9年(1789)
国立国会図書館蔵(3.6〜31展示予定)

 そもそも歌舞伎においては舞台と観客席との境界が曖昧で、役者と観客の距離が非常に近いという特徴がある。西欧近代の劇場は額縁のようなプロセニアム・アーチによって明確に舞台と観客席とは区分されるが、歌舞伎の場合は時代を経るごとに舞台空間が広がり、花道が観客席の間を通り抜け、付舞台が観客席に張り出す形式へと展開した。大入りの際には「羅漢台」「吉野」などと呼ばれる席が舞台上に設けられ、幕間には舞台裏の様子が楽しめると、通に好まれたという。「待ってました!」「成田屋!」(市川團十郎)といった掛け声による観客と役者の応酬も、こうした舞台構造と密接に関わって展開してきたのである。
 江戸時代の芝居小屋は現代の歌舞伎の原点であり、第5期歌舞伎座の新出発にあたり、本展はその歴史と精神を回顧するまたとない機会である。中村勘三郎、市川團十郎と名優の訃報が相次ぎ、危機と囁かれる歌舞伎界であるが、ここで役者・観客共々原点に立ち返り、新たな〈小屋〉を大きく揺り動かす〈芝居〉を創出することを切に願う。

歌舞伎座新開場記念展:歌舞伎──江戸の芝居小屋

会期:2013年2月6日(水)〜2013年3月31日(日)
会場:サントリー美術館
東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア3階/Tel. 03-3479-8600

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