フォーカス

〈統御された崇高〉の美学──アンドレアス・グルスキー展レビュー

竹峰義和(東京大学大学院総合文化研究科准教授/近現代ドイツ思想史、映像文化論)

2013年07月15日号

 幾何学的なグリッドによって区切られた空間。文様をなすように蝟集する人々や事物。オールオーバーな平面に点在する色彩やフォルム。ときに3メートル以上におよぶ巨大写真の数々が屹立するさまは、ほとんど崇高と呼びたくなるような圧倒的な存在感をもって鑑賞者に迫ってくる。

 新国立美術館で開催されている「アンドレアス・グルスキー展」は、まずは各作品の大きさによってわれわれを圧倒する。ときに抽象表現主義絵画を、ときにミニマルアートを想起させるようなパターンがフラットな大画面で展開される、スペクタクルかつ謎めいた光景に一瞬息を飲んだあと、さらに目を凝らして作品を眺めるならば、無数の人々や事物、家畜、建築物、家具、商品、土、さらには島、海洋、河川など、すべてが現実の対象によって織りなされていることが分かる。さらに、やや遠いところに掲げられた表題から、それが南極大陸やカーペット、バーレーンのサーキットなどを撮影したものであるという情報を得るのだが、だからといって作品の謎が一挙に解明されるというわけではない。衛星撮影された南極大陸は、濃紺のキャンバスのうえに垂らされた白い絵具かペンキのように、接写されたカーペットは広大な砂漠のように、俯瞰で撮られたサーキットは抽象絵画のように、なおも見えつづけるのであり、二次元と三次元、具象と抽象、極小と極大、現実と仮象、近さと遠さといった対立項が揚棄され、まったく新たな視覚体験がもたらされる。
 全部で65点を数える「アンドレアス・グルスキー展」の展示作品のなかで、きわめて頻繁に登場するモティーフのひとつが、群衆である。黒背広の証券マンが蝟集する東京証券取引所、モンパルナスのメーデー、マドンナのコンサート、ピョンヤンのマスゲームにいたるまで、夥しい数の匿名の人間が群れをなして集まる光景に、グルスキーは好んでカメラを向ける。小さな人々が一種の集合的身体となって幾何学的模様を構成する姿は、まさにジークフリート・クラカウアーのいう「大衆の装飾」をなしていると言えようが、しかしながら、細部にいたるまで精確にピントが合っているために、近い距離から鑑賞すると、被写体とされた個々人の表情や仕草を観察することもできる。人間の肉眼には絶対に不可能であるような、巨視的でありながらも微視的な視覚。それはまさに「神の視覚」と呼ぶにふさわしい。そこで時間はいっさいの動きをとめ、永遠性のなかで定着された一瞬の相貌を、われわれのまなざしに向けて晒しつづけるのである。
 だが、「神の視覚」によって開示されるグルスキー的瞬間は、ふとした偶然によってカメラに収められたわけではまったくない。それは、テクノロジーを駆使しつつ、周到な計算と綿密な加工作業を重ねるなかでつくりだされた、徹底的な人為の所産にほかならない。くまなく完璧に造形された画像は、その視覚的印象が強烈であればあるほど、デジタル技術による合成、彩色、トリミングといった操作の手が幾重にも加わっていることを、いっそう強く意識させられる。そして、しばしば指摘されるように、グルスキーの写真がときに絵画作品を連想させるのも、意図的に狙った効果であると言うべきだろう。ゴミ山を写した《無題XIII》(2002)がジャクソン・ポロックを、ピラミッドを写した《クフ》(2005)がパウル・クレーを、この展覧会のポスターにもなっている《カミオカンデ》(2007)がカスパー・ダーフィト・フリードリヒを想起させるのは、けっして偶然ではない。要するにグルスキーは、最先端のデジタル技術を媒介として、写真という複製技術時代の芸術メディアを、絵画という古い表現形式に擬態させるのであり、過去へと遡行するベクトルと未来へと向かうベクトルとの交点のうちにおのれの作品を位置づけるのだ。


1──《ピョンヤン Ⅰ》2007年、タイプCプリント、307×215.5×6.2cm


2──《カミオカンデ》2007年、タイプCプリント、228.2×367.2×6.2cm

 もっとも、グルスキーの写真が志向しているのは、絵画との類似性に限られるわけではないだろう。各作品を前にたたずんでいると、ほかにもさまざまな連想や解釈が次々に浮かんでくる。たとえば、色鮮やかなパッケージの駄菓子が並ぶアメリカのスーパーマーケットを撮影した《99セント》(1999)は、商品資本主義社会のファンタスマゴリー的な輝きを表現しているのだろうか? それとも純粋な視覚的審美性を追求しているのか? 油膜で光るバンコク市内のドブ川を写した連作《バンコク》(2011)は、汚物と美との表層上の弁証法的反転を演出しているのか? それともアジア圏の急速な経済発展の裏で容赦なく進行する環境汚染を密かに告発しているのか? おのれのイメージを完璧にコントロールしようとするグルスキーだが、鑑賞者に対しては自由なアプローチを全面的に許容しているように思われる。成立年順というクロノロジックな順序ではなく、敢えてランダムに展示されたそれぞれの画像に対してわれわれは、遠くから眺めようとも、近くに寄って細部を見つめようとも、過去の絵画を連想しようとも、何らかの社会批判的なメッセージを読み取ろうとも、視覚的快楽に身をゆだねようとも、いっこうに構わない。おそらく、画面上にみなぎる統御への強烈な意志にもかかわらず、多義的な読みに対して開かれてもいるというその矛盾的様態こそが、グルスキー作品の最大の魅力のひとつをなしているのではないだろうか。
 観賞者を呑みこむような圧倒的な大きさ、巨視と微視とが並存する「神の視点」、それに徹底的に彫琢された画面によって特徴づけられるグルスキーの写真。それは〈統御された崇高〉の美学とでも呼びうるような原理によって裏打ちされていると言えるだろう。だが、いかにそれが自由な解釈の余地を残しているとはいえ、「パーフェクトな画像」★1が壁画のようにそびえる空間のなかを逍遥していると、ちょっとした息苦しさを感じることも事実である。そのようななかで、巨大写真群に挟まれるようにして展示された、比較的小さいサイズの初期作品に行き当たると、かすかな安堵感を覚える。幾何学的な構成、画面に点在する小さな人々、絵画への親和性、鮮やかな色彩のコントラストなど、のちの作品を予感させる要素を十全に備えていながらも、統御への意志がいまだ貫徹されておらず、偶発性をわずかに残したその隙に、何となくほっとさせられるのだ。もっとも、ロラン・バルトであれば「プンクトゥム」と呼ぶであろうそうした〈ゆるさ〉の経験を、なおも写真作品に期待してしまうのは、グルスキー作品に象徴されるデジタル写真時代において決定的に失われつつある〈アウラ〉への、時代錯誤的な未練なのかもしれないが。


3──《99 セント》1999年、タイプCプリント、207×325×6.2cm


4──《F1 ピットストップ Ⅳ》2007年、インクジェット・プリント、186.8×506.5×6.2cm


5──《バーレーンⅠ》2005年、タイプCプリント、306×221.5×6.2cm
以上すべて、©ANDREAS GURSKY / JASPAR, 2013
Courtesy SPRÜTH MAGERS BERLIN LONDON

★1──河合純枝「アンドレアス・グルスキー 完璧なる画面に宿る「視覚の二重フーガ」『美術手帖』vol.64, No.971(2012年8月)、34頁。

アンドレアス・グルスキー展

会期:2013年7月3日(水)〜9月16日(月・祝)
会場:国立新美術館
東京都港区六本木7-22-2/Tel. 03-5777-8600(ハローダイヤル)

会期:2014年2月1日(土)〜5月11日(日)
会場:国立国際美術館
大阪府大阪市北区中之島4-2-55/Tel. 06-6447-4680

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