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民家のガンバリと力強さ──「日本の民家一九五五年──二川幸夫・建築写真の原点」レビュー

飯沢耕太郎(写真評論)

2014年02月15日号

 1954年代前半、早稲田大学文学部に在学して美術史を学んでいた二川幸夫(1932~2013)は、建築史の教授だった田辺泰に、帰省の途中で飛騨・高山の民家、日下部礼一家を見るように勧められた。それが、将来は建築家になろうと考えていた一人の若者の運命を変えることになる。名大工、川尻治助による旧家の、美しく、堂々たるたたずまいを目にしたことで、彼の中に日本の民家をつぶさに見てみたいという強い欲求が生じてきたのだ。それから5年あまりをかけて、二川は東北から九州まで全国各地を行脚し、民家の内部空間とそれを取り巻く環境全体を克明にカメラにおさめていった。

 発表するあてもなく、ただただ押えがたい情熱に揺り動かされて撮り続けていたこれらの写真記録を高く評価し、写真集として刊行しようと考えたのが、美術出版社社長の大下正男だった。美術出版社から刊行された『日本の民家』(全10巻、1957-59)は、二川にとっても、日本の建築写真の歴史においても、記念碑的な出版物となる。気鋭の建築史家、伊藤ていじ(1922-2010)による画期的な論考を付したこの写真集シリーズは、1959年に毎日出版文化賞を受賞した。以後、二川は建築写真家として日本だけではなく世界各地に撮影の範囲を広げ、自らが主宰するA.D.A.EDITA TOKYOから建築雑誌『GA』をはじめとして、次々に出版物を刊行して、国際的なスケールで活動を展開するようになるのである。『日本の民家』は、まさに彼の「建築写真の原点」といえる。
 今回の青森県立美術館での展覧会「日本の民家 一九五五年」は、その『日本の民家』の収録作約280点から、二川幸夫本人が2012年にセレクトして、デジタル出力でプリントした72点で構成される。二川が2013年に逝去したので、これが文字通り彼の最後の仕事となった。
 会場構成を担当したのは、2012年のヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞した日本館の参加建築家の一人だった、若手建築家の藤本壮介である。『日本の民家』の各巻の構成に沿って「京・山城」、「大和・河内」、「山陽路」、「四国路」、「西海路」、「陸羽・岩代」、「武蔵・両毛」、「信州・甲州」、「北陸路」、「高山・白川」の10部で構成する。写真パネルを天井からランダムに吊るして配置し、それぞれにスポット照明を当てて、建物の間を自由に縫って歩き回るような経験を巧みに再現していた。


写真=二川幸夫「愛媛県南宇和郡西海町、外泊集落」1950年代


展示風景
Photo: Yoshio Futagawa

 写真を見ながら強く感じたのは、1950年代というこの時期に、二川や伊藤が日本の民家建築の持つ意味に着目したことの重要性である。もともと、日本の民衆の伝統的な住環境を「民家」という概念で捉え直そうとしたのは、柳田國男らの民俗学が最初だった。1916年に柳田を会長として設立された白茅会が、民家を本格的に調査しはじめたことが知られている。だが、二川や伊藤のアプローチは、民俗学やその派生系といってよい今和次郎の考現学のそれとは明らかに違っている。そのことは、二川が『日本の民家』の合本(1962)に、民家を撮りはじめたきっかけについて、次のように述べていることからもわかるだろう。
「人間生活とともに長い歴史を生きつづけてきた民家のガンバリと力強さ、私は民家のなかに民衆の働きと知恵の蓄積を発見し、この現在に生きつづけているすばらしい過去の遺産を、自分の手で記録しようと思いたった」
 たしかに、日本社会が戦後復興から高度経済成長へと踏み込みはじめていたこの時期において、民家は「過去の遺産」には違いない。だが、敗戦後10年の1950年代では、それらはまだ居住・生活空間として充分に「現在に生きつづけて」いたのだ。実際に、今回展示された写真を見ると、「民家園」のような場所に修復・保存され、展示物として鑑賞されるようになった現在の民家のあり方とはまったく異なる、ダイナミックな生命力のうねりを感じとることができる。
 「民家のガンバリと力強さ」は、そこに住む人々の生活の痕跡を生々しく写し込んだカメラアングルや、黒光りする柱や板壁のディテールを手で触るように写しとっていく視点のとり方に、明確にあらわれていると言えるだろう。二川は、民家を標本のように抽出して捉えようとはしていない。あくまでも周囲の環境と一体化した、人々の暮らしを支える居住空間として撮影しているのだ。


写真=二川幸夫「石川県輪島市町野町、時国宏家の大黒柱」1950年代


写真=二川幸夫「山形県蔵王村、民家の妻破風」1950年代

 もう一つ、展示を見て強く感じたのは、二川幸夫の「建築写真家」としての位置付けである。以前から、建築写真には大きく分けて2種類があると思っていた。建築物を自らの作品世界を構築するための素材として捉え、表現性を強く打ち出していくタイプと、それらをあくまでも客観的な記録として撮影し、資料として活用しようとしていくタイプである。前者の代表としては、たとえば石元泰博の『桂』(1960)や山田脩二の『日本村1966-1979』(1979)が挙げられるだろう。宮本隆司の『建築の黙示録』(1988)や柴田敏雄の『日本典型』(1992)なども、そこに加えてもいいかもしれない。そして、一般の建築雑誌に掲載される建築写真や、いわゆる「竣工写真」は後者の典型といえる。
 ところが、二川の『日本の民家』はそのどちらでもない。石元や山田のような過度の自己主張は注意深く避けられているが、かといって無味乾燥なドキュメントとも思えない。どの写真を見ても、三次元空間を二次元平面の画像に翻訳・変換していく手つき、民家を照らし出し浮かび上がらせる光に対する配慮などに、細やかで力強い美意識を感じとることができるからだ。二川の写真は、青森県立美術館のような、スケールの大きな展示空間に配置されても、それと充分に拮抗できる強度を備えているのだ。
 建築写真ではないが、土門拳が撮影した仏像の写真を見ると、実際に被写体になった仏像を見た時にがっかりするという話をよく聞く。土門の強引な解釈によって、仏像の形象がかなり誇張されて伝わることがよくあるからだ。二川の民家の写真には、そのような歪みはあまりないのではないか。彼が民家を目にして実際にその中に入り込んだ時の初発的な歓びと感動が、だがきわめて冷静かつ的確に画像化されているからだ。まずは記録としての機能をきちんと果たしながら、若々しい表現意欲のみなぎりもまたしっかりと感じとることができる──二川の『日本の民家』がそんな写真作品として成立していることが、僕にとっては嬉しい驚きだった。
 残念ながら、二川幸夫の長期間にわたる膨大な量の建築写真の仕事を、日本の写真表現の歴史の中にきちんと位置づける試みは、これまでほとんどなかったのではないかと思う。それを今後の大きな課題としなければならないと強く思いながら、雪景色に包み込まれた青森県立美術館を後にした。

日本の民家一九五五年──二川幸夫・建築写真の原点

会期:2013年12月14日(土)〜2014年3月30日(日)
会場:青森県立美術館
青森市安田字近野185/Tel. 017-783-3000

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