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不協和のなかに生成するもの:「ふぞろいなハーモニー」展から

吉岡洋(美学者/京都大学大学院文学研究科教授)

2016年01月15日号

 ソウルから広島、そして台北へと巡回する、東アジア現代美術のグループ展である。日本語タイトルは「ふぞろいなハーモニー」。そうしたことを念頭に会場に足を踏み入れると、まず最初の部屋の中央に置かれた、不思議な物体に遭遇する。324個のリング状の磁石を組み立てた、ク・ジョンアの立体作品である。何かしら「アジア的」な作品を期待していた人は、そうした地域性とは無関係にみえるこのオブジェに、まず迎えられる。これはいわば、展示空間に不可視の強い磁場を放出する、穴の空いた「モノリス」のような存在である。タイトルは《あなたのすることを、あなたはなぜするの("Why do you do what you do")》。「あなたはなぜそれをするの(Why do you do that)」ではない。磁界によって言葉の正常な働きがズレたかのようなこの冗長な言い回しが、あなたはなぜ「アジア的」なものを期待しているの? と問いかけているように感じられる。


ク・ジョンア《あなたのすることを、あなたはなぜするの》2015
「ふぞろいなハーモニー」アート・ソンジェ・センター(ソウル、2015)での展示
©Koo Jeong A, Courtesy of the artist, Photo by Sang-tae Kim

「アジア」という徴

 「アジア」とは、たんなる地域の呼び名ではない。「アジア」とは特定の価値付けを伴った徴(しるし)である。そしてその徴はもちろん、西洋によって与えられたものである。けれどもこの贈与は一方的なものではない。「アジア」を名指すことによって、西洋はみずからのアイデンティティを形成し、それによって西洋もまた西洋になることができたのである。一方名指された側も、「アジア」など勝手な押し付けだと言って単純にこの名称を返納することはできない。日本の帝国主義においてもそうであったように、西洋の支配に対抗しようとすると、「アジア」や「アジア的なもの」に依拠せざるをえない。だがアジアに何らかの「本質」を見出そうとするこのような態度は、実はより深く西洋的になることを意味している。さらに「アジア」という観念についてこのように反省的に思考すること自体も、西洋近代から学び取られた身振りなのである。
 「アジア」は西洋によって分断され、媒介されている。このことは基本的事実であり、不可逆的な構造であって、すべてはそこから出発しなければならない。分断されることと媒介されることは、同じひとつのことである。分かりやすい例をあげるなら、たとえば私たちは英語によって分断・媒介されている。多くの日本人は、韓国のあるいは台湾の友人たちと話すとき、英語を使うことになる。そこには常に、それぞれの母語と英語との距離があり、いわば二重の距離が生じている。これが分断である。いっぽう、またこの二重の距離によってのみ、私たちは結びつけられている。これが媒介である。ただしここで「英語」と言っているのはひとつの喩えであり、実際には西洋語を介さず直接コミュニケーションしたとしても、それを可能にしている基本概念 ——たとえば「美術」—— が西洋起源のものであるかぎり、西洋による分断・媒介という基本構造は残る。
 この展覧会はもともと、韓国のゲーテ・インスティトゥート東アジア部門が発案し、中国、韓国、台湾、日本のキュレータに呼びかけ、かなりの議論を積み重ねた上に実現したものである。集客戦略が透けて見えるような促成美術展の横行する今、この丁寧な企画作業には深い敬意を表したい。とはいえ、東アジアについて考える試みが西洋の文化組織によって提案され、またそれが「美術」というきわめて西洋的な概念によって可能になっていることはどうなのだ?というような疑念を抱く人もいるかもしれない。この問いはミスリーディングだと私は思う。なぜならこの問いは、まるで西洋にも西洋的概念にも依存しない「アジア的」なやり方があることを示唆しているように思えるが、こうした考え方こそ西洋的空想にほからならないからである。

不協和のなかの手がかり



「ふぞろいなハーモニー」展フライヤー

 展覧会のタイトル「ふぞろいなハーモニー("Discordant Harmony")」もまた、こうした事態を考えるためのひとつのきっかけとなりうる。"Discordant"が「不協和」を意味し明らかに聴覚的な連想を伴うのに対して、「ふぞろい」という日本語は視覚的な印象が強い(「ふぞろいの林檎たち」という昔のテレビドラマのタイトルを連想する人もいるかもしれない)。"Discordant Harmony"という英語のフレーズは、好き嫌いは別として、ひとつの逆説を含んだ表現として意味に隙間がなく、完全である。それに比べて「ふぞろいなハーモニー」という組み合わせには一種のノイズが混入しており、どことなく据わりの悪い響きが残る。優劣を言っているのではない。このノイズの混入、この不協和(discord)にこそ、「アジア」について本質主義に陥ることなく考えるための、手ががりがあると私は思っているのである。

 田中功起による映像作品は、まるでそのことを具体的に描き出しているようにも思える。そこでは5人のピアニストがひとつのピアノを弾く、5人の陶芸家がひとつの陶器を作るといった、理想的な「ハーモニー」など生じようのない無理な課題が与えられる。彼らは話し合いと試行錯誤を重ねるが、もちろんよくあるテレビ番組のように「不可能とも思えた課題を最後には見事達成しました!」などとはならない。むしろ、その種のテレビ的・ハリウッド的な「調和」「達成」の物語によって、共同作業に対する私たちの現実感覚はいかに鈍らされていることだろうか。そうしたことを反省させる。


田中功起《ひとつの陶器を五人の陶芸家が作る(沈黙による試み)》2013
©Tanaka Koki, Courtesy of the artist, Vitamin Creative Space, Guangzhou and Aoyama Meguro, Tokyo

歴史と個人の体験

  歴史的経験に具体的に踏み込んだ作品も、きわめて興味深い。たとえば郝敬班(ハオ・ジンバン)の《私は踊れない》で扱われているテーマは、社交ダンスの持つ「政治性」である。その起源である西洋よりも、植民地や強力な欧化政策がとられた非西洋において、社交ダンスの政治性は、優越した文明との同一化をアピールする手段として、きわめて露わになる。このことは特定の国の特定の時代に限られたエピソードではなく、非西洋世界の近代化に伴う普遍的な現象である。たとえば、もはや歴史的記憶の彼方に遠のいているかもしれない日本の鹿鳴館時代を、1950年代の北京に焦点を当てたこの映像作品を通して、生々しく想像してみることができるかもしれない。


郝敬班《私は踊れない》2015
©Hao Jingban, Courtesy of the artist

 アジアの歴史を再現する映像作品としてさらに強烈な印象を残すのは、陳界仁(チェン・ジエレン)の《帝国の境界Ⅱ—西方公司》である。この作品は、1960年生まれの作者自身が参加した「反共救国軍(Anti-Communist National Salvation Army)」の経験に基づくものであるが、重要なのはそれが、それより前に同じ軍にいた彼の父の経験と重ね合わされていることである。ご存知のようにアメリカ合衆国は、1950年の朝鮮戦争勃発を機に東アジアの反共産主義政策を見直し、台湾を重要な反共防衛の拠点として位置づけることになる。台湾には戒厳令が敷かれ、それは1987年まで38年間続くのだが、その間に生じた国際情勢の大きな変化に伴って、当初は真剣な活動であったこの「反共救国軍」はしだいに形骸化し、やがては不条理演劇のような何かへと変質してゆく。その結果、父と息子は同じ軍隊をまったく異なったものとして経験することになるのである。


陳界仁《帝国の境界II - 西方公司》2010
©Chen Chieh- Jen, Courtesy of the artist

 「ふぞろいなハーモニー」には美術展示のほかに、4名のキュレータが関連するテーマについてそれぞれ2名ずつのアーティストや研究者に行ったインタヴュー記録があり、それは会場で上映されるとともに、ネット上でも独英韓日の字幕付きで公開されている。それぞれに興味深い内容であり、展覧会を見に行けない方はこのインタヴュー映像だけでもぜひご覧になることをお薦めしたい。中でも上述の陳界仁自身の話は、きわめて率直な語り口で台湾の戦後史を回想するすばらしいものである。1980年代に「反共救国軍」に入隊した彼は、もはや自分たちが何に対して何を護っているのか分からなかった、と言う。にもかかわらず、アメリカから支給された軍服や銃などは台湾の国軍のそれとははっきり異なっており、自分たちが「西洋(アメリカ)の力を代行する特別な軍隊」であるというタテマエだけは存続した。このような経験もまた、けっしてひとつの国や時代に限られた特殊なものではない。

ふぞろいなハーモニーが導く場所へ

 「アジア」について語ること、自分が「アジア人」であると言う行為には、どこまでいってもスッキリしない感じが残る。まるで西洋人の軍服を着せられ誰と戦うのかが不明な戦闘訓練を受けているように、「アジア」について語れ、それはお前自身のことではないか? と言われているみたいである。そうした経験には常にノイズ的なもの、不協和あるいは不整合(ふぞろい)なものが混入していると感じられる。けれども、その居心地の悪さから脱する方向に希望があるとは思えない。私はむしろ、そうしたノイズ、不協和、不整合とみえる要素を通じて、分断されたものの新たな媒介を模索する方向に可能性を感じており、この展覧会全体を、そのように読んだ。

 最後の部屋の作品は、展覧会中もっとも直接的な意味で「ハーモニー」に関わるものであるが、自分のそうした読解を支持してくれるものだと、私は勝手に解釈した。それはクォン・ビョンジュンの音響インスタレーション《鐘:打振の周波》である。これは朝鮮の寺院にある伝統的な鐘が、その形態が非対称的であるがゆえに長い共鳴音が続く「マッノリ」という不思議な現象を、電子的に再現したものである。非対称(ふぞろい)なものが示す、複雑で思いかげない秩序や合理性。そうした考えとともに「アジア」という語を使うことは、西洋的基準からの偏差や遅滞として「アジア」とか、エキゾチックに理想化される「アジア的調和」といった幻想とは、あきらかに異なった場所へと私たちを導いてくれるように思えるからである。


クォン・ビョンジュン《鐘:打振の周波》2015
広島市現代美術館での展示風景
撮影:鹿田義彦

被爆70周年 ヒロシマを見つめる三部作 第3部「ふぞろいなハーモニー」展
会期:2015年12月19日(土)〜2016年3月6日(日)
会場:広島市現代美術館
広島市南区比治山公園1-1/Tel. 082-264-1121
主催:広島市現代美術館、中国新聞社
企画・助成:ゲーテ・インスティトゥート