フォーカス
芸術作品における「魅惑の形式」のための試論
上妻世海(作家・キュレーター)
2016年10月15日号
対象美術館
インターネットが偏在化した同時代の多様な表現を示した「世界制作のプロトタイプ」展(東京・HIGURE 17 -15cas、2015)の企画者である作家・キュレーターの上妻世海氏が、現在開催中の「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭」(2016年9月17日〜11月20日)のプレスツアーに参加した。
「魅惑」から始まる自律しながら併存する異なる物語へのトランスポーテーション──人類学からオブジェクト指向存在論まで、思想史を縦横無尽に編成しながら、「芸術祭」というシステムと「芸術作品」の時間をめぐって思索する。
1──「旅という態度」と「芸術祭」の現在性
茨城県北芸術祭のプレスツアーのバスに揺られながら、僕はぼんやりこんな言葉を思い出していた。
旅をするとは、何かを言うためにどこかに出かけて行き、また何かを述べるために帰ってくることにほかならない。行ったきり帰ってこないか、向こうに小屋でも建てて住むのであれば話は別ですけどね。だから、私はとても旅をしようという気になれない。
。ジル・ドゥルーズの言葉である。僕は彼の言葉を頭の中で何度も反芻しながら、同時にその意味を考えていた。どうしてこんなにも旅というものは気乗りしないものなのだろう? と。
気がつくと、展覧会場のひとつである御岩神社に到着していた。澄んだ空気のなかで、岩に張り付いた苔の鮮やかさ、傍を流れる小川の涼しげな音に気づいて、ずいぶん遠くに来てしまったと実感する。数人のカメラマンがパシャパシャと作品が配置された風景を写真に収めていた(その内の何枚かはSNS上に載せられるのだろう)。
僕はどこか居心地の悪さを感じている。やはり「旅という態度」が各々のモノたちに真摯に向き合えなくしているのではないか? と些末な疑問を抱く。思えば綿密にスケジュールが組まれた修学旅行も、カラフルで騒がしい旅行雑誌も僕は昔から馴染めなかった。壮大な杉林の前に立つと、無意識にこの場所が持つ「時間」ともっとたくさんの仕方で関係を結びたいと「身体」が惹き寄せられていることに気がつく。SNS映えするフォトジェニックな作品を置くまでもなく、この場所が持つ人との協働によって繊細に積み重ねられた「時間」を少しでも感じたいと思う。
しかし、遠くの方で僕たちを呼ぶ声が聴こえる。次の会場へと急ぐバスが僕たちを待っていた。僕は先導され、バスへ向かう。
それにしても腹が減った。
僕ははたと東京での生活を思い出した。僕はお腹が空いたとき、近所の牛丼チェーンに入り、電子パネルで「商品」を注文する。あるいは僕は「牛丼」に飽きたときは「チーズ牛丼」や「キムチ牛丼」を注文する。一般的な「牛丼」と「牛丼」という集合の中の特殊な部分集合としての「チーズ牛丼」。とても抽象的で便利だ。そして、それを、僕は否定できない。現代社会は日常で五感を用いる必要性をなるべく排除し、抽象的な操作で生活することができるようシステムを整えてくれる。「一般性」と「特殊性」の組み合わせを、貨幣という共通基準に基いて、効率的に均質に画一的に交換-操作可能にすること、それこそが近代資本主義の基本的枠組みなのである。
そうではなく、仮に僕が目の前で、具体的に牛の狩猟から調理までを見ている(内臓の匂いを嗅ぎ、肉を裂き骨を砕く音を聞いている)なら、「牛」も「血」も「肉」も、それ以外のものではあり得ぬ生々しい「実体」をもって、僕の情動と身体と結びついてしまうだろう。そうなってしまうと、もはや「牛丼」は「商品」としての代替可能性を失ってしまう。もし一度「この牛」をありありと感じてしまえば、僕たちは食べるとき、「この牛」に心から敬意を払い、祭壇をつくり、踊りを舞うことで、「神」に何かを返そうと考えざるを得なくなるだろう。それは「秘密」を伴う意味深いものとなり、ある目的に対して「早い」「安い」「旨い」などと言っていられなくなる。
現代社会は日常で五感を用いる必要性をなるべく排除し、抽象的な操作で生活することができるようシステムを整えている。しかし、マルティン・ハイデガーによると、それは現代において特有のことではない。彼の有名な道具分析は、僕たちが日常において物事を意識のうえで現象として扱っていないことを教えてくれる
。僕たちはモノが壊れるまで意識/現象にほとんど頼っていない。ハンマーは壊れるか、棘が出ているなどして掌に痛みを生じさせたり、重すぎて持てなかったりしない限り、知覚されることはない。僕たちは地震や氷の上を歩かない限り地面を意識することはない。内臓は病に罹り機能不全にならない限り意識されない。これはすべて事実である。モノは意識のうえで現象として扱われるというよりも、その都度、なんらかの目的によってネットワーク化(道具連関)されることによって、実践的に捉えられる。霜山博也氏はハイデガーの道具分析における空間性を次のように論じている。
そのつどの目的を持った配慮的な気遣いに応じて、それぞれの道具の関係性は変化するのであり、現存在にとっての《近さ》や《遠さ》も変化するのだ。
配慮的な気遣いの変化によって遠ざかりは奪取され、さまざまな道具がこれまでとはことなった関係性に置かれる。ハイデガーにとっての距離とは、現存在の配慮的な気遣いによる目的にとっての《近さ》や《遠さ》であり、質的な意味や価値を持ったものである。
つまり、目的が変われば、その道具の使用方法も変化するのだ。それは、客観的あるいは科学的な距離とは何の関係もない。日常空間は「近さ」や「遠さ」を目的に応じて多様な仕方で変化するシステムであり、質的に変容する空間なのである。
そのように考えると「芸術祭」は目的を持ったシステムとして作品をネットワーク的に関係づけているといえる。茨城県北芸術祭総合ディレクターの南條史生氏は、開催に寄せて「今この地域は人口が減少し、経済が縮小している。しかしこの芸術祭が魅力的であれば、遠方からも多くの観客が訪れ、経済的にも多少得るものがあるだろう。それはこの芸術祭が観光資源としても重要な役割を果たすことを意味している。」と記しているし
、また彼はメディアアーティストの落合陽一氏との対談でも「日本の芸術祭は地元のため、経済のため、ツーリズムのためにとか、より広い人々のためにやっているという意識があるかもしれない。」と述べている 。しかし、この目的設定は、南條が考えるように「日本的なもの」であるというよりむしろ、高度資本主義が生み出した情報社会的態度にすぎない、と筆者は考える。理論家のボリス・グロイスは現代において旅行やSNSによって余暇が仕事のように「活動的」になっていることを指摘している。
今日の社会はスペクタクル社会とは違っている。余暇の時間において、人々は働いているのである──彼らは旅行し、スポーツやエクササイズに興じている。彼らは読書しないが、FacebookやTwitter、あるいはほかのソーシャルメディアに書き込む。彼らはアートを鑑賞しないが、写真やビデオを撮り、家族や友人に送る。実際、人々はとても活動的になっている。
ここには共犯関係がある。「旅という態度」は、情報社会が持つ目的の下で、構造化されたネットワークを内面化した「身体」を用いて、「超都市」である東京と「地方」である茨城の「差異」を、一般性に対する特殊性として、SNSを通じて他者に向けて消費する態度である。一方、「芸術祭」側は「芸術」という「差異」によって、動員のキッカケをつくる。それは西欧/日本という対比のなかで浮き彫りになる日本の独自の芸術観などではなく、スペクタクル社会以降の情報社会のなかで全面化した社会環境に迎合した結果にすぎない。
そして同時に、僕はこのような構造のうえではすべての「差異」が交換可能であることに気がつく。つまり、この視点からみると動員装置となる「差異」があれば良いのであって、その「差異自体」の性質は問題にならないのだ。つまり、動員装置として「芸術」が選ばれた必然性がまるで存在しない。
しかし、「芸術祭」と銘打たれている限り、それは看過できない問題であるように思われる。何故なら近代以降、美術史とは「自律性」と「関係性」のあいだの緊張の歴史でもあり「芸術」の自律性をまったく考慮しないものは定義上「芸術」であると言えないからである。