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日本のアーティスト・イン・レジデンス 隆盛のなかでの課題

菅野幸子(アーツ・プランナー/リサーチャー)

2017年09月15日号

 現在、日本国内には60以上のアーティスト・イン・レジデンス(以下、AIR)の拠点がある。規模も場所、分野、活動内容もさまざまな多様性があるが、この多様性こそAIRの最大の特長でもあり、面白さでもある。日本では、常に地域振興や住民とのコミュニケーションがプログラムに組み込まれているが、最も重要なのは、AIRとは、アーティストが国境を越えて創作活動を行なう国際的な移動と武者修行を支えるシステムであるということである。


陸前高田AIR Huwsプレゼンテーション © 松山準


アーティスト・イン・レジデンスの原点


 AIRとは、アーティストが異なる文化環境に一定期間滞在し創作活動を行なうための国際的移動を支えるシステムと定義できよう。現在、世界各地で盛んに行なわれている。アーティストたちにとっても、AIRでの創作活動体験は、美術館やギャラリーでの個展や作品の買い上げといった評価に加えて、どのレジデンスに滞在したか、招へいされたかという実績も、キャリア形成にとって大きな意味を持つようになっている。
 AIRの原点は、ローマにあるヴィラ・メディチに遡ると言われる。ヴィラ・メディチは、その名の通り、ルネッサンスを代表するフィレンツェの名家メディチ家のローマでの別荘だが、フランス王立アカデミーが買い取り、フランス・アカデミーとしたのである。1666年より、「ローマ賞」を受賞した新進気鋭のアーティストがヴィラ・メディチに滞在し、当時ヨーロッパで最も洗練された芸術の都のローマで最高の芸術を見聞し、最先端の技術を習得したのである。ローマには、ヨーロッパ中から知識人や教養人、アーティスト、そして上流階級の子女がグランド・ツアーと称して見聞を広めに集まってきていた。新進アーティストに最も必要なパトロンや人脈を広げる上でも最適な場所であったが、このローマ賞は現在も継続して運営されている。

現代のAIR


 さて、現代におけるAIRのシステムを確立したと言われているのが、ベルリンにあるクンストラーハウス・ベタ二エン(以下、「ベタ二エン」)である。ベタ二エンは、現在は移転したが、最初は、1847年に建設された教会経営の病院だった建物の一部をアートセンターとして活用することから始まっている。1970年頃には、建物が老朽化し、存廃が取りざたされたが、当時、ベルリン芸術院長だったミヒャエル・ヘルターらは、この建物を国際的なアートセンターとして再利用することをベルリン市に提案し、2年もの間交渉した末、1974年、スタジオと居住空間、多目的ホールを併設したアートセンターとして開館させることに成功した。1970年代当時、芸術と社会の関係性を問い直す「コミュニティ・アート」、「ソーシャリー・エンゲージド・アート」などの萌芽がみられるようになっていたが、ヘルターらは、完成した作品よりも、むしろ創作プロセスを重視し、世界各地から時代の先端を走るアーティストたちをベルリンに招き、交流と対話を重ねたのである。現在のベタ二エンでは、世界各国の文化機関と協定を結び、それぞれの国から派遣されたアーティストを受け入れており、アーティストの国際的移動と創作活動を支える近代的なシステムを作り上げている。
 他方、フランスでは、1980年代よりフランス政府が現代アートの普及と地域振興のために国内各地にアーティストを派遣し、各自治体でも積極的にAIRを運営し、地域のアートセンターが生まれていた。この自治体が運営するAIRのあり方は、後に日本でも積極的に紹介されたため、これをモデルとして日本でも自治体主導型のAIRが誕生したのである。

多様な日本のAIRとアーティストの経験


 日本のAIRは、1980年代後半よりオーストラリア・カウンシルヴィラ九条山など海外の政府が日本にアーティストを派遣したり、あるいは前述のとおりフランスをモデルにした自治体やNPOが実験的に開始したことから徐々に全国に広まった。1990年代後半には、国際交流基金や文化庁などの公的支援も行なわれるようになり、さまざまな団体が取り組むようになり、その数も増加している。
 AIRの特長として、多種多様な運営主体とプログラムが挙げられるが、目的と条件の組み合わせにより多様なAIRの展開が可能となる。日本でも、運営主体としては、自治体系、NPOなどのインディペンデント系、大学系、美術館系、国際フェスティバル系、海外文化機関系などがあり、分野も現代アートから演劇やダンス、パフォーマンスなどの舞台芸術、伝統工芸まで幅広く行なわれている。ただし、日本の場合、自治体が運営主体となっている場合、住民への還元ということから、地域振興や住民との交流がプログラムに組み込まれていることが多いが、これも日本のAIRの特長にもなっている。


アーカスプロジェクト 左:オープンスタジオでのアーティスト主導のパフォーマンスの様子
右:オープンスタジオ スタジオでの制作風景
Photo: Hajime Kato  提供:アーカスプロジェクト実行委員会


 その自治体などが運営主体となっている、茨城県の「アーカスプロジェクト」、山口県の「秋吉台国際芸術村」、青森市の「青森公立大学国際芸術センター青森」、福岡市の「福岡アジア美術館」で行なわれているAIRプログラムでは、長年海外からのアーティストを受け入れてきており老舗AIRとして海外での知名度も高い。近年は、日本人アーティストも受けいれるようになっているAIRも多い。


秋吉台国際芸術村 レジデンスの風景 左:パフォーマンス本番(ヘリ・ロ) 右:山焼きリサーチ(ロギョン・イ)


 インディペンデントな団体が運営するAIRとしては、札幌の「S-AIR」、東京の「A.I.T.」や「遊工房アートスペース」「3331 Arts Chiyoda」、神戸の「Dance Box」、福岡の「Studio Kura」などが、それぞれ個性豊かな活動とネットワークを築いている。また、日本ならではの技術や表現を特色とする「滋賀県陶芸の森」、「国際木版画ラボ・河口湖アーティスト・イン・レジデンス」なども数は少ないが、押さえておきたいAIRである。

 歴史は浅いが、「さっぽろ天神山アートスタジオ」、東日本大震災の記憶を守りつつ被災地の未来を切り開こうとする「陸前高田AIR」、東京の近郊都市をクリエイティブな地域に変えようと試みる「PARADISE AIR」(松戸)、「黄金町AIR」(横浜市)などは、それぞれ個性豊かなプログラムを積極的に展開している。また、舞台芸術分野の「セゾン・アーティスト・イン・レジデンス、ヴィジティング・フェロー」(東京)や「城崎国際アートセンター」(豊岡)のAIRも、前者は海外の新進気鋭の舞台芸術関係者を招き対話や交流を重視し、後者はビジュアル・アートまで取り込むなど活動には境がない。いずれも今後の発展が楽しみなAIRである。


PARADISE AIRの活動の様子 撮影:加藤甫



左:アルディッティ弦楽四重奏団×白井剛『クセナキス解体新書』試演会 2017
右:岩井秀人×森山未來×前野健太:コドモ発射プロジェクト『なむはむだはむ』滞在制作 2017 「音楽」ワークショップの様子
提供:城崎国際アートセンター © igaki photo studio


 近年、訪日観光客の急増がマスメディアを賑わしているが、日本のAIRも海外のアーティストたちにとって非常に人気が高い。特に、渡航費、滞在費、制作費などが提供されるフルカバーのプログラムであれば、なおさらである。残念ながら、各AIRでは年間2~3名の招へい枠しかないため、約100倍から200倍の狭き門となっている。


芸術祭と地域おこし


 2000年に開始された大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレや翌2001年の横浜トリエンナーレを嚆矢として、札幌国際芸術祭、三陸国際芸術祭、北アルプス国際芸術祭、瀬戸内国際芸術祭など全国各地で大小の芸術祭が開催されており、枚挙に暇がないほどである。こうした国際展は、国内のみならず世界各地でも急増しており、アーティストの国際的移動はますます増えている。大地の芸術祭が、現代アートを通じて地方の過疎化、高齢化などの社会的課題を可視化したことは良く知られているが、こういった芸術祭を支えているのもアーティストたちの国際的移動を可能とするアーティスト・イン・レジデンスというシステムである。各作品は、作家の意図やメッセージが最も伝わる空間に展示される。すなわち、サイト・スペシフィックな作品であり、アーティストたちもその空間に滞在しながら、リサーチや創作の過程で、地域の歴史や現状を知り、さまざまな人々に出会う。自然、アーティストと地域の人々に交流が生まれ、芸術祭が終わっても継続することも多い。アーティストが介在することにより、地域が他者に開かれ、世界とつながる機会ともなる。アーティストや観客といった他者もまた、その地域に伝承される文化や伝統、風景といった魅力や価値を再発見する機会でもある。
 例えば、オーストラリア政府は、越後妻有の浦田地区に日豪交流の拠点として「オ―スラリア・ハウス」を建て、芸術祭に参加しつつ、恒常的にオーストラリア人アーティストが滞在し、地域の人々と交流しながらアイディアや技術を共有し、創作活動を行なっている。

安定した継続へ:評価軸、人材育成、財源確保


 日本にAIRプログラムが定着して約30年経過したものの、まだまだ課題は多く、次の3点に集約されよう。第一に、評価の問題である。AIRは創作の成果としての作品ではなく創作プロセスを重視することから、事業としてのアカウンタビリティーと評価が難しいということである。美術館やコンサート・ホールならば入場者数、滞在期間中の作品数という数量的評価も可能だが、AIRの場合、プロセスやアーティストの将来性などをどう評価するかなど難しい要素が多い。第二に人材育成と雇用の課題がある。AIRのコーディネーターもしくはキュレーターには、キュレーター、バイリンガルのコミュニケーター、アート・マネジャーとしての能力の他に、多彩な人脈も必要ということで高い能力が求められる。しかし、現状としてはその職能に対する理解や身分の保障はほとんど認知されておらず、有期の契約ベースの雇用である場合が多い。第三の課題として、安定した運営財源の確保である。現在は、文化庁の助成プログラム「アーティスト・イン・レジデンス活動支援を通じた国際文化交流促進事業」が設けられているため、助成を受けることができた団体に関しては安定した財源を確保できるようになったが、助成が受けられなければAIRだけで自主財源を得ることは難しく、事業の継続が難しい。日本では芸術文化に対する助成団体や企業からの支援の数が極めて限られており、これは、AIRに限らず、多くの文化団体に共通する課題でもある。


左:青森公立大学国際芸術センター青森外観 右:スタジオにて制作中のジョナサン・シティフォン(2016年秋「カエテミル」)
写真提供:青森公立大学国際芸術センター青森


アーティストとつむぐ地域の未来


 しかし、AIRというプログラムには可能性も高い。AIRの特長として多様なプログラムが可能であると述べたが、多彩な才能をもった内外のアーティストやクリエーターが日本各地で多様な活動が展開できるようになれば、移住や定住が難しい場合でも、短期であれば他の地域に滞在して情報やアイディアを交換し、共有することが可能となる。例えば、国際交流基金は、アジアから若手デザイナーを招き、東北の小規模ビジネスの企業家とマッチングしてのデザイナー・イン・レジデンスを試み、新しいAIRのあり方を模索している。徳島県の人口1万人に満たない神山町では移住者が増え、全国から注目を浴びているが、その始まりはAIRだった。典型的な過疎地だった神山町の手つかずの自然と温かい人々との交流を求めて海外のアーティストがやってくる。その魅力は何かと言えば、他者を迎え入れるお接待の精神と楽しく暮らそうとする人々の生きる姿勢である。そこから神山町の地域再生への挑戦が始まったのだ。アーティストの人選も専門家に任せず、来てほしいアーティストを自分たちで選ぶ。移住者も来てほしい人に移住してもらう。
 AIRは、若手アーティストへの支援プログラムであることが原則だが、豊かな自然と文化に恵まれた日本ならではのプログラムを考えることが重要である。例えば、デザイナー・イン・レジデンス、アーキテクト・イン・レジデンスなど、地元の企業やアーティスト、クリエーターたちと議論を交わしながら、新たな価値とアイディアが反映された製品、作品が生み出される可能性もある。短期間ならばさまざまな才能の地域への還元も可能となる。人間にも地域にも、文化力や創造力が問われる時代にあって、地域の潜在力を引き出し、新たな価値を生み出すAIRの可能性は大きい。


陸前高田AIR 左:Jaime Pacenaリサーチ風景 右:Tawatchai工事現場撮影 © 松山準


AIR_J:日本全国のアーティスト・イン・レジデンス総合データベース

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