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妹島和世インタビュー:新しい公共性について──2000年以降の建築実践

妹島和世/鷲田めるろ

2011年02月15日号

 2010年に、SANAAとしてプリツカー賞を受賞し、ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展ではディレクターを務めるなど日本人建築家として世界に大きく存在感を示した妹島和世氏。当サイト開設15周年記念事業「Dialogue Tour」の特別インタビューとして、2004年の《金沢21世紀美術館》をはじめ、昨年竣工した《ロレックス・ラーニングセンター》、そして、“People meet in architecture”をテーマとしたヴェネツィア・ビエンナーレ建築展2010についてお話しいただきました。聞き手は、Dialogue Tourの監修者でもある金沢21世紀美術館キュレーターの鷲田めるろ氏。

鷲田めるろ──私は、妹島さんが設計された金沢21世紀美術館のキュレーターとしての立場もありますが、今日は、もうひとつ、いまartscapeでやっているDialogue Tourというウェブサイト開設15周年の記念事業の監修者という立場でインタビューさせていただければと思います。後者について補足しますと、2007年に金沢でCAAK(CAAK: Center for Art & Architecture, Kanazawa)という小さなNPO団体をつくって、美術館の仕事とは別に活動をはじめました。そして、CAAKのような活動が、ほかの日本の地方都市でも同時に起きていることを知りました。そういった活動は小さい活動だからなかなか目立たなくて、あまり知られていないけれど、それらをつなげて意見交換をして、ウェブで公開していくことによって、美術の新しい場のあり方を提案したり考えたりしたいと思い、このツアーを1年間かけてやっています。
 そういう活動と妹島さんの活動は一見、関係がないように見えます。妹島さんは建築の設計、いわばハードをつくられているわけです。一方、われわれのそうした活動は、ハードに対してソフト、人の集まりです。そういう点で対極的にも見えますが、私にとっては、金沢やローザンヌ、ヴェネツィアといった2000年以降の活動を拝見して、妹島さんが世界を舞台に考えられていることや、あるいはこれからの建築界が向かおうとしている方向性に強く共感しています。妹島さんのグローバルな視点とこうしたローカルの小さな活動には共通点があって、根本的なところでつながっているのではないかと。この共通性をどうお考えになるかをお伺いできたらと思っています。

利用者が主体的につくる「新しい公共空間」

鷲田──金沢では、2004年の《金沢21世紀美術館》開館後、周辺にアートの拠点が徐々に増えて来ています。《金沢21世紀美術館》は公立の美術館であるのに対し、館外の街での拠点は個人の集まりが運営しているという対比は可能ですが、実際には、市民ギャラリーや参加型プロジェクトなど《金沢21世紀美術館》がいろいろな人々に使われることを通じて、むしろ両者は入り交じっているような印象を持っています。それは、そんなことが起きやすいように、妹島さんが意図的にデザインされた結果のようにも見えます。つまり、利用者が発信者になって、主体的に美術館をつくっていくことが起きやすいデザインを考えられたのかどうか。《金沢21世紀美術館》の設計プロセスのなかでどんなことを考えていたのか、そのあたりからうかがいたいです。

妹島和世──《金沢21世紀美術館》の設計を始めたころは、あの規模の公立の美術館を設計するのは初めてのことで、まだそんなにゆとりがないというか、まとめるだけで精一杯だったように思います。ただ始めから、自分が美術館に行ったときの実感として、全体がわからないまま歩かされているようなところになんとなく居心地の悪さを感じていましたから、鑑賞者が主体的に見られるものにしたいということはすごく意図していた気がします。それから、当時の市長が「普段着でも入れる美術館」とおっしゃっていたことや、わたしたちからも交流館と美術館を一緒にしたほうがおもしろいのではないかと提案していたので、いろいろな人が気軽に立ち寄れていろいろなことが起こっている「新しい公共空間」みたいなものになったらいいなとは思っていました。
 完成してから時々うかがうことがあるわけですが、自分の住む町にも「こういう場所があったらいいな」と行くたびに思います。とりあえず時間ができたら来て、ひとりでぼーっとしていてもいいし、誰かと会ってもいいし、お茶を飲むだけでもいいし、もちろん美術館のギャラリーへ行ってもいい。コンペのときから「公園のような場所をつくりたいんです」と言っていたわけですが、改めてこういうことだったのだと実感しています。複数の中庭があったり、館内を散策するように自然に歩けるとか、普通の美術館とはちょっと違っているので、はじめて来た人には迷うと言われることもありますが、慣れれば、だんだん自分で構造を掴めるようになって、街を認識するような感覚で全体を把握できる。何度か足を運んでもらって、だんだん自分との関わり方をつくっていくことができる。時間を使って経験しながらある規模のものを自分のものにしていくような、単純さと複雑さがあったほうがいいのではないかと思います。


妹島和世氏

鷲田──見に来る人が発信者になりうるかを考えたとき、まず、訪れた人が自分で順路を考えながら、自分で探検して主体的に巡ることは重要です。その場合、建築が大きな役割をはたします。さらにもう一歩進むと、自分が探検して発見したものを別の人に伝えるようになる。作品を見てこういうふうにおもしろかったとか、こういうものなんだと別の人に伝えることで、利用者が発信者になるのだと思っています。

妹島──そうですね。それにいまは各々が、ブログとかツイッターなどで発信できますよね。

鷲田──《金沢21世紀美術館》には、市民ギャラリーという機能が組み込まれていますよね。それは金沢市やキュレーターが展覧会をつくるのではなくて、どちらかというと公民館的な使われ方です。つまり、借りた人が他の別の人に向けて発信する関係です。ここでも、美術館や新聞社が発信したりするほかに、個人が発信者になることがうながされているととらえています。

妹島──市民ギャラリーを計画しているときは、これはどのように使われるのだろうと、その位置づけについて議論がありましたね。

鷲田──そうですね。私は、オープンしてからの使われ方を見て、あらためて市民ギャラリーのおもしろさに気づきました。

妹島──長谷川祐子さんや黒沢伸さん、鷲田さんと議論してきたことも、そのときは頭では理解していたけれど、オープンしてから何度か足を運んで実感としてよくわかってきたことがたくさんあります。


金沢21世紀美術館平面図。展覧会ゾーンと交流ゾーンの関係
提供=金沢21世紀美術館

使うことも創造することである

妹島──2010年のヴェネツィア・ビエンナーレ建築展の総合ディレクターを務めたときに“People meet in architecture”というテーマを掲げましたが、そこで言いたかったひとつは、“使うことも創造することである”ということです。これは金沢での経験が大きく影響しています。それはつくるときのプロセスだけでなく使われていくプロセスのことです。いかに発展的に使われるかということを学びました。

鷲田──金沢での経験をふまえて、独創的な使われ方、ユーザーの主体的な行動が起こりやすいように設計するということはありますか。

妹島──さきほどおっしゃった、利用者が発信者になるというのは、利用者が創作者の一部にもなるということですよね。そういうかたちでも使われていくことが可能だというか、むしろそういうものを積極的につくりたい。設計するときは自分たちとしては、これが一番良いだろうと決定してつくるわけです。矛盾するようですが、それが、また違ったかたちの使われ方を発見される。そういう可能性のあるものをつくりたい。すごく難しいのですが、いろいろな関係が生まれやすいものをつくるということでしょうか。物理的には変わらなくても、いろいろな関係が形づくられ、そこからは豊かな経験と、多様な建物が現われてくる。《金沢21世紀美術館》はいろんな人が来てくれていますが、それは、美術館の運営自体もすごく工夫されているし、いろんな層を重ね合わせる努力を市としてずっとやってこられたことが大きいと思います。地元の人の活動と美術館の活動が柔らかに繋がっている。


妹島和世+西沢立衛 / SANAA《金沢21世紀美術館》
撮影=中道淳/ナカサアンドパートナーズ、提供=金沢21世紀美術館

鷲田──いままでのオルタナティブスペースだと、美術館から独立した、対抗するような要素が強かったと思うのですが、たとえば、CAAKという活動に関わっている人たちにはあまりそういう意識がないようです。むしろ美術館を利用しているというか、たとえば、たまたま美術館の展覧会を見に金沢を訪れた人にレクチャーしてもらうとか、一緒にパーティをするとか。そういう関係でとらえている人が多いです。

妹島──《金沢21世紀美術館》は一つひとつの展示室が独立しているから、街中のひとつが美術館に入ってきたような、あるいは、美術館の一部屋が街中に飛び出したみたいないまおっしゃったような関係が、視覚的にも感じやすいですよね。

鷲田──独立した展示室が街の中に広がっていて、そのうちの一部がぐるっと丸で切り取られて美術館になっているような視覚的イメージですね。

妹島──関係の生まれやすさということについて言えば、美術館の個々の展示室が前の庭との繋がりがあるとか、展示室にもっと大きな窓を開けることも考えられますね。窓が開いていることで、館内の廊下を歩いているだけで、展示室のなかが見えますし、さらにその向こうの別の展示まで見えてしまうかもしれません。本当はそんなことも考えていましたが、それは運営を考えるとあまりに無理だと。展示しにくくなるのもわかりますからね。公共の美術館としていろいろなことに対応するという役割を担わなければならないですからね。