キュレーターズノート
中原浩大──自己模倣
中井康之(国立国際美術館)
2013年12月15日号
対象美術館
中原浩大の展覧会が岡山県立美術館で開催された。同展は、あいさつ文にもあったように「中原浩大の公立美術館における初の大規模な個展」ということになるのだろう。実際、公立に限定せず運営形態を問わずとも、中原浩大の芸術を検証する大規模な展覧会はこれまで開催されてこなかったと言えるだろう。
中原浩大は、80年代中頃、いわゆる「関西ニューウェーブ」と称された、西日本における「表現主義的」と取り敢えず形容できるような動向の中心にいた作家であり、その後も、レゴを用いた巨大な彫刻作品、果物を串刺しにした作品、フィギュアモデルを用いた作品など、ポストモダンを体現するような作品を作り続けてきた。そして、90年代初頭までは活発に発表活動を続けていたものの、90年代中頃以降は目立った活動がなくなったというあたりが一般的な認識ではないだろうか。これは、私的な観点で精密ではないが1992年後半にレントゲン藝術研究所で開催された「アノーマリー」展あたりが分岐点だったように感じている。同展はartscapeの用語辞典(アートワード)にも出ているような、ある意味で歴史化された展覧会である。詳しくはそれを参照して欲しいが
岡山県美での今回の個展が同館学芸員の高嶋の強い思いによって成立したと、その展覧会のカタログに記載されていた。私自身、中原に対してアプローチした経験がある。確か2000年頃に、なぜ発表を控えているのかというような回りくどい話し方をしたかもしれない。そのとき、中原からは、いまは美術大学において作家を育てるという教育業に専念しているというような迂回したような返答をもらったように記憶している。その後に、中島智の『文化のなかの野性』(現代思潮社、2000)という芸術人類学という独自の分野を掲げた本に(後に中沢新一によって芸術人類学研究所が設けられたが……)、中原浩大の芸術を「『現代アート』の民俗」というカテゴリーで扱っていることに気がついたのである。中島は「アート」を「日常的リアリティではとらえられない流動的な力や個々の下意識的世界の引き出しを開ける」機能を持つものとしてとらえ、また現在の美術に対しては「私美術」という中島独自のコードを提示しながら、中原の制作行為にそれを体現するような状況を見出し、例示していた。詳しくは同書を参照して欲しいのだが、実制作者でもある中島はかなりの程度精密に、中原への取材をもとにして彼の動向を辿っている。
中原が一般的な美術のコンテキスト上で制作行為を行なっていたのは、1989年の《トランポリン》までであったと中原が述べていたという。「それ以後は鑑賞者を『家族』に限定するという意識で制作をおこなうことによって、自らと作品の私的リアリティが高まると同時に『社会的責任』は一気に希薄化する」(中島、前掲書、334頁)と分析するのである。とはいえ、中原が他者に対して90年以降、まったく無関心であったという事ではないようだ。やはり中原自身の語るところによれば、94年に発表したビデオ作品(おそらくは岡山県立美術館「アートラビリンス」で発表された《M.O.N.+僕が黙殺された3つの出来事+ベッド+8mm video+アヒル+カマキリ+フリーザー+…》までは「見せる」という目的意識が続いていたと言うのである。これは、美術館という場所で発表するという状況がそのようにさせた部分もあるのだろう。要するに、これ以降はしばらく、「見せる」という意識は欠如し、自らのリアリティを獲得する作業に専念し、対外的には「私の作品は他人には分からない」という事実を表明せざるをえない(中島、前同)ということになったというのである。ただし、この時期は、前述したように、中原が「隠れた」時期に相当する。時差は、既述したように、出生地である岡山県の美術館という半分は私的な場所における特例として認めることができるだろう。
今回の岡山における大個展で特筆されるのは、1992年の「第1回キヤノン・アートラボ」展に出品されたインスタレーション作品《デートマシン》の再現展示であったろう。鑑賞者が作品とコミュニケートすることによって成立する作品は、他者へ「見せる」という意識が明かな作品であろう。また、展示室に入る前のアトリウムに置かれた《レゴ・ワーム》や《トランポリン》を除くと、展示作品のほとんどが、中原浩大という作家が「私的領域」と認識する圏域内においてリアリティを追求した作品であったと考えることができるのだろう。ただし、そのどちらにも属さない作品が、岡山県立美術館の正面部分に展示されていた。その巨大な中原自身の写真を壁一面に展示するプロジェクト(協力した企業名を余白部に記載することによって経費をまかなう)は、以前、ある美術館の企画展で提案したが、企業名を掲示することが難しく展示が拒否されたというものである(時期としては1994-95年、ちなみにこの企画展には出品していない)。これは、中原がニューヨークの政府給費留学(1996-97)で体験した大学の研究機関と民間企業の研究所との共同研究の手法を参照し、日本の美術館で実施しようとしたが拒否された事例として、先の中島の著書に書かれている。今回も企業名は出ていないということは、作家自身がこの作品も費用負担をしたのだろうか(ただし、この留学と展覧会のプロジェクトは前後関係が逆転している。事実は、中原の美術館の経験が、留学した際に見聞した事例と大きく異なっていたことに驚いた、というようなことなのだろう)。
以上のことから類推しても、私が中原とコンタクトを取った時期は、いまさら美術館で行なうことなどなにもないと中原が判断したことも道理であると、ずいぶん昔に考えていたのだが、今回、その中原の大個展が開催されることによって再び想起された。私が中原浩大と対面したときから時間も経ち、今回展覧会が成立したことに関しては、また別のかたちで考えることもあるだろう。ただ言えることは、中原浩大を扱うことは、日本の美術、あるいは美術館のあり方をあらためて問い質すような事態になることが確認できた訳であり、そのような意味においても意義深い展覧会であった。
中原浩大──自己模倣
学芸員レポート
前回、「地域振興プロジェクト」によって美術が公私を問わず受容されてきたことについて触れてきた。「中原浩大展」が日本の美術(館)制度に対する異議申し立てを内包した、此の国における美術のあり方を見通すものであるとするならば、日本各地で起こっているさまざまなレベルのアートを介したプロジェクトは、日常的なリアリティのなかからアート的なものを見出していこうとするものであろうか。
奈良県が後ろ盾となって2011年から開催しているHANARART(はならぁと)という芸術祭に、今秋、関わりを持つことになったのだが、地域の人々も、参加作家も、プロデュースを行なう方たちも、ほとんどすべて、実質的にボランティアに近いかたちで運営されていることにいまさらながらに驚いた。多くの人がSNSやヴァーチャルな都市にアバターを住まわせるような状況であるからこそ、逆に、昔懐かしい商店街や、古い木造家屋を再利用したような場所で行なわれるイベントに興味を持つのかもしれないと考えた。