キュレーターズノート
「無人島にて──「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」
中井康之(国立国際美術館)
2014年10月15日号
対象美術館
「美術」と「死」は常に隣り合わせの関係を維持してきた。絵画の主たる出自は宗教画であり、彫刻も死者への墓標、亡き者の姿形、そして来世をも支配する神の似姿として存在してきた。近代という時代が到来し、そのような神話物語が捨象されたのも束の間の出来事であった。その後、美術作品に対する新たな意味付けの嚆矢となったのはシュルレアリスムのような人々の意識下に潜んだ世界を表面化する動きであり、現実的に表象化された世界によってのみ価値付けしようとする進歩主義的動向に対して美術作品が歯止めをかけるような流れは──フォーマリズムに代表されるように──常に存在していたであろう。
あくまでも個人的な記憶になるのだが、現代美術で「死」を強く意識させた対象は5年程前にしばらく滞在したボローニャで邂逅したクリスチャン・ボルタンスキーの作品だった。その施設はウスティカ記念博物館という名称で、1980年にボローニャから発った旅客機が地中海で原因不明(どうやら軍事機関の誤爆の可能性があるようだが……)の爆発によって墜落した残骸で、ボルタンスキーがインスタレーションを構成していた。それを最初に見た衝撃は、墜落した旅客機の残骸をボルタンスキーに依頼して展示することを遺族たちが望み実現したという強烈なメッセージによるものかもしれない。日本で類似の施設を考えるならば第五福竜丸展示館になるであろうか。しかしながら日本の同施設の場合は、あくまでも被害を受けた遺物を単にそこに置いただけであり、それが示す内容は見る側の意識の持ち方によってさまざまに異なるだろう。ボローニャのその施設も見る側の意識の持ち方によって変わってくるという点では同様かもしれないが、ボルタンスキーが旅客機の残骸の上に人が呼吸するかのように明滅を繰り返す81灯の電球を吊るし、さらにその機体を取り囲むように倉庫の壁に81枚の黒い鏡を掛けて残骸を黒く浮かび上がらせ、鏡の裏からは蠢く人の声が聞こえるような装置を設置するというインスタレーションを行なうことによって、鑑賞する者の多くが、不条理な死というものをより実感することが可能となるだろう。なにより、将来において81人の遺族が途絶えたとしても、芸術作品としての評価によって存続する可能性が高いと思われる。ボルタンスキーは、大量殺裁という過酷な史実を作品化してきた作家として知られているが、ここでは、われわれの日常のなかにもポカリと空くことのある陥穽に陥ったような不条理な死を記憶する装置を実現したのである。そして、このような悲劇が起こった原因を突き止めるためにも、その事実を風化させないために、芸術作品として価値付けできる作家を選別し、それを実践したヨーロッパ市民の見識の高さ、芸術という領域に対する絶対的な信頼に対して、強い羨望を覚えたことを昨日のように想い出す。
長々と前置きを書いてきたが、今年の初めに自らの身辺に沸き起こったいくつかの事実によって「死」ということに向き合うことになった時間を思い返しているときに、「死」に対していまの美術がどのように立ち向かっているのか真摯に考え、浮かび上がってきたのが前段に取り上げたボルタンスキーの作品だった。そのいくつかの事実というのは、ひとつには、このコラムでも何度となく取り上げてきた梅香堂というアートスペースを設け、商業ベースのギャラリーとは異なる視点で独自な活動を続けてきた後々田寿徳が去年末に急逝したことである。後々田は、公立の博物館、美術館、大企業が運営する美術館、美術大学の教員とさまざまなポジションを経験した後についには大阪の下町で自らの理念の元に、独特な表現者を紹介してきた。本来であれば、彼が梅香堂という場所を介して、行動してきた記録を年初のこのコーナーで書き上げなければならなかったであろう。しかしながら、その後々田の葬儀が執り行なわれた1月3日の数日後、自らの身体の変調に気付き、いくつかの診察を重ねた結果、膵癌という診断が為され、余命1年という宣告も為されて、このコラムも休止せざるをえなくなり、「死」と正面から向き合わざるをえない状況が忽然と生まれたのである。私自身のことは、結果的には最新の高度医療によって生き存えている、というか現場に復帰している。ただ、当初、癌という言葉は自分のなかでとても重く響き、自らの思考や行動を完全に支配していったことは忘れえない。スーザン・ソンタグがやはり癌に罹患した際に著した『隠喩としての病い』の冒頭部にもあるように、「病者の王国の住民となりながら、そこの風景と化しているけばけばしい隠喩に毒されずにすますのは殆ど不可能に近い」のである。身をもってその言葉を実感した訳である。ソンタグによれば、そのような隠喩に飾り立てられる病とは、手に負えない(治療法の見つからない)病であり、そのような病は神秘化されやすいのである。私自身は、結果的な事を言えば、余命1年という命題をそのまま引き受けて了解することによって精神的には安定していったのであるが、その命題の本質は「死」という現象であり、そのことと正面から立ち向かっている作家、作品をつきつめて考え、行きついたのが冒頭部で述べたボルタンスキーの作品であり、その作品を紡ぎ出すように導き出した中世の街並みの風景が現存するボローニャという街に住む人々であったことをここに記しておきたい。
閑話休題。そのような事由で、いまだ積極的なフィールドワークも適わない状況下、眼に入り込んできたのは「無人島にて」というタイトルの付された1枚のフライヤーであった。そのタイトルと併せて、上前智祐、笹岡敬、椎原保、殿敷侃、福岡道雄、宮﨑豊治、八木正という一見関連性を見出しにくい作家たちの名前の羅列に興味を惹かれたのである。そのフライヤーにはまた、「『80年代』の彫刻/立体/インスタレーション」というサブタイトルが付されていた。80年代の美術状況を極めて概念的に見るとするならば、東京においては「もの派」のエピゴーネン的な表現が覇権的な勢力として散在し、絵画・彫刻といった正統な表現様式が否定されていた状況に対して、西日本では関西ニューウェーヴという表現主義かつポップアートが混淆したような表現が一気に広まった時代であったと概括することができるだろう。関西では特に、松井智恵や杉山知子、榊原美砂子といった女性作家を中心に、いわゆるインスタレーションと称されるような表現様式が新しい動向として評価されていたことも特記すべきであろう。そのような近過去的な美術史を概観できる資料も存在しないなか、当該展を企画した長谷川新は、私が概観してきたような主流(?)とは無関係に存在した80年代の気になる表現を当時の文献を渉猟することによってピックアップし、そのような流れに捕らわれずに個々に独立して存在してきた表現を、「無人島」というメタファで総合化した。その点で、80年代の日本の美術を立体的に見せようとする意欲的な企画だと感じた。
本来であれば、個々の作品に対してその時代との関連性/非関連性について詳述する誘惑に駆られるのであるが、残念ながらその余力と用意が十分ではない。ただひとつ、正直に述べるとするならば、上前智祐のファイバーを用いた立体作品に対してはまったくノーマークであったことを告白しなければならないだろう。80年代の具体の作家というカテゴリーを前提にしてしまうと、そこに今日的な意味を見出すことが困難であると、かなり早い段階でフィルターを掛けてしまっていたことに、いまさらながら今回気付かされたのである。まだ活動を続けている上前に、80年代の表現について尋ねる意味は大いにあるかもしれない。