キュレーターズノート
「鶴来現代美術祭」の調査
鷲田めるろ(金沢21世紀美術館)
2015年11月01日号
対象美術館
金沢から車で約30分、白山から日本海へと流れる手取川が、山間部を出て平野部へと差しかかるところに鶴来(つるぎ)の町はある。本町から新町、今町へと続く道沿いには古い町並みが残り、萬歳楽の小堀酒造や菊姫などの造り酒屋、糀屋や醤油屋などが店を構える。この鶴来の町で、いまから約25年前、「ヤン・フートIN鶴来」が行なわれた。
2009年、金沢から来たキュレーターとして、私がゲントのS.M.A.K.にいたとき、ヤンは私の顔を見るたび、「ツルギ、ツルギ」と言っていた。鶴来でのアートフェスティバルがいったいどのようなものだったのか、ゲントにいるころからずっと気になっていた。ゲントでの「シャンブル・ダミ」展の調査を終え
ようやくその機会が訪れた。きっかけを与えてくれたのは、映像作家の坂野充学さんだ。坂野さんは鶴来の出身で、中学2年生のときに「ヤン・フートIN鶴来」を家の近所で目撃したという。高校卒業後、ロンドンに渡り、イースト・ロンドン大学に学んで、映像作家となった。しばらく、中村政人さんのコマンドNに関わり、アーツ千代田3331の共同設立メンバーとして活動したのち、現在は清澄白河に自分のアートスペースを運営しながら、映像作品を制作している。その坂野さんが、2008年頃から、自分の生まれ故郷の鶴来に関心を持ち、調べ始めた。そして、2012年、鶴来をモチーフとした映像作品を発表する。来年1月30日からは、その映像作品を金沢21世紀美術館で展示することになった 。その展覧会の関連企画として、「ヤン・フートIN鶴来」(1991、94)とそれを引き継ぐ「アートフェスティバルIN鶴来」(1995〜1999)(以下、両方を「鶴来現代美術祭」)に関する資料を調査し、ライブラリーで展示することにしたのである。現在、坂野さんとともに関係者を訪ね、資料をお借りしたり、当時の話を聞いたり、調査を進めている。
話の発端は、「シャンブル・ダミ」の行なわれた1986年に遡る。この年、ゲントを訪れた故和多利志津子さんが、日本でも「シャンブル・ダミ」のような展覧会を行ないたいと考え、同年、ヤンを日本に招聘した。最終的には、1995年に東京の青山で行なわれた「水の波紋」展に結実するのだが、この当時は、まだそこまでの具体的なイメージはなかったという。このとき、東京だけでなく、金沢、京都、名古屋を案内している。和多利さんは、金沢にも近い、富山県小矢部市のご出身で、当時、金沢の玉川公園近くに町家を改修した「ワタリ・ミュージアム」を構えていた。この建物は現在も残っており、いまは現代的な漆作家の旗手、田中信行さんがアトリエとして使っている。そのようなこともあって、金沢を訪ねたヤンは、急遽、金沢美術工芸大学でシャンブル・ダミ展についてのレクチャーも行なったという
。なお、この時点ではまだ鶴来は訪れていない。ヤンの金沢滞在時に同行したのが、この後、「ヤン・フートIN鶴来」立ち上げのキーパーソンとなる坂本善昭さんだ。坂本さんは、石川県を対象としたタウン誌『おあしす』の編集長をしており、地域のことに詳しかった。「ワタリ・ミュージアム」では、「現代美術と日本建築」「ナム・ジュン・パイクの音楽」(ともに1989)などをテーマとしたセミナーを開催しており、サロンのような場が形成されていた。そうしたなかで、和多利さんと坂本さんは出会ったようだ。
一方、鶴来町では、同じく1986年より、鶴来商工会青年部によって、地域の資源調査が行なわれていた。その成果は1988年に報告書としてまとめられた。その後、その地域資源を活用すべく、当時発足したばかりの室内楽団「オーケストラ・アンサンブル金沢」を呼んで浄土真宗の寺院「別院」にてコンサートを行なうなど、多彩な活動をしていた。そのなかでも際立っていたのが、白山比咩神社で行なわれた「姫神」のコンサートである。2000人以上の観客を集めたこのコンサートは鶴来の多くの人がいまなお、鮮明に記憶していた。
和多利さんが、金沢周辺で「シャンブル・ダミ」のような町中での展覧会ができそうな場所がないか坂本さんに尋ねたとき、坂本さんは鶴来の町を挙げた。そして、1991年の「ヤン・フートIN鶴来」へと繋がってゆく。1990年に開館したワタリウム美術館の3回目の展覧会として、ヤン・フートがキュレーションした「視覚の裏側」展のための来日に合わせ、「ヤン・フート氏の日本における現代美術一日大学」が開催される。一日大学の会場へと持ち込まれ、100点から約3分の1に絞り込まれた作品は、その夜のうちにトラックで鶴来へと運ばれ、翌日、展示された 。
その後の展開は、ぜひ、金沢21世紀美術館のアーカイブ展でご覧いただきたい。近年、地域でのアートプロジェクトが多く開催され、アーティスト・イン・レジデンスもさかんになってきているが、鶴来の事例はその比較的早い事例である。その後の取手アートプロジェクトなどにも影響を与えた可能性もある。また、実行部隊となる事務局を、地域の商工会が担ったことも特徴である。商工会を通じ多くの職種の人たちが関わったことが、作家の滞在制作において有効に働いたことが感じ取れる。その背景には、地域の祭りを通じた協働の蓄積がある。
鶴来現代美術祭の資料は、1994年〜96年を中心に、ある程度商工会が保管している。しかし、すでに保存年限をすぎている資料であり、今後も残される保証はない。また、1991年の資料は、映像記録を除いて商工会にはほとんど残っていなかったが、幸い、坂本さんが資料を保管していたため、ある程度たどることができた。1997年以降は出品した作家などから資料を集めている。金沢美術工芸大学の小松崎拓男さんの協力も得て、金沢美大で学ぶ松田千賀子さん、松江李穂さんとともに、現在、資料のデジタル化、リスト化に取り組んでいる。アートプロジェクトのアーカイブについては、川俣正や、東京アートポイント計画などが積極的に取り組んでいるが、そうした先例も参照しつつ、1月の展覧会をひとつの目標に鶴来現代美術祭のアーカイブ化に取り組みたい。