2017年05月15日号
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キュレーターズノート

外丸治 彫刻展「風を渡る」、「コレクション+ 行為と痕跡」

住友文彦(アーツ前橋)2016年10月01日号

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 9月に前橋市芸術文化れんが蔵で、外丸治の彫刻展「風を渡る」が開催された。外丸の彫刻作品は空間との関係において、自分の過去の記憶と、現在の認識との微細なズレを生じさせる。また、7月から9月にかけてアーツ前橋で開催された「コレクション+ 行為と痕跡」展では、小林達也(絵画)と高山陽介(彫刻)の作品が展示された。触知的でアナクロニズムな感性を持った彼らの作品の現代的な意義とはなにか。

身体的な記憶が呼び起こされる空間的な配置──外丸治 彫刻展「風を渡る」

 あるイメージを目にしたときに、自分の頭の中でいくつかの過去に見た形や記憶が重層的に想起される体験は、無意識を含めればほぼ常時行なわれている。外丸治の作品を見るとき、そのような脳内の活動が活発になるような気がする。しかし、それはノスタルジーと呼ばれるような時間を過去に遡る類の感覚ではなく、おそらく鑑賞者が身を置いている現在の空間に関わるものである。つまり、照合させているのは記憶のようでありながら、じつは自分自身が目にしたことがあるものとは別のものである。類似するイメージを想起しながら横に滑っていく、あるいは、はっとその場で作品とそれが置かれている周辺空間とのつながりを再確認するために見回すような体験である。初めて見るはずなのに、記憶の残像のなかで目の前の作品と空間を捉え直すと言えばいいのだろうか。この体験は例えば2015年の中之条ビエンナーレの作品とその空間の構成などに顕著である。通常そうした経験をするときは作品が持つ肌理や形に起因するところが大きい。この展示で私にそのような体験をさせたのは、作品として設置した柱の構造体や吊り紐などが周辺と馴染んでいる《風を渡る》や《庭を渡る》などである。実際の記憶によって過去と現在を結びつけるのではなく、作品が生じさせる些細なズレによって、鑑賞者が自分の感覚を調整するような特徴に外丸の大きな魅力があるのではないだろうか。


外丸治《風を渡る》2016 木/幟/麻縄/顔料/膠

 外丸が制作しているものは木彫が多く見られるが、膠やテラコッタも扱うし、お面や茶碗や水差しなど用途を持つ作品もある。手のなかにおさまる大きさや形を持ち、その用途をもとに丹精につくり上げる作品の制作もほぼ同時に行なっている。これは現代工芸の作家でも珍しくないことだが、外丸が彫刻作品をつくるときには、用途から完全に自由になることを主張するのではなく、どこかで使われることの感覚を留めているように思える。例えば雪そりの上に大きなお椀のような曲線を持つ物体を重ねた《露の下で》などは、両者の中間に位置している。何かに使われるようにも見えるが、実際に使うことはできない。農機具や家具など生活のなかにある道具の形というよりも、それに求められる機能や、特に人間がどのように扱い、あるいは眺めているのか。そうした道具と向き合う者の身体的な記憶が呼び起こされるような作品である。形のみならず、作品がどのように置かれ、眺められるかという空間的な配置が外丸の作品において重要な意味を持っていると考えられる。


《霧の下で》2015 木/麻縄/顔料/膠/亜麻仁油
中之条ビエンナーレ2015展示風景

 それに加えて用の美を完全に捨て去らないことは、何か概念的なものを見る者へ伝える作品ではない特徴という指摘もできる。それは触知的とも言われるような経験的で再現不可能なものであり、映像のモンタージュなどでも指摘されるような、受容する側が意味付けを行なう能動的な知覚に近いのかもしれない。私が特に今回の展示を見ながら感じたのは、過去と未来が連続する時間感覚をいったん切り離し、目の前の空間のただなかに物体の認識を留め続けるような効果である。柱や床との境界が曖昧だったり、何かを支える、引っ張るなどの機能を持つことで、周辺の空間と部分的に一体化しているとも言える。もちろん、会場となっていたレンガ蔵が修復される前に酒造店だったこと、あるいは歴史的に参照される木彫作品などを思い起こすことと無関係ではない。しかし、作品の一部が構造や機能を持つ(とみなされる)だけで目の前の物質はそこに共存在的にあることを意識する。あるいは、それは自律した作品と、機能を持ち利用される道具との違いにすぎないのだろうか。

漂流する行為の痕跡──「コレクション+ 行為と痕跡」

 アーツ前橋で開催されていた「コレクション+ 行為と痕跡」展では、作家の制作過程において現在を前後から宙づりにするような感覚を前面に出していた。収蔵作品以外の作家として参加していたのは小林達也と高山陽介というそれぞれ絵画と彫刻の作家である。担当学芸員の吉田成志が「内なる衝動の痕跡」と呼ぶ点に注目して作品を見ると、それぞれの制作行為は英語でストローク(stroke)と言うべき動作と関係しているように思う。原語をもとに訳せば「軽く触れる」という意味の言葉だが、木材を削る刀やキャンバスの上に絵の具を置く筆によるこの動作の痕跡が生々しく残される作品になっている。この言葉は、「打つ」や「撫でる」といった激しさと優しさの両方を含んでいる。複雑に色が重ねられ、丸みを帯びた形が多い小林の絵画には優しさを感じるが、細部に目を凝らすと激しい抑揚が見出せる。一見激しい刻み跡が全面を覆う高山の彫刻には、穏やかな日常の生活が裏面に、あるいは隣接する版画の中に見出せる。相反するとまでは言わないまでも、この異質な感覚のあいだを行き来することで、表現によって生み出される形象よりも作家の「行為」に着目させる。作品を見ることが作者の運動をなぞるような体験である場合、私たちにはそれがどこかに行き着くのを求めず、ただ漂流し続けることを好むことがある。よく作品の説明において聞かれる「プロセス」とは、完成に向けられた途中段階のことではなく、到着地点が定められず選択の可能性が数多くある状態のことを言う。上演系の表現で言うところの即興に近い。小林や高山のように痕跡が消えずに作品を形づくる場合でも、表現が記号として解釈されることからは遠ざけられる。作品は観客の目の前に置かれるが、そこにあらかじめ作者と観客を拘束するルールはかなり縮減されている。

 即興において、先回りすることは御法度だ。その都度、目の前の線や形、素材の質感、自分の精神状態などに行為の行く末を委ねなければならない。現在だけが突出し、その前後が消失するような感覚がここにもある。そして、これもまた経験的で再現不可能なものである。



高山陽介《無題(Tuesday)》2015 展示風景
樟/アクリル塗料/硬貨/埃/新聞紙/ウレタン塗料/ソファー/布/荷締めベルト/合板
撮影=木暮伸也



小林達也《森へ行く》2007 260×170cm 
パネルに寒冷紗/パテ/ガゼインテンペラ/コラージュ/色鉛筆クレヨン/水彩

現代における触知的でアナクロニズムな感性

 こうした外丸、小林、高山の表現を見るときにおぼえる、触知的でアナクロニズムな感覚にはどのような現代の刻印が押されているのだろうか。かつてモダニズムの創成期においては自己への批評や言及によって歴史や表現媒体に意識が向けられ、作品をひとつの自己完結したものとみなす傾向にあった。その自己完結性がどのように形成されていったのかを考えることはとても興味深い。例えば、工芸における作家性は、この作家が自意識を持つことに起因しているが作品が日常の生活空間と連続することは保持された。あるいは象徴主義や新興宗教が個人の精神性を探求しながら、自然や集団のなかで完全な自律ではなく相互的な間主観的な作用を重視したことも挙げられるかもしれない。しかし、個人の自由を主張することから発達した新自由主義全盛の現在において、個人はさまざまな能力を身に付ける自律した存在であることを要求され、さらに過去と未来を疑似的に統合させる情報メディアがそれを加速させている。膨大なネットワークを検索し、欲望を先回りし、個人を統合させようとする仕組みにおいて、個人の自律という思想が作品の自律にも向けられている傾向に時折危惧を感じることがある。それをむしろサボタージュする感性こそが、彼らの作品において働いていると見なしてみたい。それは、統合的な知覚を脱臼させることや、ひとつではなく複数の選択肢のあいだを行き来することであり、それこそ芸術が今日果たす役割のひとつであるように思える。

外丸治 彫刻展「風を渡る」(終了)

会期:2016年9月17日〜9月23日
会場:前橋市芸術文化れんが蔵
群馬県前橋市三河町一丁目16-27

コレクション+ 行為と痕跡(終了)

会期:2016年7月22日〜2016年9月25日
会場:アーツ前橋
群馬県前橋市千代田町5-1-16/Tel. 027-230-1144

学芸員レポート

 さて、次回の展覧会は食と農業に焦点をあてた「フードスケープ──私たちは食べものでできている」である。発端は開館時の3年前、地域の歴史を背景にした、いま思えばかなり地味でローカルな開館記念展で当館がオープンしたときに、農業が盛んな地域性と美術館が関わる可能性があるのかどうか検討したことだった。そのために招聘したフェルナンド・ガルシア・ドリーが、地元の農家やアーティストを招いて何度か行なった公開型ラウンドテーブルにおいて、彼の出身地スペインやヨーロッパで実践している「羊飼いの学校」をはじめとする社会彫刻的な概念の延長上に食や農業といった課題を見出しているアーティストの関心に触れた。そこでは、例えばTPPのように複雑な利害や倫理が絡み合う問題をどのようにアーティストが顕在化させるのかについて考える議論もあった。つまり、地域の野菜や生産品を知ってもらおうとか、味覚の実験をしようとか、食材や料理がデザインとして優れたものになるとか、そうしたことには関心がなかったとも言える。それは流通や調理やデザインの専門家が担うべき領域である。アーティストはもっと自由に関心の対象を探索し、グローバル化に晒されている地域文化の根幹を担ってきた食や農業は、流動的で個別的な生をアーティストが描き出すのに相応しい舞台となっている。
 今回の展覧会では4組の海外アーティストと4組の日本人作家に参加してもらい、そうした食卓のお皿の上にのるものではなく、その外側に広がる食の世界を描き出してもらう作品が並ぶ予定である。加えて、当館の収蔵作品やゴードン・マッタ=クラークや小沢剛などの類似するテーマの作品も併せて展示する予定だ。



ワプケ・フェーンストラ《農場主たちと牧場主たち》2012-2015 映像/写真
フードスケープ──私たちは食べものでできている

会期:2016年10月21日〜2017年1月17日
会場:アーツ前橋
群馬県前橋市千代田町5-1-16/Tel. 027-230-1144

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住友文彦

1971年生まれ。アーツ前橋館長。あいちトリエンナーレ2013、メディア・シティ・ソウル2010(ソウル市美術館)の共同キュレーター。NPO...

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