2017年11月15日号
次回12月1日更新予定

キュレーターズノート

クロニクル、クロニクル! CCO クリエイティブセンター大阪

能勢陽子(豊田市美術館)2017年03月01日号

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 「クロニクル、クロニクル!」は、2016年と2017年の1月から2月にかけての1カ月ほどの間、ほぼ1年を置いて同じ展覧会を繰り返すという形式を取っている。1回目の開催時にもここでレビューを掲載したのだが、同じ展覧会が二度繰り返されるという以上、2回目も観なければその全体像はわからないかもしれないし、見誤ったり、見逃したりしていることもあるかもしれない。実際、出品作家のほぼ半数にあたる現存作家全員が展示を変えており、2回の会期のなかに重なりとずれが生じて、展覧会全体に揺らぎが与えられているようであった。


図1
左から、清水九兵衛《京空間B》(1994、大阪府立江之子島文化芸術創造センター蔵)
大森達郎《PWS-5》(1964、株式会社七彩蔵)
清水凱子《PWH-21》(1962、株式会社七彩蔵)
清水九兵衛《作品C》(1971、大阪府立江之子島文化芸術創造センター蔵)
[撮影:熊谷篤史]

 本展は、「展覧会を消費するのではなく、浪費するにはどうすればよいのか」を問う。この問いは、「労働」と「余暇」の問題にも重なるだろう。生活のための「労働」は「消費」、遊びのための「余暇」は「浪費」である。実のところ、仕事のなかに楽しみを見出すこともあれば、趣味の方がずっと没頭して疲れるということもあるはずである。ところが日々の生活では、「労働」と「余暇」はまるで別もののように分けて考えられている。しかし、こと芸術においては、「消費」は「浪費」に、「労働」は「余暇」に、ぜひともならなければいけない。展覧会の冒頭から、まさにそのことについて触れられている。かつて造船所であったこの場所で、日々人々が目にしていただろう掲示板には、劇場(1926年開館の朝日会館)で物語の世界の幕開けとなる、観衆の期待を一身に集めていただろう、吉原治良作画による緞帳の原画が貼られている。続いて展覧会の入り口の壁には、仕事を終えて工場から出てくる活気溢れる労働者の姿を捉えた、リュミエール兄弟による映像が映し出されている(この映像は、何度か撮り直しをしたフィクションでもある)。展覧会の始まりで、かつて造船所であったその場の、そして19世紀後半のフランスの、「労働」と「余暇」の重なりが示される。そこで、吉原治良の緞帳なら描かれた朝日の「光」が、リュミエール兄弟なら映画黎明期の「光」が、「労働」を「余暇」にする、ある肯定的な明るさをもたらしていると言ったら、言い過ぎだろうか。同じ問題は、階上に上がった奥の部屋に居並ぶ、彫刻家たちが手掛けたという、やや時代掛かった魅惑的なマネキンたちにも言える[図1]。そして、この1カ月ほどの会期中にここで行なわれたトークやパフォーマンス、料理などの100を超える驚嘆すべき数のイベントは、もはや企画者や関係者にさえ、それが「労働」なのか「余暇」なのかをわからなくさせるだろう。それでも、展覧会をとことん「浪費」しそれを「余暇」として楽しむべく、日夜皆で活動し、搬入や搬出のときでさえ共に料理をつくって食べるのである。


図2 川村元紀《Balance》(2017)[撮影:熊谷篤史]

 上記の作品は1回目とほぼ同じだが(マネキンは違うものが加わっている)、3階は展示していた場所は同じでも、作品が変わっている。前回、倉庫にあったものをすべて出してランダムに置き直した川村元紀[図2]は、今度は単管でできた巨大な天秤でそれらの収納品を吊り上げる。カオティックであったその場には、かろうじて均衡がもたらされている。鈴木崇[図3]は前回、相互に関連するかに見え、実は異なる時間と場所が接合された建造物の映像を、4面の立体スクリーンに投影していた。今回そこに映し出されているのは、カラフルな四角形の集積である。Googleの画像検索で日々撮りためたという画像を還元した原色が、映り替わりながら立体スクリーンを覆う様は、世界が微視的あるいは巨視的に抽象に純化されたような、不可思議な視覚をもたらす。荒木悠[図4]は、昨年2点の映像作品を出していたが、今年は段ボール箱に載せた陶器の犬を並置している。1947年から52年の占領下に輸出され、荒木が買い戻したというこれらの犬の置物には、「MADE IN OCCUPIED JAPAN」という刻印が押されている。小さな犬たちは、1時間に1度流れるフォークソング調の「君が代」をバックに、牧歌的な借り物感を醸し出す。これらの作品は、明らかに1回目を意識して展開されているだろう。時の進行による変容、また巻き戻しによる浮上が、ある2地点を軸に複雑に交差して、本展にさらなる振幅をもたらす。


図3 鈴木崇《K.A.A.B.A.》(2017)[撮影:熊谷篤史]


図4
左から、荒木悠《Stray Dogs》(制作1947-1952、発表2017)
荒木悠《The Other Anthem》(2016)
[撮影:熊谷篤史]

 最上階の遠藤薫[図5](前回の作家名は高木薫)は、昨年は66m2の床一面に造船図面が残る製図室に、そこで働いていた人たちへの敬意を示してほとんど手を加えず、外に繋がる扉を開いて、かつてと同じ音を響かせていた。今回はその広大なスペースに、わずかな質量で充満した空間を出現させている。そこでは小麦粉で人の姿が象られているが、それはロシア宇宙主義の科学者コンスタンチン・ツィオルコフスキーが描いたドローイング《打ち上げ後のロケット内の様子(無重力状態)》(1933)をもとにしているという。ロシア宇宙主義とは、キリスト教の権威が失墜した後、人間と宇宙を統べる秩序を新たに模索した、19世紀末から20世紀初頭にかけての一連の科学・思想である。ロシア宇宙主義は、すべての人間が平等であるなら、いま生きている人だけでなく、かつて生きていたすべての人にも不死が保証されるべきだとの考えを抱いていた。この製図室で白く象られた人型は、いまここで展覧会に関わっている人たちのものだが、その痕跡はかつてそこで働いていた人たちの痕跡と、直に触れ合っている。ロシア宇宙主義の思想によれば、いま生を送っている人たちだけでなく、かつてそこにいた人たちにも同じように、蘇って不死を得なければいけない。無重力状態にある人型は、ロボット式掃除機の自動運転が互いを繋いで、新たな軌跡を形づくる。丸い掃除機の上には、集めた小麦粉で焼かれたパンと小さな隕石が載せられており、それ自体が宇宙を航行する宇宙船のようだ。ロボットが結ぶ先には、パンが載せられた石が置かれ、まるで宇宙と人の秩序が重なった様が現前しているようである。隕石とパンとロボット式掃除機の思いがけない組み合わせと、過去も含めた人類全体の幸福を求める突き抜けた肯定力が、広大な空間で可視化されていることに、思わず感嘆した。そしてこの作品は、作家数はそのままだが点数が減り、がらんとした印象も与える会場全体に、何か有機的な繋がりをもたらしているようでもあった。

 本展では、場所と時間の多層的な重なりに、過去と現在のさまざまな人の生が交差する。そこでは、作品と無数の行為と人の生は、切り離されず等価なものとして扱われる。それは今回思いがけず、宇宙規模の時間的・空間的な広がりを持つものになった。それも、生の糧であるパンの素となる、なんということもない小麦粉によって。


図5 遠藤薫《無題1(ドア)》《無題2(ドア)》(2017)[撮影:熊谷篤史]

 前回のレビューでは、「展覧会はただ二回繰り返されるのではなく、何度も反復し、反転し、循環するのかもしれない」と書いた。しかし今回の展示を観て、それは間違っていると思った。この展覧会は、時間的順序を無効にするアナクロニーではなく、直線的に流れる時間の比較的近いある2地点が鮮烈に浮かび上がる、「クロニクル、クロニクル!」である。この展覧会は、もう再び繰り返されることなく終わるだろうが、二度開催するというフレームの中に、「消費」を「浪費」にする体験としての濃さが残るのであった。

 最後に、この展覧会は、会場から離れたところでもさまざまな意見が交わされていた。私の周りでもそうだったし、ほかのところでもそうだったろう。さまざまな議論が生じることが、優れた作品や展覧会の条件ということでもないだろうが、観終わった後も多くの人を引き続きもやもやさせていたようである。これからの展覧会やキュレーションを考えるうえでとても興味深いので、最後に少し触れておきたい。本展は、二度繰り返すという展覧会のフレームの中で、時間、場所、ナラティブ、出来事、人の生が、複雑かつ魅力的に展開されるべく構想された、稀有な展覧会であった。しかし、必ずしも作家(特に物故作家)の優品ばかりが選ばれているわけではない、また文脈優先で美的な配置が行なわれているように見えない、といった否定的な意見もあった。また、SNSを介して伝わってくる料理や食事、関係者間の交流の様子が、どうにも閉鎖的に見えるというものもあった。要するに、作品よりキュレーターの専制が際立つように感じたということである。キュレーションの理想は、ゼロ・キュレーション、つまりキュレーターの存在より、個々の作品の展示やそれぞれの連関が最もよい形で見えるのがよいとする意見が、意外に大勢を占めている。しかし、キュレーターがコーディネーターになってしまい、その個性や能力(コミュニケーションや運営を含めて)が見えなくなるのも、またつまらない。「クロニクル、クロニクル!」は、公的な機関が運営しているのではなく、助成を得て行なわれている。だから、いわゆる選び抜かれた優品が観たければ、美術館に行くとよいと思う(いまとなってはその価値も危うくなっているが、美術館は基本的にそういう場所である)。また、だから閉鎖的でよいとは言わないが、そこにあった熱量や結びつきは、公に開くという建前を持つ公的機関では、残念ながらなかなか実現できなさそうなものである。「クロニクル、クロニクル!」は、キュレーティングということ、それもインディペンデントによるものという視点からも、今後考えるべき要素を多く含む、示唆に富んだ展覧会であった。

クロニクル、クロニクル!

会期:2016年1月25日(月)〜2月21日(日)、2017年1月23日(月)〜2月19日(日)
会場:CCO クリエイティブセンター大阪
大阪市住之江区北加賀屋4丁目1番55号 名村造船旧大阪工場跡/Tel. 06-4702-7085

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能勢陽子

豊田市美術館学芸員。テーマ展「中原浩大」(2001)、「ダブルリバー島への旅/曽根裕」(2002)、「ガーデンズ」(2006)、「Bloom...

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