キュレーターズノート

3.11→4.14-16 アート・建築・デザインでつながる東北⇔熊本

坂本顕子(熊本市現代美術館)

2017年04月15日号

 1年前の手帳を見返すと、2016年4月15日は、熊本地震の「前震」が落ち着き、館内の整備をして、artscapeに緊急のレポートを送付した日であった。
 本稿では、当館で開催中のメモリアル企画「3.11→4.14-16 アート・建築・デザインでつながる東北⇔熊本」展の内容を通して、熊本地震の「その後」を振り返ってみたいと思う。

 熊本市現代美術館は、地震の24日後に一部開館、70日後に全館を開館した。その後は、熊本市内で、比較的早い時期に再開することができた文化施設のひとつとして、被災したホール等と連携し、震災関係の企画だけでも年度末までに新たに30件近くのコンサート等の活動を行なうなど、積極的に街なかの「文化の受け皿」としての機能を果たしてきた。その「受け皿」としての活動と同時に、「現代美術館」として、館がフィールドとするアートや建築、デザインが、熊本地震に対して何ができるのか、という問いについて考え、広く発信していくために企画したのが本展である。

 会場内では、慶応義塾大学SFCの坂茂研究室と熊本大学の田中智之研究室を中心に導入された「避難所用・紙の間仕切りシステム(PPS4)」、建築家の伊東豊雄がコミッショナーを務めるくまもとアートポリスの「みんなの家」、アーティストの日比野克彦による《ハートマーク・ビューイング》、仙台在住のアーティスト、村上タカシらによる「宮城熊本 伝えるアートプロジェクト」、そして、未来美術家、遠藤一郎による「未来龍熊本大空凧」の5つのプロジェクトを紹介している。その特徴を、無理やり一言でまとめるとすれば、建築系のプロジェクトは、避難所や仮設住宅といった、被災者が住まい、暮らす空間のデザインや環境改善を通して、人間性の保持や回復するための試みであると言えるだろうし、アート系のプロジェクトでは、アーティスト達がその場の状況に応じて生み出した、ハートマークの交換や、おしるこカフェの運営、凧あげといった活動を通して、さまざまな層の人と人や、地域との関係性をデザインしていると言えるだろうか。

「避難所用・紙の間仕切りシステム(PPS4)」内で再現された熊本大学の学生の避難所生活の様子

 「避難所用・紙の間仕切りシステム(PPS4)」は、中越地震をきっかけに開発され、東日本大震災等での改良を経て、熊本地震で成果を発揮したのには、大きく3つの理由がある。ひとつ目には、誰でも簡単に間仕切りを組み上げることのできる、デザインのブラッシュアップがあげられる。会場内には、1ユニット2×2mを合計8ユニット分展示しているが、8人ほどの人数で実際の設置にかかった時間は、30分弱であった。2つ目には、平常時に、自治体は紙管や間仕切り布を在庫として持たずに、災害時に電話一本でその配送を協定先の事業者にお願いすることができる、という点があげられる。そして3つ目は、熊本大学を中心に、崇城大学や熊本県立大学などの建築系の学生、地元の建築家の有志らが100人ほどのグループをつくり、37カ所の避難所で、約2000ユニットにも及ぶ膨大な設置作業に携わったことがあげられる。混乱した現場においては、行政の担当者に話が届かず、学生たち自らが避難所利用者に主旨説明や荷物の移動などの状況整理を行なう、ハードな場面も少なからずあったと言う。

 筆者がその話を聞くなかで、特に印象に残ったのが、避難所利用者が語ったという「せっかく避難所内で一体感や助け合いの雰囲気が出てきたところに、個別に区切ってしまうのはもったいない」というエピソードだ。確かに、避難所内での被災者たち自身による自治活動は極めて重要で、その生活環境を大きく左右する。その一方で、例えば、授乳が必要な乳児とその親や、発達障害などのある方、また、どのような人であっても、たとえ一枚の布でも区切られた空間があることで、生活上のストレスが著しく軽減することも事実だ。災害の恐ろしさのひとつに、「余震やそれに伴う避難がいつまで続くかわからない」という点があり、避難生活が長びくにつれ、必要となる支援も適宜変わる。PPS4の空間を実際に展覧会場内で体験することで、災害時の私たちの生活における選択のバリエーションが増えることを期待する。

熊本県甲佐町白旗仮設団地内の「みんなの家」内観

 「みんなの家」は、東日本大震災の際に建築家の伊東豊雄が発案し、その後、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で金獅子賞を受賞したことでも知られるが、くまもとアートポリスは、2011年に仙台市宮城野区に1棟、2012年の阿蘇水害では、木造仮設住宅と2棟の「みんなの家」を建設してきた。

 今回の熊本地震において、アートポリス事務局を含む熊本県建築課がまず行なったのは、被災建造物の応急危険度判定であり、それと並行・連続して、仮設住宅の整備ならびに「みんなの家」の建設がスタートした。そのなかで、東日本での教訓をもとに、熊本では、新たに「仮設団地の敷地は、従来の1.5倍の面積にする」「可能な範囲で温かみのある木造の仮設住宅を整備する」「住宅の合間に路地のようなすき間をつくり、人々の往来をつくり出す」「みんなの家を団地内の中央に設置し、利用しやすくする」「規格型のみんなの家の整備に並行して、住民と建築家が話し合ってつくる本格型のみんなの家を同時に整備する」などの点を限られた時間のなかで、最大限考慮しながら計画が進められた。本展会場では、建築家たちが住民と共に集まってつくった本格型の「みんなの家」模型8点を中心に、地元の高校生が揮毫(きごう)・デザインした表札や、各地から寄せられた椅子などを展示している。

 そのなかでとりわけ注目すべき関連活動のひとつが、九州建築学生仮設住宅環境改善プロジェクト(KASEI)である。その内容は、九州の建築系の大学研究室が主体となって、それぞれひとつずつ仮設団地を受け持ち、住民への聞き取りや交流を行ないながら、仮設住宅を改善するというものである。イベント取材などで仮設住宅を訪問すると、野老朝雄デザインの揃いの黄色いビブスを付けた若い学生たちが、団地内を行き来する姿をよく見かける。その活動のなかで、例えば、高齢者が利用しやすい高さに手すりをつける、というような改善はその一番の目的となるが、その作業を通して、「今日は一日誰とも話さなかった」という独居の方の話し相手になり、地域コミュニティから離れた仮設住宅に住む子どもたちの遊び相手になることが、何より住民を励まし、生活環境をより良いものにしていく。そして、こうした体験を経た建築関係者が、少しずつ増えていくことに、大きな希望を感じる。

日比野克彦《ハートマーク・ビューイング》

 日比野克彦が発案した《ハートマーク・ビューイング》は、東日本大震災の際に、避難所の雰囲気を明るくするため、ユニバーサルに認知できるハートのマークをパッチワークにして、飾るプロジェクトである。当館においても、地震後の再オープン時に、誰でも自由に参加できるぬり絵や折り紙などを用意したことがあったが、「地震のことを忘れて何かに集中したい」「自分の力で、何かを完成させた達成感が欲しい」という思いからか、多くの市民が無心になって取り組んでいた光景と共通するものを感じた。

 日比野は2015年度にJ-WAVEの復興支援番組「Hitachi Systems HEART to HEART」のナビゲーターを務め、毎月、東日本の被災地を訪問したが、そこで出会った岩手県釜石市の仮設住宅に住む女子高校生、寺崎幸季さんが番組に寄せたメールに、ショックを受けたという。小学6年生から仮設住宅に住む彼女にとって、そこは紛れもなく「家」であるにもかかわらず、ほかの人はみな「仮設」と呼び、「家」とは呼ばない。「仮設」を自分の「家」と思ってもらえるようにアートできないだろうか、というのが彼女の願いであった。そこで、日比野は仮設住宅の壁面に貼ることのできるように、ハートマークをマグネット化し、カッティングシートで飾ることで、誰でも気軽に参加し、さまざまな被災地への思いを交換できるように、《ハートマーク・ビューイング》を進化させた。

 今回、熊本の会場では、東日本の皆さんが熊本へ向けてつくって下さった、ハートマークのマグネット約2000枚が展示されている。一つひとつをよく見ていくと、くまモンやお城、ガンバレの文字などが添えられていて、その思いや温かみがじわっと伝わってくる。来場者の皆さんも、ふと足を止めてマグネットをつくり、見ず知らずの誰かがつくったマグネットと交換し、持ち帰っていく。被害の大小、被災の有無にかかわらず、ここでは互いに気持ちを寄せ合い、心を温めあう、小さなたき火のような空間が広がっている。


東日本大震災の被災遺物を保存・活用する「3.11メモリアルプロジェクト」

 熊本出身で、仙台を拠点に活躍するアーティストの村上タカシは、東日本大震災での経験をもとに、熊本地震の発災後、仙台からの支援物資を車に積んでいち早く熊本入りした。災害直後には、地元・八代を拠点に、物資の支援や休校中の子どもたちの学習支援を行ない、その後、村上が代表を務めるMMIX.Labを中心に、仙台でも継続的に行なってきたアートによる支援を、10年のスパンで熊本でも実施する計画だという。

 仙台最大の仮設住宅「あすと長町」で、2012年の1月に村上らがスタートさせた「おしるこカフェ」は、月1回のペースで、誰もが気軽に集まって、おしるこやご馳走を食べて楽しむ場として、現在まで続く活動である。アーティストのパルコキノシタ、門脇篤、コミュニティアート、ふなばしの下山浩一らが協働し、演歌の披露や、ワークショップ、こども食堂の開催など、さまざまな活動のプラットホームになっている。その活動のなかで出会った常連の88歳の藤沢匠子さんが折々に語る昔話は、戦争、夫の死、息子の病気に立て続けに見舞われ、「震災以上に壮絶」だったが、それに負けず、いつも前向きな匠子さんの周りには、多くの住民たちが集まってくる。村上らは、その話をもとにリリックをつくってラップにして収録し、とうとう匠子さんは88歳のラッパー「TATSUKO★88」として、CDデビューを果たすこととなった。筆者も先日、熊本市内で中学生と大学生を対象に講義をする機会があり、TATSUKO★88の『俺の人生 DanceMix』を流したところ、「今まで聞いたラップのなかで一番感動した」「“月謝払って弾丸つくった”なんて言葉は、自分の人生から出てこない」「匠子さんは前向きですごい」などの感想が相次いだ。高齢者のライフヒストリーを、ラップや動画という、若い世代にも馴染みやすい形式で表現したのは、まさにアーティストならではの発想である。展覧会場では、おしるこカフェの経緯を紹介した動画《おしるこカフェの作り方》や記録写真のほか、MMIX.Labが取り組む、津波に流されて変形した道路標識やスピーカーなどを震災遺構として保存、活用する「3.11メモリアルプロジェクト」などを紹介している。初日に実施したアーティスト・トークのアンケートに、「震災復興に関わるアート活動にはこれまで懐疑的だったが、一緒にしゃべるだけでいい、という言葉に自分の思い込みを少し反省しました」というものがあった。被災地や被災者に、“アートという何か”を押し付けるのではなく、一緒に話をしたり、おしるこを食べたりする場をつくり、その関係性のなかから“何か”を見出し、ともにデザインしていく、そのふるまいこそがアートだと言える。


TATSUKO★88『俺の人生 DanceMix』

 黄色い車体に大きく「未来へ」という文字が描かれたバスで車上生活をしながら活動する未来美術家、遠藤一郎は、東日本大震災の際には、いち早く被災地に入って物資の輸送などを行ない、2011年5月には岩手県大船渡市で、炊き出しや餅つき、綱引き、大船渡の伝統芸能や、さまざまなワークショップを交えた「やっぺし祭」を地元の人々と開催した。石巻市の商店街のシャッターに絵を描き、釜石市や福島市などでも凧あげを行なうなど、さまざまな活動を通して、被災地の人々を勇気づけてきた。

 筆者も今回、初めて知ったのだが、遠藤は熊本地震後の4月17日に未来へ号で熊本入りし、当時の状況をまとめ、支援活動にやってくる人々に向けて、メールで送っている。1年を経て改めて読み返すと、当時の熊本の状況が、的確に描写されていてブレがなく、本当に驚かされる。ふと、そこで思い出したのが、交通手段がなく、故郷の桜を見にいけない石巻の仮設住宅の高齢者たちを「未来へ号」バスに乗せて花見に行った、という遠藤のエピソードである。花見で楽しい時間を過ごした、その帰り道、車中で誰かがふと『川の流れのように』を歌い始めて、全員で泣きながら大合唱したという。そのストーリーを思い出すと、アーティストとは、時に、レスキュー隊のようでもあり、ジャーナリストでもあり、介護士であり、語り部でもあるような、多義的な存在であることを、改めて実感した。

「遠藤一郎による地震直後の熊本レポート」[画像をクリックして拡大]

 遠藤は、展覧会場の正面に「熊本」と大きく描かれたフラッグを掲げ、毎週末のワークショップで参加者がつくったさまざまな願いがこめられた凧を、熊本城をバックに連凧にしてあげる《未来龍熊本大空凧》を、4月15日に実施した。快晴のなか、熊本の凧と、大槌、石巻、釜石、富岡でつくられた凧、計243枚がつなげられ青空に舞った。凧に描かれたさまざまな人々の願いが、一日も早くかなう日がやってくることを、心から祈りたい。

遠藤一郎《熊本》

凧をあげる未来美術家、遠藤一郎


天守閣の再建が始まった熊本城と《未来龍熊本大空凧》


3.11→4.14-16 アート・建築・デザインでつながる東北⇔熊本

会期:2017年3月1日(水)〜4月30日(日)
会場:熊本市現代美術館 井手宣通記念ギャラリー、ギャラリーIII
熊本市中央区上通町2番3号/TEL.096-278-7500

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