トピックス
トークイベント「不確かなアジアのつながり」東京都現代美術館
崔敬華/大友良英/相馬千秋
2015年06月15日号
対象美術館
現在、東京都現代美術館で開催中の「他人の時間 | TIME OF OTHERS」展の関連イベントとして、artscape1月15日号での鼎談「アジアで、しなやかなネットワークをつくる」の第二弾を行なった。この5ヶ月の間に崔敬華氏がキュレーションした展覧会はオープンし、大友良英氏が率いる「アンサンブルズ・アジア」も国内外でコンサートが行なわれ、相馬千秋氏が構想した芸術公社はNPO法人として設立し、それぞれの活動は次の段階へと歩みを進めている。ここで再び3人の方に、それぞれの展開のなかで考え、試行されたことについて話をうかがった。
──本日は、それぞれのプロジェクトの経過をお聞きしながら、1月15日号で交わされた共通の問題についてお話しを深めていきたいと思っています。
まず最初に、相馬千秋さんから。相馬さんは、今年の1月にNPO法人として、芸術公社を日本と台湾で立ち上げられましたね。
相馬千秋(以下、相馬):私は芸術公社を、これから日本やアジアでインディペンデントな立場で活動していく際に、同じような立場の人たちがプロフェッショナルな知識や経験、課題を共有しながら活動できるプラットフォームとして考えています。台南に設立された芸術公社は、2013年のr:ead★1のプロジェクトに台南から参加してくれたキュレーターのゴン・ジョジュンさんが、芸術公社の理念に賛同してくださって台南で立ち上げたものです。私は内容面で協力をしていますが、台南芸術公社の理事やメンバーということではありません。東京と台南のそれぞれの芸術公社では交流や議論の機会をもっていますが、それぞれの社会の文脈でどんな事業をどのように具現化するかということは、それぞれの芸術公社の裁量に任されています。つまり、東京でいま私たちが向き合っている課題と台南の社会で向き合っている課題は違うわけで、具体的な方法論やプロジェクトもそれぞれに違いが出てくると思います。
芸術公社の活動自体はまだこれからなので、どういう形で理念が体現されていくか、見守っていただきたいですね。
今日、日本各地でさまざまなアートプロジェクトやフェスティバルが乱立と言ってもいいほど立ち上がっています。こうしたアートイベントでは多くの場合、主催者やステークホルダーの要望に応じたアジェンダが細かく決まっていて、何年何月何日に何万人ぐらいの人を集めるために、こういう段取りで、こういうプログラムを実行するという設計図が、ある種レシピとして書きやすい状況になっています。実際それを実現するためのお金や人を集めるということも、公的なお金が増えたこともあり、かつてに比べてやりやすくなっている。
そういう着地点が確実に決めて行なわれる文化事業がある一方で、アジアにおいては、着地点を決めないあり方というか、まさに今日のタイトルにもある、「不確かな」やり方というか、インディペンデントにつながっていって、ほんとうに分かり合えるもの、合えないものが何かを手探りで掴んでいくようなアプローチも同時に必要な気がしています。そうした思いへの自分なりの回答が、F/T★2をやっている最中にr:eadを立ち上げるということにつながりました。はじめから「アジア」という枠組みがあって、「アジアにはこんなすばらしいアートがあります」というようにパッケージとして並べるということではなく、私たちがいまアジアに向き合ったとき、そもそもどこから始めるか、どんな問題意識や必然性に基づき、どのようにプロジェクトを立ち上げるのかというところから考えていく必要があると思っています。
──では、大友良英さんにアンサンブルズ・アジア★3のプロジェクトについて話していただけますか。
大友良英(以下、大友):プロジェクト自体は去年の春には立ち上がっていたんですが、正式な活動は9月からですね。別々のコンセプトを持った3つの部門が同時に動いていて、それぞれのディレクターたちがフィリピン、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナム、シンガポールといったところで地道なリサーチを続けています。今年の2月には東京のアサヒ・アートスクエアと京都のゲ ーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川で「Asian Meeting Festival 2015」という、東南アジアと日本の ミュージシャンが出会うようなコンサートをやりました。これがAsian Music Networkの最初のアウトプットです。
音楽家や音楽の専門家たちをつなぐAsian Music Network、音楽と美術の間になるような、まだ名付けようのない領域で音の表現を探っている人たちとともに新たな表現の場をつくっていくAsian Sounds Research、だれでもが参加できるコレクティブなアンサンブルを各地で作っていくEnsembles Asia Orchestra、この3つにそれぞれディレクターたちがいて独自に動いてるんです。Ensembles Asia Orchestraでは、この間の3月にチェンマイの人たちとともに「ChiangMai Collective 2015 Sunday Market Orchestra」をやりました。この辺のレポートは、Ensembles Asia Orchestraのサイト★4にあがっ ています。
6月にはAsian Sounds Researchがペナン島で「OpenGate──動き続ける展覧会」という展示だけれど、毎日改変されて行くかわった形の展覧会をやっていて、これもAsian Sounds Researchのサイト★5に詳細が出てます。
まだいろいろ始まったばっかりなんで、これからさらにいろいろ起こるし、サイトのほうも、Asian Meetingで来日した全ミュージシャンたちのインタビューや映像がでたりと、アーカイブもこの先充実して行く予定です。
「アジア」という言葉の複雑さ
──では、「他人の時間」展★6のキュレーター、崔敬華さんにおうかがいしたいと思います。この展覧会は、アジア、オセアニアの4つの美術館の4人のキュレーターによる共同企画ですね。その経緯についてお聞かせいただけますか。
崔敬華(以下、崔):日本では90年代からアジアの現代美術が紹介される機会が増え、その中には各国の文化や社会・政治的状況を、美術を通して伝えるという試みが多くありました。それらを振り返ると、そこで総体として表象される「アジア」というのは、よく言われるような「内なる他者」ではなかったかと思います。地域的には自分も、自分が見ている対象も同じ「アジア」の中にいるんだけれど、それでも相手は他者であり、距離がある。そのような他者へのまなざしを更新できないか。またはその複雑なつながりや隔たりがどのように内在化されているのかという問いを出発点としています。その問いについて考えてゆくには、ひとつではなく、複数の視座からの考察が必要で、アジアの現代美術に関わってきたキュレーターたちとの共同企画としました。というのも、日本とシンガポールとオーストラリアから見るアジアの像というのは違うし、その違いがどこからくるのかを考える重要性もあるからです。たとえば、それぞれの美術館の事業や、そのミッションはどのような文化政策と結びついているのかということも含めて。
他方、自分の国や自分が関わる国の歴史に対して、客観的な立場でリサーチをし、知り得ない何かがあるということにも目を向け、表現できる若い作家たちが出てきています。彼らの実践に共感し、そのような作品を取り上げることに意味があるんじゃないかと思いました。つながりも隔たりも増幅する現代社会の状況で、私たちはどのような共通の問題意識をもてるのかというところが、この展覧会の軸ともいえる問いかけとなっています。
──展覧会のタイトルに「アジア」という言葉を入れたらわかりやすかったんだろうと思うんですが、そこはあえて入れなかったんですね。
崔:それは私たちがこだわったことのひとつなんです。「アジア」というと、「新しいアジアがここにある」とか、「私たちが知るべきアジアはこれだ」とか、90年代から繰り返されている「アジア」という言葉自体に内在するいろいろな問題をまた繰り返してしまう。それに「日本も含めてアジアだ」とか、「どこまでをアジアとするか」とか、いろんな説明や言いわけが必要になってくる。もうそういう括りにこだわらないでいいような時代が来てもいいはずなのに、と共同キュレーターと話したこともきっかけで、今回はタイトルには「アジア」を入れませんでした。
相馬:「アジア」と言ったときに、常にオリエンタリズムのフレームが起動してしまうというのは、何世紀も前からそうですよね。私たちはほかのアジアの地域、あるいはアフリカでも南アメリカでもいいんですけれども、西洋以外の地域と向き合うとき、そういうステレオタイプをなかなか払拭できないのが現実です。
大友:そうなんですよねえ。今、アフリカの話がでたけど、僕自身もアフリカって言われると、やっぱりひとまとまりに、ついつい見てしまう。
相馬:ある他者に興味を持って目を向けたときに、まず自分の中にあるフレームで見るということはなかなか避けられないと思います。でも、そのフレームがだんだん書き換えられていくという経験をすることが大事だと思うんです。私は入り口として、「アジア」というフレームがあってもまったく構わない。むしろ、そのフレームに染み付いた刷り込みが、だんだん漂白されていくような場や見方を組織していけばいいのではないかと思っています。
ただ、私たちがアジアをアイデンティファイするときに、必ず通らなくてはいけないのが、西洋近代的なものの考え方や社会システムとどう折り合いをつけるかということだと思います。好むと好まざるとに関わらず、今日の社会が西洋近代的システムで動いているなかで、アジアにおける個、というものを自己定義していく必要がある。そもそも現代美術という制度が西洋近代の産物である訳ですから。ただ、そのときに、アジア特有の地域性や個々の身体からにじみ出てくるものも確実にあると思うんです。あるときは西洋近代のフレームで思考し、あるときはアジアの固有性を武器にする。私はアジアで何かやっていくとき、そういう複数性というか、どっちのスイッチでもいけます、みたいな柔軟さがむしろ強みになるなんじゃないかと思っているんです。自分がたったひとつのアイデンティティにしか帰属しないという西洋近代的な自我を超えて、複数のアイデンティティを一度に身にまとうような複数性がむしろポジティブに働くのではないかと。
私はアジアというものの定義を厳密に考え過ぎると、逆にアジアが本来持っている複数性の豊かさみたいなものを見逃してしまうことにもなるような気がしますね。
崔:インドのあるドラマトゥルグが言っていたことなんですが、シンガポールが「アジア」という概念を必要としているようにはインドはそれを必要としていない、と。シンガポールは多民族国家で、文化的ハブとして自分たちを確立していくときに、例えば美術でいえば東南アジアのコレクションを構築していくとか、文化的資本、ある種の共同体とか文化圏の発明を必要としている。いわゆるヨーロッパで生まれた「アジア」という言葉が、ここで再利用されているということだと思うんです。そういうものはまったくインドは必要としていない。なぜかというと、インドという大国ではその中の多様性をどう考えてゆくかで手いっぱいだと。
私はその話を聞いたときに、日本でいう「アジア」という概念、言葉が持っている問題のひとつの側面が見えたような気がして、その言葉から距離を置いてみたいなと思ったんです。
いま「アジア」「アジア」って言いだした背景には、経済的な目的や、国家の利害関係が見えるんです。そういうところで、私は「アジア」という言葉に対しては、疑念でいっぱいなんです(笑)。あまりポジティブに見れない。じゃあ、なぜそれでも何かしらのつながりを希求しているのか、ということですね。
お互いに対する知識の非対称性
相馬:私は最近台湾で仕事をすることが多いのですが、残念ながら中国語はまったくできません。でも、台湾で5人の人に会えば1人ぐらい日本語がわかる人がいますし、おじいちゃん、おばあちゃんが日本語を話せるという人もたくさんいる。自分が知っている台湾の文化といえば、映画監督やアーティストを何人か知っている程度ですが、彼らは日本のサブカルから文学に至るまで、小さい頃から普通に受容している。つまり、日本と台湾の間では、他方に対する文化的興味や情報量が、圧倒的に非対称な訳です。単純に自分の努力が足りないというような話だけではなくて、隣国の文化が一方向にしか流れていない、もう一方向には自然と入ってこない環境にいるということにもっと自覚的であるべきだと痛感しました。
この間、台南で友人からお土産に市販しているDVDをもらったんですが、それは戦前の日本がつくった国策記録映画でした。日本統治に対する告発的な意味を含んだ意図で制作されたDVDなのかと思いきや、まったく逆でした。この日本の国策記録映画が、台湾の人たちにとっては、原住民族の踊りとか、当時の都市の様子がかなり克明に映像として残されている貴重な記録なんです。だから、自分たちの国の歴史や文化、アイデンティティを考えるのに重要なものとして、普通に市販されているんですね。
その映像が彼らにとって貴重なのはわかる。しかしそのナレーションは、日本がいかに台湾を国益のために搾取してきたかを物語るもので、しかも当然オリジナル言語は日本語なので、自分はそれが直接的にわかってしまうわけです。台湾の人は当たり前のようにそういうものを見ていて、そういう歴史の延長線上に今の日本を見ている。けれども私たちは、そもそも戦前の日本がつくった国策映画を見る機会など全くありません。どういうまなざしで、自分たちの先祖が彼らを見てきたかということすら知らない。これを恥ずかしいと言ったらそれまでなんですけど、この圧倒的非対称性をいかに乗り越えていくか。芸術云々以前の問題として、とてつもなく課題が大きいと感じます。
大友:アジアはどこに行っても、「ここに昔日本軍の飛行場があったんです」とか言われる。別に恨んで言っているわけではないんだけど
相馬:じゃあ、私たちが先祖の責任をとって、ひたすらそれをわびるような活動をすればいいかというと、そういうことでは全然ないわけです。ただ、事実としての歴史を知る、という最もベーシックなところにさえリーチできていないというのは、やはり日本における教育の大きな欠陥だと言わざるを得ません。
──では、ここで会場の方から質問をおききしてみたいと思います。
聴衆:展覧会のタイトルには、どうして「他者」ではなく「他人」という言葉を使われているのでしょうか。
崔:学術的に使われるのは「他者」のほうですが、「他人」という言葉から感じるざらざらした質感、すぐ隣にいるけど知らない人々、自分の生活圏に近い他者をイメージしていただきたいと思いました。
「他人の時間」でツイッター検索すると、「他人の時間を無駄にするな」とか、「他人の時間を使い尽くせ」とか、そういうのが結構あがっているんです。「他人の時間」という言葉にはテリトリー感覚があるんですよね。そういう現実的な隔たりを感じさせつつ、それでもつながりを見出すことは可能かという意味を持たせたくて、「他人」という言葉を選びました。
大友:音楽の話にひきつけて言うと、欧米で演奏するときの共演者たちとは、音楽の歴史軸やコンテクストをある程度は共有しているんです。小さいころビートルズやツェッペリンを聞いてたとか、ジョン・ケージとかジョン・ゾーンを知ってるとかね。だけど、インドネシアやタイだと、出会う人たちとの音楽的なコンテクストの共有がすごく少ない。全く違う音楽を聴いて育ってたり、音楽に入る切っ掛けが全然違ってたりで、それがおもしろくて。ヨーロッパで共演する人たちはある程度想像つくんですよ、次の一手が。だけど、想像つかない人たちがいっぱいいて、「他人の時間」と言ったときに、そういうのをちょっと思い出しました。これまで僕にとって今まで一番想像つかなかった相手は知的障害の子供たちなんです。いまはもう10年も一緒に音楽 をやっているから想像つくようになったけど、同じ日本に住んでいても、知的障害の子供と僕とでは全然違うコンテクストで生きてきたってことだと思うんです。そのなかで音楽をつくるっていうのはどういうことなのかって、僕にとっては本当におもしろい問いなんですよ。だから、単に国とか民族だけでなく、近所にもそういうのはあるってことなんだと。すいません、話がそれちゃったかな。
崔:いえ、全然それてないです。「他人の時間」というのはアクセスできないものだという前提から始まっているんです。
大友:そうですよね。時々アクセスすると問題が起こるくらい。(笑)
コンテクストに縛られない余白
相馬:この展覧会の作家は、大きくは同時代のアジアの地域で活動している表現者という括りですよね。しかもすごくゆるい設定として「他人の時間」という、複数の時間を表出する作品が展示されている。時間にも、ベタな意味での時間もあれば、歴史や記憶ということも非常に重要なファクターとして含んでいる。アーティストの選定にはどういう意図や基準があったんでしょうか。
崔:「他人」をどう見るかは、自己をどう捉えるかということとつながっていると思うんです。観る人々の想像や解釈の可能性をそこまで開いている作品かどうか、そして、自分が他者に持っている視線のモードのようなものを跳ね返すような力が作品にあるかどうかということは重要でした。例えば、展示作品に1970年、72年に撮られたベトナム戦争のときの写真がありますよね。あれは八十歳を超えた写真家ヴォー・アン・カーン★7 のもので、ドキュメンタリーとは思えないような現実がそこに表れている。いま、あの作品を見ると、自分たちがベトナム戦争に対してどういうイメージを内在化しているのかということに気づかせてくれる。そんな作品を組み合わせています。
相馬:大まかに言って、映画とか演劇って、そこに物語や役者の身体があるという意味において、もう少し日常に近いというか、俗っぽいものだと思うんです。でも、美術の展覧会はやはりすごくハイコンテクストだなと。特にこの展覧会の場合、複数の時間が流れているので、私たちは一つひとつの、例えばフィリピンの現在の政情とかわからないなかで見ざるを得ないわけです。そうすると、自分は作品にアクセスできてないんじゃないか、他人の時間に対してリスペクトが足りないんじゃないか、というようなことも考えさせられてしまいます。
崔:それぞれの作品は、具体的なコンテクストから生まれているということは間違いないですが、例えばキリ・ダレナ★8 のフィリピンのデモンストレーションのプラカードを真っ白にした作品があります。これは一切の言葉の不在によって、それぞれの出来事を「知る」ことを不可能にしていますが、同時に観客が自分の想像をそこに投影できる余白を持たせています。これは、この展覧会において非常に大事なことだと思っています。それによって自分と作品とのユニークな関係性ができたり、作品に没入できたり、自分の解釈ができたりすることを、なるべく大事にしたつもりです。なので、作品の背景にあるコンテクストを知ってなきゃいけないとか、そういうことを言うつもりはないです。それを説明するテキストや資料を全部出しておいてあげるのかがいいかというと、それも違うかなと思っています。それが美術にどこまで必要か、悩んでいるところではあるんですけれども。
相馬:私も海外の作品を日本に紹介するということをずっとやってきたので、その悩みはよくわかります。ローカルなコンテクストもすべて合わせて紹介しなければその作品を紹介したことにならないのかというと、そういうことではないし、わからないということをわかるだけでもすごく価値があるというのはある。
この展覧会では、作品と作品の関係性の縫い目が良い意味で粗い気がします。縫い目がきついと、アジアの同時代性とか、そういうとても窮屈な見方になってしまうんだけど、余白の自由さを感じると同時に、見る側のリテラシーを試されるなあと思いました。
大友:確かにどの作品も余白のようなものがあって、「アジア」という見方だけが入り口にはなってない。もちろん作家は意図して余白のようなものをつくっているところもあると思うんだけれども、見る側からしてみたら、余白というか……言い方を変えればある適当な解釈がゆるされる部分みたいなもんがないと、見ていて窮屈になっちゃうと思うんです。アジアのこの地域のものだったら政治的に見て行かなくちゃ……みたいなものだけに縛られると窮屈になってしまうというか。もちろん異なる文化が交流する際って、丁寧に背景を説明していく必要はあると思います。でもその丁寧さだけが入り口になっちゃうのは、違うなって思うんです。そうじゃない窓口みたいなものがあってもいいかなと思う。居酒屋で一緒になったよその国の人としゃべってるような。
相馬:適当さというか、普通でやったら引っかかってこないノイズや雑多なものをすくい上げていきたいですね。今、すごい数の日本人が国の予算で東南アジアにリサーチに行っていますよね。でも、同じ回路で同じところに行って、同じ人に会って、同じようなものに触れていても、想定外のものには出会えない。だから、リサーチ方法自体を独自に開発していく必要があるなと感じています。
大友:わたしがお願いしたディレクターたちは、みんなこれまでそれぞれが独自にやってきた方法でやっていて、従来のネットワークとはずいぶん違うものを見つけ出してくれてます。多分、音楽でそういうことをやっている前例があまりないせいもあると思うのですが、全員が現場の人たちだからってのもあると思います。おかげで窮屈ではないし、ノイズが沢山入り込んで来る余地があって、非常にいいなって思ってます。音楽の現場って本来そういうものだし、音楽よりも前に理屈が勝ってしまうようでは、ダメだとも思ってますから。
相馬:これは長期的なプロジェクトになると思うんですけど、芸術公社ではこれからアジアにおける批評や思想のプラットフォームをつくる計画です。日本がイニシアティブをとって日本語と英語で、というようにやっていくと大抵おもしろいことにはならないので、中国語圏、韓国語圏のパートナーと一緒にやり始めています。その中で、リサーチする方法自体も一緒に考え、発明していきたいと思っています。
(2015年4月25日(土)、東京都現代美術館講堂)
★1 2015年1月15日号 鼎談「アジアで、しなやかなネットワークを築く」脚注★8を参照。http://artscape.jp/focus/10106671_1635.html
★2 2015年1月15日号 鼎談「アジアで、しなやかなネットワークを築く」脚注★7を参照。http://artscape.jp/focus/10106671_1635.html
★3 2015年1月15日号 鼎談「アジアで、しなやかなネットワークを築く」脚注★17を参照。http://artscape.jp/focus/10106671_1639.html
★4 http://orchestra.ensembles.asia/
★5 http://www.soundsresearch.com/
★6 2015年4月11日(土)〜6月28日(日)、東京都現代美術館で開催。 企画:崔敬華(東京都現代美術館)、橋本梓(国立国際美術館)、ミシェル・ホー(シンガポール美術館)、ルーベン・キーハン(クイーンズランド州立美術館|現代美術館) 出品作家:キリ・ダレナ、グレアム・フレッチャー、サレ・フセイン、ホー・ツーニェン、イム・ミヌク、ジョナサン・ジョーンズ、河原温、アン・ミー・レー、バスィール・マハムード、mamoru、ミヤギフトシ、プラッチャヤ・ピントーン、ブルース・クェック、下道基行、ナティー・ウタリット、ヴァンディー・ラッタナ、ヴォー・アン・カーン、ヤン・ヴォー
★7 Kiri Dalena 1975年マニラ(フィリピン)生まれ、同地在住。ドキュメンタリー映画を学んだのち、主に自国の社会政治的状況とそれに対する人々やその生活をテーマにする。
★8 Võ An Khánh 1936年バクリエウ(ベトナム)生まれ、同地在住。1960年代初頭から15年に渡って、ベトコン・ゲリラの覆面写真家として活動した。2002年、国際写真センター (ニューヨーク)で彼自身が秘蔵していたネガが発表され、注目を集める。