2024年03月01日号
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トピックス

日本・フィンランド発 2つのアートプロジェクト──アートが私達にもたらしてくれるもの:フィンランド国立アテネウム美術館×DNP ミュージアムラボ セミナーレポート[前編]

坂口千秋(アートライター)

2018年03月15日号

「幸せになる美術鑑賞」をテーマに、心の働きや記憶への作用を反映させた美術鑑賞プログラムの共同研究を進める、フィンランド国立アテネウム美術館とDNPミュージアムラボは、高齢化社会を対象とした新しい美術鑑賞の手法の開発に取り組んでいる。昨年そのキックオフを記念したシンポジウム「ミュージアムの幸せ効果 ──美術鑑賞の可能性から考える──」が開催され、artscapeでもレポートした。その続編となるセミナー「日本・フィンランド発2つのアートプロジェクト ──アートが私達にもたらしてくれるもの」が1月、東京で開催された。2019年の日本とフィンランド外交関係樹立100周年に向けて進行中の2つのプロジェクトを軸としたこのセミナーの模様を、2回に分けてレポートする。前編では、2019年完成を目指して取り組む高齢者を対象とした美術鑑賞プログラム研究の中間報告、後編ではアテネウム美術館が企画中の展覧会「北欧のジャポノメニアⅡ」の概要と、北欧のジャポニズムについてのパネルディスカッションの様子をお届けする。

アテネウム美術館(1887年完成)[設計:テオドル・ホイエル]©Susanna Petterson, Ateneum Art Museum, Finnish National Gallery

心も身体もずっと健康で暮らしたい。それはすべての人が望むことだろう。日本は世界最速のスピードで高齢化が進んでいる。2015年の日本の総人口のうち65歳以上が占める割合は27.3%、このまま行けば2060年には38.4%に達する。WHO(世界保健機構)の定義では、65歳以上の割合が全人口の21%を超えた社会を「超高齢社会」と呼ぶ。よって日本はすでに超高齢社会から超超高齢社会へと突き進んでいるのだ。ショックではあるが避けられない現実だ。長くなった人生を楽しく健やかに送るために、美術鑑賞はどう役に立つのか。この課題に共同で取り組んでいるのが、アテネウム美術館とDNP ミュージアムラボである。

アートの意義
スサンナ・ペッテルソン(フィンランド国立アテネウム美術館館長)

美術鑑賞を仲立ちする美術館の役割

フィンランド最大のコレクションを所蔵する国立アテネウム美術館のスサンナ・ペッテルソン館長は、「アートの意義」という基調講演の冒頭、幼い頃祖母と一緒に初めてアテネウム美術館を訪れたエピソードを語った。小さな彼女が感動したのは、大きな階段と床の模様、絵画の中の女性の長い髪だった。のちにそれがフィンランドを代表する名画だと知るのだが、幼少時に受けた感動はずっと忘れていないという。そうした感動の体験をいま、何百万人という来館者へ届ける立場にいるペッテルソン館長は、アートの力を信じるひとりである。「アートは世界を違った眼で眺め、新しい学び、深い洞察を与えてくれます。もっとも難しく困難な出来事に向き合うことを可能にし、思考を明晰にし、問題解決に役立つこともあります」と、ペッテルソン館長は語る。

しかしそれゆえに、アートはしばしばアイデンティティへの攻撃や検閲の対象とされる。ペッテルソン館長は、歴史上表現の自由はしばしば脅かされ、その危機はいまも続いていると言い、社会がアーティストを守らなければならないと主張した。「ただ美しいものをつくるからではなく、もっとも不安で困難な問題についてみんなで話し合うために、私たちにはアーティストが必要なのです」と強調した。

幼い頃祖母と連れ立って出かけたペッテルソン館長のように、美術館にはさまざま年代のさまざまなタイプの人が訪れる。そして彼女が作品ではなく空間に感動したように、美術館での体験は、心理的要因や社会的要因、空間などの外的要因によって気まぐれに変化する。また加速するデジタル社会では、オンラインで24時間、美術館も眠らない。ペッテルソン館長は、館とオンライン両方の来場者の体験に注目したバージョンアップが常に必要だと言い、現代の美術館に求められるさまざまなニーズを挙げていった。幸福=ウェルビーイングの効果、新しい学びの場としての可能性、そして誰でもアクセスできる環境や速いレスポンス、現代的なコンセプトなどが求められている。「館自体が媒体となって発信し、そこで働く私たちも発信することが求められます。今後ますますデジタル領域は拡大していくでしょう。だからこそDNP ミュージアムラボとのパートナーシップは重要です」。収集、展示、研究といった専門性を高めつつ、同時に多面的なミッションに向き合いながら、社会や人生と結びつき、人々のためにあろうとすることがもっとも大切だとペッテルソン館長は語る。美術鑑賞の研究も、幸せな記憶を人々に届けるためにある。アテネウム美術館のFacebookをのぞくと、大階段でのコンサートの模様がアップされていた。ペッテルソン館長が幼い頃に感動したのと同じ場所だ。美術館とは“記憶”の集まり──という館長の言葉が思い出された。「表現の自由が保障され、見たことのないものと出会い、気持ちが高揚して感動する、人々のそうした権利のために、美術館は日夜つとめなければなりません」。

スサンナ・ペッテルソン氏

美術鑑賞がもたらす「心」への作用
川畑秀明(慶應義塾大学准教授)

高齢者向け対話型鑑賞ワークショップの実験

美術鑑賞は人の心にどのように有効に作用するのだろう。何かを見て「美しい」と思うとき、私たちの脳内では、眼窩前頭皮質という領域の活動が活発になっているという。昨年のシンポジウムで、こうした「美しい」と感じるときの心のメカニズムを詳しく解説した慶應義塾大学准教授の川畑秀明氏は、この高齢者向けの美術鑑賞プログラムの共同研究に、心理学的・脳神経科学的な見地から参画している。

美術鑑賞が人の幸せに有効に作用することは、さまざまな研究からおおむね明らかになってきていると川畑氏は言う。美術作品に触れることで、生活満足度や健康状態が増加するという研究も紹介された。けれどもこうした研究は質に関するものが多く、科学の観点からは「どのくらい」といった定量化や「どのように」というプロセスを明らかにする必要があると川畑氏は指摘する。

対話型美術鑑賞のメリットと3つの手法

昨年日本とフィンランドで高齢者を対象に行なった実験は、美術鑑賞によって高齢者の認知機能の改善に働きかけるトライアルをワークショップのかたちで実施した。そこで採用したのが対話型の美術鑑賞法という手法だ。なぜ対話型なのか。川畑氏によれば、最近のさまざまな研究から、対話型の鑑賞スタイルの持つ意義が明らかになってきたというのだ。

ウィーン大学の研究によると、言語化しながら美術鑑賞することによって、絵画に表現されている「もの」や「こと」を結びつけながら見ることや、自分の意識を理解することができるようになることがわかってきた。さらに抽象画の場合は、どういった作品かを示すと理解に効果的という結果を示す研究もある。

「言語を介した美術鑑賞によって、自身の知覚や認知や感情を結合して、問題解決スキルや批判的思考を開発することが可能になってきました。さらに言語による美術鑑賞からは、注意能力を改善する働きも示されています。注意機能を高めることで、記憶や認知機能を改善させる可能性があり、つまり芸術を見るというトレーニングが、他のさまざまな認知プロセスに良い影響を与えることもできるわけです」と川畑氏。ただ、現状はその改善のメカニズムについては、やはりほとんどわかっていないという。定量的な研究が難しい分野であり、探索的な努力が必要だと川畑氏は強調した。

ワークショップの様子(アテネウム美術館)©photo DNP

ワークショップは、教育型・外形型・内省型という3つの手法を用いて、ファシリテーターとともに実施した。教育型は、ファシリテーターが一方的に解説する方法。外形型は、よく知られるVTSのように「何が描かれているか?」「どうしてそう思ったか?」「他に気付いた点はないか?」など、作品の外形的な部分に注目して対話していく。そしてエモーショナル・フォーカシングと呼ぶ内省型の方法では「作品を見てどんな気持ちになったか?」「どうしてそのような気持ちになったのか?」など、心の中で起きていることに注目して対話する手法で、このプロジェクト独自の研究だという。これら3つの異なるアプローチでワークショップが行なわれた。


★──ビジュアル・シンキング・ストラテジー(VTS)は、作品を見ながらファシリテーターと対話していく美術鑑賞の手法。世界60カ国以上の美術館で実施され、アテネウム美術館でもグループ鑑賞の手法として実施されている(前回レポート参照)。

評価方法n-back課題とstroop課題

川畑氏は続いて、ワークショップの評価方法について解説した。n-back課題とstroop課題という、いずれも認知障害のテストによく用いられる2つの評価法で、記憶の働きや注意の働き、また心の柔軟性などの変化のプロセスを明らかにできると言われている。

まずn-back課題とは、文字と数字を交互にモニターに表示していき、0なら今表示された文字、1バックはひとつ前の文字を思い出して答え、2バックならさらにもうひとつ前、3バックはさらにその前、というように、次々に表示される文字を記憶して注意を切り換えながら課題に取り組む評価法だ。n-back課題は、私たちが記憶を一時保存するワーキングメモリー能力の測定にしばしば用いられる。「例えばスーパーに出かけていって、着いた途端に何を買おうと思ったのか忘れてしまうことがあります。私たちは頭の中に蓄えたものを常に監視しながら生活行動する必要があるのですが、それが抜け落ちてしまうことがたびたびある。n-back課題とは、そういう記憶の働きを明らかにする評価方法です」。

もうひとつのstroop課題は、提示されている文字の色を回答するテストで、赤という文字が赤色で書かれているときと、青色で書かれているときのように、文字のパターンと色が一致しているときと一致していないときの反応時間と正解率を見るものだ。

認知症患者や高齢者の記憶能力が落ちるのは、記憶をつかさどる脳の働きが落ちて使う脳の面積も小さくなり活動量が減ることが原因といわれる。また反応に関わる脳の前頭葉から頭頂葉にかけての領域も活動範囲が狭くなっていく。このように人間は高齢になるにつれて脳の働きが変化していき、それがさまざまな記憶の衰えや反応の低下につながっていると川畑氏は解説した。

川畑秀明氏

日本とフィンランドでのワークショップ
サトゥ・イトコネン(アテネウム美術館パブリックプログラム担当)/
田中美苗(大日本印刷株式会社)

ワークショップの実践と評価

では、実際どのような人が参加してどのようにワークショップは行なわれたのか? その評価は? 日本とフィンランドでワークショップを担当したDNPの田中美苗氏とアテネウム美術館のサトゥ・イトコネン氏によるプレゼンテーションにプログラムは進んだ。

ワークショップは65〜75歳を対象に、1グループ4名1組で3グループが参加。前述の教育型・外形型・内省型という3つの手法のいずれかで計3回、ファシリテーターを交えて行なわれた。そのほかインタビューと認知機能テストが行なわれた。

日本では特に美術鑑賞を好む人を選んだけわけではなかったが、フィンランドでは美術館のFacebookを通じて募集したため、普段から美術鑑賞に興味ある人が集まった。会場は日本が企業ショールーム、フィンランドはアテネウム美術館。このように両者の条件は少し異なる。ワークショップでは、毎回4つのカテゴリー(肖像/風景/物語性/抽象)から1点ずつ選んだ4点の絵画を見せた。日本は国立近代美術館と国立西洋美術館のコレクションから、フィンランドはアテネウム美術館のコレクションから選んだ。この作品選びが重要だったと両者は語る。「会話のきっかけがつかみやすい」「異なる見方ができる」「どこか気になって理解したいと思わせる」「インスピレーション豊か」など、1点ずつその効果を考えて選んだという。また3回目は少し傾向を変えるなど、参加者の経験も考慮したという。

ワークショップの最中は、日本の参加者が比較的おとなしかったのに対し、フィンランドは積極的で参加者同士でも盛んに対話していたという。参加者のタイプや環境の違いはあったが、どちらの参加者も全員ワークショップを楽しんだと評価した。

そして気になるワークショップの結果だが、自分の気持ちにフォーカスする内省型の群において認知機能テストの結果が向上する可能性を示唆する結果が得られた。また作品によるところはあるが、全体として回を重ねると参加者の発言にポジティブな言葉が増える傾向も見られた。まだまだ仮説の域を出ないが、可能性のある結果が得られたようだ。

また、科学的な評価の他にも成果が見られた。他の参加者の発言に共感したり、影響を受けたりしながら対話する姿勢は、両国の参加者ともに見られたという。「人間はいくつになっても何かを学び向上すると喜びがあります。参加者が認知テストに上手く回答できるようになるととても嬉しそうでした」と田中氏。「みんなこの結果が何をもたらすのかとても興味を持っていました。最後に参加者と美術館で本物の作品を鑑賞するツアーを行ない、ほぼ全員の方が参加してくれました」とイトコネン氏。

この共同研究で、高齢化する社会において、認知機能への効果的な働きかけやそれによって幸福感の促進につながるような美術鑑賞手法の研究を目指していくと川畑氏は語った。さらなる研究の成果を期待したい。

(左から)サトゥ・イトコネン氏、田中美苗氏


【後編に続く】(2018年4月1日号にて更新予定)



フィンランド国立アテネウム美術館 × DNP ミュージアムラボ セミナー
「日本・フィンランド発 2つのアートプロジェクト ──アートが私達にもたらしてくれるもの」

会場:DNP五反田ビル 1Fホール(東京都品川区西五反田3-5-20)
日時:2018年1月26日(金)10:30~15:30(10:00開場)
主催:大日本印刷株式会社 DNP ミュージアムラボ/フィンランド国立アテネウム美術館
登壇者:スサンナ・ペッテルソン(アテネウム美術館館長)、川畑秀明(慶應義塾大学准教授)、サトゥ・イトコネン(アテネウム美術館パブリックプログラム担当)、田中美苗(大日本印刷株式会社)、アンネ=マリア・ペノネン(アテネウム美術館学芸員)、アンナ=マリア・フォン・ボンスドルフ(アテネウム美術館主任学芸員)、杉山享司(日本民藝館学芸部長)

DNP ミュージアムラボ

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