アート・アーカイブ探求

鈴木其一《朝顔図屏風》メビウスの輪の飾り──「玉蟲敏子」

影山幸一

2011年08月15日号

銀色の世界

 玉蟲氏は子どもの頃より絵は見るのも描くのも好きだったと言う。しかし、本格的にアーティストとしてやっていくには自信がなく、美術と研究がうまく総合的に噛み合う「美学美術史」の道を選択したそうだ。1972年、当時高校生だった玉蟲氏は、東京国立博物館で開催された「琳派展」や「別冊太陽」の特集、琳派百図を見ながら、ファインアートだけではない、デザインや工芸なども関わってくる総合芸術の琳派に魅力を感じ「ジャンルを隔てないところが日本美術の特長ではないか、と勝手にそう思った」と言う。
 そして東北大学に入学し、当時指導教官だった美術史家の辻惟雄氏に連れられて行った東京国立博物館で、酒井抱一の《夏秋草図屏風》と運命的な出会いをした。俵屋宗達や尾形光琳などのきらびやかな世界とは違い、「銀色ですごくきれいだけど、ものすごく寂しい。何だろう」と銀色の世界に引き込まれたそうだ。そして、卒論のテーマを抱一とし、1980年東北大学大学院文学研究科東洋・日本美術史専攻を修了、2004年に博士号を取得した。1980年から2001年まで静嘉堂文庫美術館主任学芸員、そのうち1992年から2000年は東京国立文化財研究所情報資料部調査員を兼任し、2001年より武蔵野美術大学の教授を務めている。

噲々其一と菁々其一

 其一の《朝顔図屏風》を玉蟲氏が最初に見たのは1980年代の半ばだという。アメリカへ調査に行った際、ニューヨークのメトロポリタン美術館で実見した。「すっきりしています。余分なことを考えなくていい。造形性ということなのでしょうね」とその第一印象を述べた。
 鈴木其一は1796(寛政8)年に江戸に生まれている。名を元長、字(あざな)を子淵といい、18歳で酒井抱一に入門した。父は近江の出身で後に江戸で紫染めを創始した職人だった。其一は抱一の付き人で、また抱一の兄の酒井忠以(ただざね)の家臣であった鈴木蠣潭(れいたん)の姉りよと結婚し、1817(文化14)年鈴木家の家督を継いだ。抱一と其一は師弟の間柄であると共に家臣の関係でもあった。
 其一が記した『癸巳(きし)西遊日記』(全5冊)によると、其一は1833年、38歳のときに江戸から京阪、姫路を経由して九州に至る絵画修業の旅に出ている。雄大な自然の景観に感銘を受け、夢中で写生を繰り返した。そこで自然のダイナミズムに目覚めた其一は、季節の移ろいだけではなく、自然の持つスケールの大きな生命感を表現しようとした。《朝顔図屏風》はその延長線上にある。
 其一の作品は、抱一に師事していた頃と、抱一が死去した1828(文政11)年以降では作風が異なってくる。玉蟲氏は其一の画業を次の3つに分けて説明している。(1)抱一へ入門した時から抱一没年までの15年間の修業時代(1813[文化10]年〜1828[文政11]年)、(2)落款に、寛大で明らかなさま、快いさまを意味する「噲々(かいかい)」を加えた12年間の画風高揚期(1829[文政12]年〜1841[天保12]年頃)、(3)落款に、盛んなさまを指し転じて人材を育成することを意味する「菁々(せいせい)」を加えた14年間の画風円熟期(1844[弘化元]年頃〜1858[安政5]年)。《朝顔図屏風》には「菁々其一」の落款がある。
 歌川広重(1797-1858)と時を重ねるようにして生きた其一、その弟子は中野其明、稲垣其達、村越其栄、市川其融など。また其一は、守一、誠一という息子と4人の娘がいた。幕末の絵師河鍋暁斎(1831-1889)は其一の次女阿清を最初の妻にしている。1858(安政5)年其一63歳、コレラで没したと伝える。

【朝顔図屏風の見方】

(1)モチーフ

朝顔。

(2)題名

朝顔図屏風。

(3)構成

尾形光琳の《燕子花図屏風》を連想させるシンプルな単一モチーフによる構成。

(4)構図

画面全体に計算された曲線を用いた理知的で大胆な構図。

(5)サイズ

六曲一双、各縦178.2×横379.8cm。通常の画面よりひと回り大きい大画面はパトロンからの要求とも考えられる。

(6)色彩

金、青、緑、白。総金地の背景に花の青、葉の緑という鮮烈な色を対比させ、そこに白を入れることで生き生きとした生命感を表わしている。

(7)画材

紙本金地着色。金箔、群青、緑青、胡粉。

(8)制作年

19世紀中期、其一50歳代前半の円熟期の作。

(9)季節

初秋。

(10)落款

右隻と左隻ともに「菁々其一」の墨書と「為三堂」の朱文円印。

(11)鑑賞のポイント

大きな五弁の朝顔150輪と蕾、そして大小の葉を茎に沿ってリズミカルに配置し、画面全体を龍が乱舞したように飾っている。蔓の先端などの処理には人の神経を刺激するような鋭利な感覚が見られ、そこにはアール・ヌーヴォー的のある種、官能的な要素も含まれている。また江戸時代後半、園芸ブームで多種多様な変化朝顔が世間に出てくるなかで「真打ち朝顔はこれだ」と、当時浮世絵などで流行していた真っ青なプルシアンブルーの色感を意識して描いたかもしれない。文学的な文脈などで深読みをしていくよりは直接作品を見て、明晰な形態の面白さを視覚的に楽しむ作品であろう。大胆さと繊細さの両方を備えたこの絵は、時代の持っている感性と其一の資質が合わさり、何かにひらめいて跳躍して出てきた作品だ。右隻の右から左へ目を移して行くと、朝顔の上からの動きと下からの動きのクロスする部分、それからコイルの曲線のような蔓の先端の動きに目も同調して流れて行く。左隻は右隻の動きを受けていそうだが、直接のつながりはなく、上下の茎の流れに沿って行くと、前後、表裏がわからなくなり、メビウスの輪のようになっている。

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