アート・アーカイブ探求
片山楊谷《竹虎図屏風》獣毛の生気──「山下真由美」
影山幸一
2013年09月15日号
巨大な毛虫
2013年9月8日早朝、国際オリンピック委員会(IOC)のジャック・ロゲ会長が「トウキョウ」と告げた。黒文字で「TOKYO 2020」と書かれた白いプレートを示し、7年後の2020年五輪開催都市が東京に決まった。歓喜に沸く会場の中で、ロゲ会長の落ちついた声と静かな表情が印象に残った。スポーツの祭典が国家の希望となることに気づかされた。プレゼンでは皆が全力を尽くし、そこに神は宿ったのだろう。この「アート・アーカイブ探求─絵画の見方」も毎回全力で描かれた絵との出会いだが、絵を描いていなければ、生きていけない、とおぼしい画家たちに時空を超えて出会うことができる。
気の遠くなるような毛の密集した表現が、一瞬巨大な毛虫に見えた。ネット検索で出会った作品にドキッとした。作品が掲載されている論文にはいまから200年以上前の江戸時代の作とあった。毛虫はよく見ると虎だった。生き物のようにうねる太い竹も描かれていた。
片山楊谷(ようこく)の《竹虎図(ちっこず)屏風》(個人蔵)である。初めて聞く絵師の名で、一度も実物を見ていないが、絵の異様な迫力と論文「片山楊谷筆『竹虎図屏風』について」を頼りに探求を進めてみることにした。この論文を執筆した鳥取県立博物館の山下真由美氏(以下、山下氏)に連絡を取ると育児休暇中であるとのこと、若い学芸員であることはわかった。しかし、個人所蔵の作品は写真掲載の許諾を得る時間が掛ることもあり、諦めかけていた。すると博物館の計らいで山下氏と連絡がつき、京都でインタビューすることが可能となった。さらに山下氏の尽力で鳥取の作品所有者である雲龍寺の大井住職が実物を見せてくれるという。羽田発、鳥取経由京都行き、という絵をつなぐ縁ができた。
《竹虎図屏風》と対面
鳥取空港からバスと山陰本線を利用して雲龍寺を訪ねるつもりでいたが、交通機関の連絡が悪く不便なところであることを知らされた。住職が空港まで迎えに来てくださることになった。空港での待ち合わせは、作務衣を着ているからすぐわかる、と住職。日本列島各地が記録的な豪雨に見舞われ、島根に大きな被害というニュースで台風も発生し、鳥取まで無事に行けるのか心配しながら飛行機に乗った。
彼の地は小降りで一安心、気温22度と東京より10度も低い。車で30分ほどの寺ではすでに六曲一双の屏風が開かれ私を待っていた。迫力あるダイナミックな絵柄、執念をもって描いた無数の線描にもかかわらず、絵肌はしっとりと控えめだった。虎の顔や落款、全体像などの写真も撮らせてもらい、《竹虎図屏風》を十分に鑑賞させていただいた。鳥取の文化力を実感しながら、明日は京都である。
文学と美術との重なり合い
今年3月に出産し、帰省中のところ大阪枚方市から京都へ来ていただいた山下氏は、日本近世絵画史を専門とする鳥取県立博物館の主任学芸員である。1978年大阪府生まれ。同志社大学文学部で日本美術史を学び、京都大学大学院人間・環境学研究科を修了後、2003年より鳥取県立博物館で学芸員を務めている。
山下氏は小さい頃、古墳好きな父親と一緒によく遺跡などを見に行ったことが影響したのか考古学に興味を持ったが、図書館で全集などを見ているうちに、色がない世界に「何か違う」と感じるようになったと言う。京都の東山七条にある京都女子中学、高校に通っていた山下氏は、中高ともに煎茶部に入っており、当時は意図していなかったものの中国文人趣味を色濃く伝える日本文化に親しむこととなる。通学路に京都国立博物館があり、平常展や特別展へと足を運ぶうちに美術への興味が芽生え、高校生のときに美術史という学問があること、学芸員という仕事があることを知り「あー、いいなあ」と素直に思ったそうだ。絵を描くことには憧れがあったが、どちらかというと実技が苦手、印象派やクリムトなど、美しい作品を見るのが好きになった。しかし、西洋絵画を学ぶには大学に入ってからキリスト教を理解しなくてはいけないという壁に当たり、日本にいるなら日本の美術の方がよいと思うに至ったと言う。
卒論は浮世絵だった。かつて京都の百万遍にあった思文閣美術館で、鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし, 1756-1829)の肉筆浮世絵作品を見て感動し、肉筆浮世絵をやろうと思った。鮮やかな色彩の美人画と、大田南畝(なんぽ, 1749-1823)の賛から生み出される仮想の世界が粋で楽しく、特に文学と美術との重なり合いに強い興味をもった。その興味は修論にも引き継がれ、呉春の《白梅図屏風》における俳諧との関係をテーマに選んだ。
学芸員になる目標をもって、学芸員に就ければどこへでも行くという姿勢で就職活動をした結果、山下氏は鳥取へ導かれた。人口約58万人、全国47都道府県中最も人口が少なく、県立美術館のない鳥取では博物館の美術活動が担う役割は小さくない。
山下氏が初めて手掛けた企画展は「沖 一峨(おきいちが, 1797-1855)」展(2006)であった。鳥取藩の御用絵師である一峨を紹介した初の展覧会で、図録は資料性の高さから高く評価され完売した。楊谷作品について山下氏は、「いつ、どの作品を最初に見たのか覚えていないが、楊谷は長崎派の絵師というのが頭にあって、館所蔵の虎の掛軸を見たのが初めだったと思う。奇抜で異国趣味的、異国情緒があるのを感じ、また京都の絵を見る機会が多かったため、京都で活躍した虎の絵で有名な岸駒(がんく, 1749[または1756]-1839)と比較した。線の積み重ねによる量感の表出は同じだが、岸駒は線の主張を控え、より体躯に沿った繊細でリアルな表現をしているのに対し、楊谷の方はユーモラスで漫画チックでありながらも、岸駒とは違ったリアリズムがある」と述べた。